パルスマン5世
イベリア王
パルスマン5世(グルジア語: ფარსმან V、グルジア語ラテン翻字: Parsman V、520年頃[2] – 561年[2])は、ホスロイド朝イベリア王国の王。在位期間については諸説あり、18世紀の歴史学者ヴァフシティ・バグラティオニは著書『ジョージアの歴史』において、パルスマン5世の在位期間を528年から542年までと記載している[3]。一方、20世紀ロシアの歴史学者キリル・トゥマノフは再研究の結果、在位期間は547年から561年までであると述べている[1]。
パルスマン5世 ფარსმან V | |
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パルスマン5世のレリーフ | |
イベリア王 | |
先代 | バクル2世 |
次代 | パルスマン6世 |
出生 | 520年頃[2] |
死亡 | 561年[2] |
王室 | ホスロイド朝 |
父親 | バクル2世 |
信仰 | ジョージア正教会 |
パルスマン5世はバクル2世の息子であり、キリル・トゥマノフの研究によると、547年にイベリア王の地位を継承した[4]。パルスマン5世の死後、イベリア王位は甥のパルスマン6世に引き継がれた[4]。
『ジョージア年代記』の中世アルメニア編によると、パルスマン5世の治世、アラン族によってカルトリ地方が攻撃・破壊された。その後オセチア人はパルスマン5世に対して、サーサーン朝の支配下に入るよう促したとされる。一方『ヴァフタング・ゴルガサリ王の歴史』の原文では、アラン族に関する言及はなく、ペルシャの一方的な侵略のみが記述されている[5]。ペルシャとの戦争について『ジョージア年代記』は、当時関係の深かった東ローマ帝国が西側の敵との戦いの最中であり、パルスマン5世を支援することができなかったと述べている。この戦いは、ユスティニアヌス帝による東ゴートへの遠征(ゴート戦争)と考えられている[6]。