チャールズ・モリニュー (初代セフトン伯爵)
初代セフトン伯爵チャールズ・ウィリアム・モリニュー(英語: Charles William Molyneux, 1st Earl of Sefton、1748年10月11日 – 1795年1月31日)は、グレートブリテン王国の政治家、アイルランド貴族。ホイッグ党に所属し、1771年から1774年まで庶民院議員を務めた[1]。
生涯
トマス・ジョセフ・モリニュー閣下(Hon. Thomas Joseph Molyneux、1756年12月3日没、第4代モリニュー子爵ウィリアム・モリニューの息子)と妻マリア(Maria、ジェームズ・レヴァリー(James Leverly)の娘)の息子として、1748年10月11日に生まれた[1]。フランス王国のサントメールで教育を受け、1759年3月30日に伯父ウィリアムが死去するとモリニュー子爵位を継承した[1]。
カトリックとして育てられたが、のちにイングランド国教会に改宗、1769年3月5日にセント・マーティン・イン・ザ・フィールズで聖餐を受けた[1]。同年より政治にかかわるようになり、第3代準男爵サー・ウィリアム・メレディスによれば首相グラフトン公爵を支持した[2]。1770年5月には首相ノース卿がモリニュー子爵の昇叙を国王ジョージ3世に推薦した[1]。
1771年7月のランカシャー選挙区での補欠選挙に立候補して、無投票で当選した[3]。ランカシャーではスタンリー家(ダービー伯爵家)が1議席を掌握していたが[3]、この補欠選挙ではスタンリー家に立候補できる人物がおらず、代わりにモリニュー子爵が当選した[2]。同年11月30日、アイルランド貴族であるセフトン伯爵に叙された[1][4]。
議会ではジョン・ウィルクスの名誉回復をめぐる採決、グレンヴィル法を恒久法として制定する議案で政府を支持したが、演説の記録はなかった[2]。1774年イギリス総選挙には出馬せず、代わりにダービー伯爵の推定相続人スタンリー卿が出馬して当選した[3]。1784年イギリス総選挙で再びランカシャーでの出馬に意欲を示したが、最終的には撤退した[2]。
1795年1月31日にバークリー・スクエアのヒル・ストリートで死去、息子ウィリアム・フィリップが爵位を継承した[1]。
家族と私生活
1768年12月3日、イザベラ・スタンホープ(1748年4月15日 – 1819年1月29日、第2代ハリントン伯爵ウィリアム・スタンホープの娘)と結婚[1]、1男をもうけた[2]。
- ウィリアム・フィリップ(1772年9月18日 – 1838年11月20日) - 第2代セフトン伯爵[1]
トゥイッケナムに邸宅を有し、同じくトゥイッケナムに別荘があったホレス・ウォルポールが度々訪れていた[2]。
出典
グレートブリテン議会 | ||
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先代 アーチボルド・ハミルトン卿 ストレンジ卿 | 庶民院議員(ランカシャー選挙区選出) 1771年 – 1774年 同職:アーチボルド・ハミルトン卿 1771年 – 1772年 サー・トマス・エジャートン準男爵 1772年 – 1774年 | 次代 サー・トマス・エジャートン準男爵 スタンリー卿 |
アイルランドの爵位 | ||
爵位創設 | セフトン伯爵 1771年 – 1795年 | 次代 ウィリアム・フィリップ・モリニュー |
先代 ウィリアム・モリニュー | モリニュー子爵 1759年 – 1795年 |