雷門

東京都浅草にある浅草寺の山門

東経139度47分47秒 / 北緯35.71111度 東経139.79639度 / 35.71111; 139.79639

雷門(かみなりもん)は、浅草寺山門東京都台東区浅草一丁目2番 - 3番地に位置し、雷門通りに面している。正式名称は風雷神門(ふうらいじんもん)であり、「雷門」と書かれた提灯の逆側には「風雷神門」と書かれている[1][2]

雷門。上から昼、夜、背面。
雷門。上から昼、夜、背面。

門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、朱塗りの山門である。門の中央には高さ3.9メートル、直径3.3メートルの提灯が吊り下げられており、浅草のランドマークとなっている。東京および日本を象徴する風景として、外国人向けの観光パンフレットお土産レリーフなどに写真やデザインが用いられることも多い。

歴史

『浅草観音雷神門』葛飾北斎

941年、安房国(現在の千葉県南部)の太守であった平公雅が、武蔵国(現在の東京都など)への配置転換を祈願。翌年、その願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願して伽藍などを寄進した。初代の雷門に相当する門は、その際に造られたとされる。[要出典]

雷門の呼称は、江戸時代川柳に初めて登場するが(「風の神雷門に居候」という句)、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明である。浅草寺教化部によると、雷門に大きな提灯が初めて吊るされたのは寛政5年(1795年[3]。雷門と書かれた提灯が浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられる。雷門はしばしば火災により焼失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。最後の火災は1866年慶応元年12月14日[4])であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての雷門は姿を消す。

明治年間から太平洋戦争後にかけては、様々な形態の仮設の雷門が登場したと伝えられる。いずれも博覧会の開催や戦勝記念、開帳など、その時々のイベント的な要素が強かった。素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもその都度違った。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられている。また、恒久門のない時代も雷門は地域名として用いられ、1924年には周辺の町名が「浅草雷門」となったほか、1931年に開業した東武鉄道の駅は当初「浅草雷門駅」と称していた。付近を走行していた市電(後の都電)にも「雷門」電停が設けられていた。

現在ある雷門は鉄筋コンクリート造で、1960年5月3日に開通式が行われ、10年ごとに大改修が行われている。再建費用を寄進したのは松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助である。かつて松下の神経痛平癒を祈祷した浅草寺貫首の清水谷恭順が1958年、上京中の松下に協力を依頼し、翌1959年に工事が始まった。大提灯も松下が奉納し、その後も新調されている[5][6]

なお、風神・雷神像は、火災で焼け残った江戸時代作の頭部に、明治時代に造られた胴体をつなげた像である。

大提灯

雷門。上:雷門の6基目の大提灯。中:畳まれる「雷門」の字。下:底面は木彫りとなっている。

雷門にかかる大提灯は浅草のシンボルとなっている[7][8]

提灯が吊るされるようになったのは前述のように1795年[3]で、雷門の屋根職人らが奉納したといわれる[7]歌川広重『浅草雷門前』の浮世絵では「志ん橋」(新橋)と書かれた大提灯が吊り下げられていたことがわかる[7]。幕末の雷門の焼失後(1865年)、1960年に松下幸之助の寄進により再建された際に、「雷門」と書かれた大提灯も同時に奉納された[7]

大提灯の大きさは高さ3.9メートル、直径3.3メートル、重さ約700キログラム[9][8](2000年代以降に新調されている大提灯)。本体は京都府亀岡市産のの骨組みに、福井県産のコウゾ100%の和紙を約300枚を貼り合わせて製作する[9][8]。上下の張り輪には金属製の化粧輪[9]が、また下輪の正面には「松下電器」と書かれた金細工の銘板も取り付けられている。なお、松下電器は2008年にパナソニックへ社名変更したが、2020年に下輪を新調した際、銘板は従来通り「松下電器」表記のままとされた(ただし、背面の寄贈者銘板に「現 パナソニック株式会社」と小書きされるようになった)。底部分の竜の彫刻は初代提灯から引き継がれている[7]

1971年から京都市下京区の高橋提燈が制作しており、約10年ごとに新調されている[9][10]。提灯は規模が大きく高速道路の料金所を通過できないため、京都から東京まで一般道を大型特殊トラックで2日がかりで輸送する[7]

三社祭の際には、神輿が下を通るため提灯が持ち上げて畳まれる。また、台風接近時や強風時にも破損を防ぐために畳まれる。

脚注

外部リンク