サラトフ (サラートフ ;ラテン文字 転写の例:Saratov 、ロシア語 :Сарáтов IPA : [sɐˈratəf] 、 発音 [ヘルプ /ファイル ] ) は、ロシア連邦 の都市。人口は約91万人(2021年)。沿ヴォルガ連邦管区 ・サラトフ州 の州都である。ヴォルガ川 有数の河港を持つほか、鉄道 が通る交通の要衝で、ソ連時代以来の工業、文化、教育の中心である。
概要 町の名はタタール語 で「黄色い山」を意味するサル・タウ(Sary Tau)から。
1590年 、ヴォルガ川の舟運の警備のために、ヴォルガ川右岸に要塞 が建設された。ヴォルガ・ドイツ人 の入植が進められた地域で、ドイツ人 コミュニティーが存在した。1870年 に鉄道でモスクワ と結ばれてから大きく発展した。
初期の社会革命党 (エスエル党)が、この街を活動拠点とした。ロシア革命 後は、ソ連の航空機や宇宙開発に関する生産が行われていたことで、外国人の立ち入りが制限されていた。
歴史 サラトフ市街 ヘロドトス の『歴史 』第6巻にはスキタイ の都市で古代ギリシア人の植民都市でもあったゲローノス(Gelonus)の名が登場する。これを、現在のサラトフ周辺にあったとする議論がロシアにはあるが、ウクライナ 中部のポルタヴァ州 にあったとする議論が有力である。ヘロドトスによれば、この町は紀元前512年 にアケメネス朝 ペルシアのダレイオス1世 に焼かれ滅ぼされたという。
中世の13世紀 から14世紀 頃の記録には、ジョチ・ウルス の交易都市ウケク(Ukek, タタール語: Ükäk)がヴォルガ川沿いのサラトフ付近にあったとある。ウケクはティムール 軍によって焼き滅ぼされたが、モスク、工房、住居などの遺跡は現在も残っている。
モスクワ国家 は1552年 にカザン・ハン国 を、1556年 にアストラハン・ハン国 を征服し、ヴォルガ川一帯はモスクワ領となった。ツァーリ ・フョードル1世 の治世に、モスクワ国家の東方国境とヴォルガの舟運の守りを固めるため、いくつかの要塞や町がヴォルガ沿岸に築かれた。1586年 の夏にはサマーラ に砦が築かれ、1589年 にはツァリーツィン(現在のヴォルゴグラード )に砦が築かれている。1590年 、グレゴリー・ザセキン公の指示でサマーラとツァリーツィンの中間点であるサラトフに砦が築かれた。サラトフの町の木造建築は、サラトフ建設の1年前にヴォルガ上流の町で組み立てが開始されていた。組み立てられた建物は、1590年の春に材木に印をつけて一旦解体され、下流に流されサラトフに陸揚げされて組み立てられた。こうしてすばやい要塞建設が可能となった。
サラトフという地名の由来は、砂のむき出しになった丘に囲まれていたことからタタール語で「黄色い山」を意味する「サル・タウ」(Sary Tau, Сары Тау )の名がついてサラトフに転じた、という説のほか、テュルク系語で「鷹の島」を意味するサリク・アトフ(Saryk Atov)が転じたという説もある。
サラトフ市街図(1892年) 1613年 の火災で、左岸のサラトフ川との合流点に移動されたのち、1674年 に現在の位置に移された。1708年 に都市として登録され、1780年 以降、サラトフ県の中心都市となっている。サラトフは18世紀にはヴォルガの主要な河港として交通や物流の中心となる。
サラトフの聖堂 モスクワ からリャザン を経てウラル地方を結ぶ鉄道 は1870年 にサラトフに達した。26年後の1896年 にはヴォルガ川対岸にも鉄道が完成した。リャザン・ウラル鉄道が所有する鉄道連絡船は、1935年 にヴォルガ川を渡る鉄道橋が開業するまでの39年間にわたり、サラトフと対岸のポクロフスク(現在のエンゲリス )の間を結び続けた。
第二次世界大戦 (独ソ戦 )の時期、サラトフはスターリングラード攻防戦 を後方で支える拠点となった。南北方向に兵員や武器弾薬などをスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)へ運ぶ特別列車が往復し続けた。戦後、市内に第238収容地区(グラーグ )が設置され、シベリア抑留 を受けた日本人捕虜 が遠路移送されてきた。捕虜は強制労働 に従事した[2] 。
1991年 のソビエト連邦の崩壊 間での間、軍用機の製造工場などがありソ連の宇宙計画 や空軍力を支えていたサラトフは、外国人の立ち入りを厳しく規制する「閉鎖都市 」となっていた。
ドイツ人コミュニティ サラトフのヴォルガ沿いの町並み、冬の夜 サラトフはヴォルガ・ドイツ人 の多く住む街でもあった。1941年 以前、サラトフ対岸のポクロフスク(ドイツ語名コザッケンシュタット Kosakenstadt、1931年 よりフリードリヒ・エンゲルス を記念しエンゲリス と改名)はヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国 の首都であった。20世紀初頭、ヴォルガ・ドイツ人は80万人を数えた。
ヴォルガ・ドイツ人出身の科学者、産業家、音楽家などは多く、サラトフの諸大学や音楽学校の礎を築いたのも彼らであった。第二次世界大戦が起こるとヴォルガ・ドイツ人は半数以上がシベリアやカザフスタンへ強制移住させられ、後にヴォルガ川沿岸に戻った人数はわずかであった。1980年代 には残ったヴォルガ・ドイツ人の西ドイツ への移住が始まった。ネメツカヤ通りにあるカトリック の聖クレメンティ聖堂は1960年代に映画館に変えられてしまっているが、ドイツ人が住んでいた時期の名残をよく残している。
経済・文化 サラトフのオペラ・バレエ劇場 アレクサンドル・ラジーシチェフ 記念美術館サラトフ子供用劇場 ヴァシーリー・リュクシンが建設した『屋根付き市場』(1916)。アール・ヌーヴォー の典型例 至聖三者大聖堂(1689年–1695年) サラトフは天然資源や工業が豊かであるだけでなく、文化や科学研究の面でも豊かな街である。サラトフにはロシア科学アカデミー に属する6つの研究所、その他の研究所21ヶ所、19のプロジェクト研究所、サラトフ国立大学、サラトフ国立社会経済大学、ほか多くの科学技術系の大学や研究所があり産業を支えている。
オペラ・バレエ劇場(1962年)、音楽院(1912年)、サーカス、コンサートホール、博物館、ラジーシチェフ記念美術館(1885年)、多くの高等教育機関がある。サッカー クラブ「ソーコル・サラートフ」を保有する。
自動車 工業、石油化学 工業が盛ん。また、サラートフ航空機工場では多くの航空機 が生産された。市旗・市章に描かれているチョウザメ の漁業もヴォルガ川沿岸で行われている。
交通 2019年8月20日にはサラトフ中央空港(英語版 ) が閉鎖され、代わりにサラトフ・ガガーリン空港 が開港した。中央空港時代には当地を本拠とする航空会社 サラーヴィア も存在した。
沿ヴォルガ鉄道支社 のサラトフI駅 は、市の中心駅となっている。市内にはサラトフ市電 が敷かれ、他のヴォルガ川沿岸都市と同様に河川港 が置かれている。
サラートフ橋(1965年までヨーロッパ最長の橋梁) 対岸のエンゲリス へ向かってヴォルガ川に架けられたサラートフ橋(英語版 ) は、建設当時ヨーロッパ 最長の橋梁であった。
有名な出身者 サラトフのオペラ・バレエ劇場 サラトフの勝利公園。戦車、戦闘機、ロケット砲などが展示されている サラトフは多くの著名人に関係する町であり、関係する人物の中には作家ミハイル・ブルガーコフ や詩人ガブリラ・デルジャーヴィン 、生物学者ニコライ・ヴァヴィロフ 、画家ミハイル・ヴルーベリ 、建築家フョードル・シェクテリ、化学者ニコライ・ジーニン、作曲家アルフレート・シュニトケ 、航空機設計士オリェーク・アントーノフ などがいる。
また、ニコライ・チェルヌイシェフスキー の生家があり、ニコライ・チェルヌイシェフスキー博物館として公開されている。
DJ /音楽プロデューサー のZedd の出生地でもある。
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