カバー

別の以前のパフォーマーによってすでに確立されている曲の新しい版

カバーカヴァー: cover)は、ポピュラー音楽の分野で、過去に他人が発表した曲を歌唱編曲演奏して発表することである。元は代役を意味する言葉である。聞き手に新たな解釈を提示したもの。本人が発表した曲の場合はセルフカバーという。

概要

カバーとはある楽曲が複数の歌手共有される現象である。動機としては、カバーしようとする歌手がその楽曲を純粋に好んで歌うため・持ち歌不足を補うため・他人への提供楽曲をファンや音楽会社の要望で録音を行うため・有名な曲をカバーすることで宣伝効果が得られるため、等々がある。そのため、歌詞やタイトルが変更されることもある。

これに対し、コード進行や一部の歌詞・旋律を引用することはサンプリングといい、カバーとは区別される。

著作権との関係

日本では法的には日本音楽著作権協会(JASRAC)など[要検証]の音楽著作権管理団体の管理楽曲であれば、その団体に申請し所定の著作権使用料を支払う事でカバーできる。ただし、原曲に新たに編曲(アレンジ)を加えて使用する場合は注意を要する。楽曲を編曲する権利(翻案権)は著作権者が専有しており(著作権法27条)、著作者は自身の「意に反する」改変を禁じる権利(同一性保持権)を有している(著作権法20条)。これらのJASRACが管理していない権利(著作者人格権、楽曲の翻案権など)については、それぞれの権利者に許諾を得る必要がある。そのため、PE'Zの「大地讃頌」のように、編曲に対して著作者である佐藤眞から同一性保持権の侵害が申し立てられた結果、CDの販売停止と同曲の演奏禁止という事態に発展した事例もある(大地讃頌事件を参照)。また、ORANGE RANGEの一部作品に見られるように、当事者への申し入れが一切ないままにサンプリングを行い、後日の話し合いでカバー曲として認知に至ったケースもある。

歴史

日本

日本では、1936年のポリドールの正月新譜として『名曲玉手箱』が発表されている。これは当時のポリドールの花形歌手が他の歌手のヒット曲を一番ずつ歌うという企画であった[1]

1955年、日本の童謡である「証城寺の狸囃子」(1929年の平井英子版が著名)を、米国のアーサー・キットが『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon) 』として歌唱し、日本国内で20万枚近くを売り上げるヒットとなった。また同曲は、朝鮮民主主義人民共和国でもその旋律が流用されており、『北岳山の歌(북악산의 노래)』という童謡に改編されている。[2]

1960年、小林旭の「ズンドコ節」、井上ひろしの「雨に咲く花」(関種子のカバー)など、過去のヒット曲のカバー・リメイク曲が次々とヒットし[3]、1960年〜61年頃にかけて日本の歌謡界にリバイバルブームが起こった[4]

1960年代にはシャンソンブームが到来し、フランス由来の楽曲の日本語カバーで越路吹雪による「愛の讃歌」、「サン・トワ・マミー」が著名となった。「ラストダンスは私に」、「オー・シャンゼリゼ」など米英由来の楽曲でもシャンソンとして認知されている場合もある。

1970年代以降、多くの日本歌謡曲が香港や台湾でカバーされ人気を博した。(後半の項に詳述。)複数の歌詞で、あるいは複数の歌手が同じ曲を競作でカバーすることもある。逆にアジア由来のメロディとしては、韓国トロットを源流とする「釜山港へ帰れ」や、中国歌謡から戦後輸入カバーされ、中華圏のビジネスマン接待等カラオケで人気となった「夜来香」があり、認知度の高い楽曲である。

1971年、尾崎紀世彦は全曲洋楽のカバーアルバム『尾崎紀世彦ファースト・アルバム』を発売、オリコンチャート2位、年間10位のヒットとなる。シャンソンの「雪が降る」(サルヴァトール・アダモ)のカバーでも人気を博した。

1975年、かぐや姫の「なごり雪」をイルカがカバーし、大ヒットする。

1977年、吉田拓郎のカバーアルバム『ぷらいべえと』がカバーアルバムとして初のオリコン1位を獲得[5]

1979年、西城秀樹ヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」を「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーし、大ヒット。洋楽のカバー曲として初めて日本歌謡大賞を受賞した。これを切っ掛けとして1980年代に欧米のディスコ・ミュージックに日本語詞を付けるカバー曲が流行した。中でも荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)」は1986年から流行し、所収のアルバム『NON-STOPPER』は1987年度のオリコンアルバム売上年間1位を記録、2010年代にもリバイバルで再注目された。

1980年代に一世を風靡した大映ドラマの主題歌には、洋楽のカバーが多数起用され、麻倉未稀の「What a feeling 〜フラッシュダンス」・「ヒーロー」、MIEの「NEVER」、椎名恵の「今夜はANGEL」・「愛は眠らない」などヒットを量産した。

1984年、イタリアのガゼボの名曲をカバーした「雨音はショパンの調べ」(小林麻美)がヒットし、3週連続オリコン1位となった。

1988年、薬師丸ひろ子中島みゆきの「時代」をカバーし、ヒット[6]。続いて1989年、斉藤由貴井上陽水の「夢の中へ」を、森高千里南沙織の「17才」をカバーしそれぞれ大ヒット[6][7]。これをきっかけとして当時の若手歌手が過去のヒット曲をカバーすることが流行した[6][7]

1980年代末〜1990年代前半には、欧米のアーティストがJ-POPの楽曲をカバーしたいわゆる「逆カバー」がブームになった[8][9]。ブームのきっかけは1989年レイ・チャールズサザンオールスターズの「いとしのエリー」を「Ellie My Love」としてカバーしヒットしたことだとも[10]、1990年に発売されたA.S.A.P.松任谷由実の楽曲をカバーしたアルバム『GRADUATION』がヒットしたことだとも言われる[9]

1994年、中森明菜がカバーアルバム『歌姫』を発売、30万枚のヒット。2002年と2004年には続編も発表され、累計で100万枚を売り上げる[11]

1997年頃から、往年の大スターの曲を聴いて育った世代のミュージシャンたちが、オリジナルを自身のアレンジで吹き込み直し、そのスターに捧げるという意味でのカバーバージョン集「トリビュート・アルバム」が増える[12]

森山良子による1998年初出の楽曲『涙そうそう』(作曲:BEGIN)は、BEGIN自身によるシングル化を経て、夏川りみによる2001年のカバーに火がつき、JASRAC賞(著作権分配額を表彰する)で2004年度の銀賞となるなど、国民的に著名な楽曲となった。

2000年代初頭の日本の音楽業界では、CD不況の影響を受けてCDが売れないため、レコードを多く買っていた団塊の世代を狙った形での過去のヒット曲のカバーが非常に増えた。2000年代初頭の日本の音楽業界におけるカバーブームのきっかけとなったとされるのは、2001年に発売された井上陽水のカバーアルバム『UNITED COVER』である[4][13][14]。同年には坂本九の「明日があるさ」をウルフルズRe:Japanらがカバーしてヒットさせた[14]。2002年にはヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」を島谷ひとみがカバーしてヒットさせ、また様々なアーティストがカバーアルバムを発表[14]。さらにはテレビ東京で『カヴァーしようよ!』が放送された[14]

2005年9月に発売された、徳永英明が女性アーティストの曲をカバーしたアルバム『VOCALIST』は、日本ゴールドディスク大賞『企画アルバム・オブ・ザ・イヤー』を受賞。『VOCALIST 2』『VOCALIST 3』『VOCALIST 4』も含めて大ヒットした。

2005年秋から翌年にかけ、映画『NANA-ナナ-』の劇中歌として大ヒットした伊藤由奈の『ENDLESS STORY』は、元々1993年のアメリカ映画「Indecent Proposal」(邦題:幸福の条件)の劇中歌“If I'm Not in Love With You”であったが、1998年のジョディ・ワトリーや1999年のフェイス・ヒルらによって相次いでカバーされていた楽曲である。

2000年代後半には、J-POPの楽曲をボサノヴァレゲエ風のソフトアレンジでカバーしたアルバムが多く発売される。代表的なアーティストとしてSOTTE BOSSEがある[15]

2006年、アリスターが日本向け企画アルバムとして発売した『Guilty Pleasures』がヒットし、欧米アーティストがJ-POPの楽曲をカバーした作品が再び注目されるようになる[16]。2008年11月元MR. BIGヴォーカリスト、エリック・マーティンによる日本の女性ヴォーカルの曲をカバーしたアルバム『MR.VOCALIST』が話題になる[17]

2010年には男性デュオコブクロが40万枚限定で『ALL COVERS BEST』を発売し、オリコンチャートの初動売り上げで29.1万枚を記録。同チャートにてカバーアルバム史上最高の初動売り上げとなった。

2013年、クリス・ハートがJ-POPの楽曲をカバーしたアルバム『Heart Song』を発売。続編を含めると、累計で100万枚を超える出荷枚数を記録している[18]

2018年、イタリアのジョー・イエローが1992年にリリース発売した「U.S.A.」を、DA PUMPが、シングルカバー曲として発売。「いいねポーズ」や「ヒゲダンス」など真似しやすい振り付けを取り入れたMVの再生回数は1億回を突破する[19]など、大ヒットした。共に1980年代ユーロビートの再来を彷彿とさせた。

2020年、松原みきの「真夜中のドア〜Stay With Me」(1979年初出)が、インドネシアの歌手でYouTuberであるRainychによりカバーされた事が要因の1つとなって、同楽曲の人気に火が付き、41年の時を経て世界各国のサブスクリプションで上位にランクイン、また日本のシティポップの世界的なブームの火付け役ともなった。

2021年3月22日、天月-あまつき-MONGOL800の「小さな恋のうた」をカバーした動画が、カバー曲の動画(歌ってみた動画)として日本人初の1億回再生を突破したと発表された[20][21][22]

日本発祥の楽曲の外国語カバー

1980年代には千昌夫の「北国の春」、谷村新司の「」、喜納昌吉の「花〜すべての人の心に花を〜」が中華圏・東南アジア全域でヒットし、多くの歌手にカバーされた。1990年代以降には、日本発のドラマコンテンツ、またアニメなどが運び手となり、多くの日本発祥楽曲がカバーされるようになった。

その他、アジア各国では日本アニメが国民的に浸透しており、アニメ主題歌は現地語バージョンが作られる場合もあり、浸透度は極めて高い。

欧米では、坂本九の「上を向いて歩こう」は本家版が全米1位となった1963年から時を経て、カバーしたテイスト・オブ・ハニー版も1981年にビルボード3位に入ったほか、欧州・南米でもカバーされ世界的スタンダードナンバーとなっている。また、YMOの「ビハインド・ザ・マスク」はマイケル・ジャクソン、のちにエリック・クラプトンによってカバーされた稀有な例である。


主な年間チャート上位曲(日本)

セルフカバーはここには含まない。

オリコンシングルランキング

曲名歌手名原曲歌手名チャート
黒ネコのタンゴ皆川おさむヴィンチェンツァ・パストレッリ1969年度5位
1970年度1位
ドリフのズンドコ節ザ・ドリフターズ田端義夫1970年度2位
圭子の夢は夜ひらく藤圭子園まり1970年度3位
京都の恋渚ゆう子ザ・ベンチャーズ1970年度10位
知床旅情加藤登紀子森繁久彌1971年度2位
また逢う日まで尾崎紀世彦ズー・ニー・ヴー1971年度3位
別れの朝ペドロ&カプリシャスウド・ユルゲンス1972年度8位
22才の別れかぐや姫1975年度7位
岸壁の母二葉百合子菊池章子1976年度5位
フィーリングハイ・ファイ・セットモーリス・アルバート1977年度10位
Mr.サマータイムサーカスミッシェル・フュガンフランス語版1978年度8位
YOUNG MAN (Y.M.C.A.)西城秀樹ヴィレッジ・ピープル1979年度7位
みちづれ牧村三枝子渡哲也1979年度9位
別れても好きな人ロス・インディオス & シルヴィア松平ケメ子1980年度8位
哀愁でいと田原俊彦レイフ・ギャレット1980年度10位
矢切の渡し細川たかしちあきなおみ1983年度2位
CHA-CHA-CHA石井明美フィンツィ・コンティーニ1986年度1位
愛が止まらない 〜Turn it into love〜Winkカイリー・ミノーグ1989年度5位
涙をみせないで 〜Boys Don't Cry〜Winkムーラン・ルージュ英語版1989年度10位
全部だきしめてKinKi Kids吉田拓郎LOVE2 ALL STARS1998年度10位
大きな古時計平井堅2002年度7位
Jupiter平原綾香2004年度3位
ロコローションORANGE RANGEリトル・エヴァ2004年度7位
MickeyGorie with Jasmin & Joannレイシー
トニー・バジル
2004年度10位
千の風になって秋川雅史新井満2007年度1位

RIAJ有料音楽配信チャート

曲名歌手名原曲歌手名チャート
Lifetime Respect -女編-RSP三木道三2007年度7位(着うたフル)[24]
また君に恋してる坂本冬美ビリー・バンバン2010年度6位(着うたフル)[25]

Billboard Japan Hot 100

曲名歌手名原曲歌手名チャート
レット・イット・ゴー〜ありのままで〜松たか子イディナ・メンゼル2014年度7位[26]
U.S.A.DA PUMPジョー・イエロー2018年度2位[27]
2019年度9位[28]

フル配信ミリオン認定作品(日本レコード協会)

曲名歌手名原曲歌手名認定月
また君に恋してる坂本冬美ビリー・バンバン2014年1月
レット・イット・ゴー〜ありのままで〜松たか子イディナ・メンゼル2014年6月
アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士DJ OZMAボニーM
DJ DOC
2014年12月
銀河鉄道999EXILE feat.VERBALm-floゴダイゴ2017年3月

脚注

関連項目