ブンニャン・ウォーラチット
ブンニャン・ウォーラチット(ラーオ語: ບຸນຍັງ ວໍລະຈິດ / Bounnyang Vorachit, 1937年8月15日 - )は、ラオスの政治家。第6代国家主席、第4代首相、第4代国家副主席、ラオス人民革命党中央委員会書記長(最高指導者の役職)を歴任。
ブンニャン・ウォーラチット ບຸນຍັງ ວໍລະຈິດ Bounnyang Vorachit | |
任期 | 2016年1月22日 – 2021年1月15日 |
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任期 | 2016年4月20日 – 2021年3月22日 |
副主席 | パンカム・ウィパーワン |
任期 | 2006年6月8日 – 2016年4月20日 |
元首 | チュンマリー・サイニャソーン |
任期 | 2001年3月27日 – 2006年6月8日 |
元首 | カムタイ・シーパンドーン |
出生 | 1937年8月15日(86歳) サワンナケート県タパントーン郡 |
政党 | ラオス人民革命党 |
出身校 | ハノイ大学 ホー・チ・ミン国家政治学院 |
経歴
南部のサワンナケート県タパントーン郡に生まれる。1952年から革命運動に参加し、左派軍事勢力パテート・ラーオに入隊。1975年12月2日にラオス人民民主共和国が建国されると、ブンニャンは国軍となったラオス人民軍(建国当初はラオス人民解放軍)で勤務し、その後、大佐まで昇進する。
ベトナムに留学してハノイ大学で経済学の学位を習得し、さらにホー・チ・ミン国家政治学院を卒業したブンニャンは、帰国後、政界に転進する。1982年4月、第3回党大会で党中央委員に選出され、同年、故郷のサワンナケート県の知事に就任する。1986年11月の第4回党大会では中央委員に再選され、党内序列第15位まで昇進。1991年3月の第5回党大会でも中央委員に再選され、序列第14位となった。1993年、ヴィエンチャン特別市市長に就任。
政治局員
1992年に党議長となったカムタイ・シーパンドーンは自身の基盤である軍部を重用し、軍出身者を中心に党政治局を形成していった。ブンニャンは大佐止まりであったが、1996年3月の第6回党大会で党政治局員に昇格し、序列第7位となる。同年、副首相に就任。1999年からは財務大臣を兼任し、通貨安やインフレーションの収拾に貢献して実績を挙げた[1]。
2001年3月の第7回党大会で政治局員に再選され、党内序列第6位に進んだブンニャンは、3月27日、首相に就任した。ブンニャンの首相在任中、ラオスは企業活動、宗教、移動の自由など、いくばくかの制度の自由化が進んだ[2]。
2006年3月の第8回党大会では世代交代が図られ、革命第一世代のカムタイ・シーパンドーンが党議長を退任し、後任の最高指導者として第二世代のチュンマリー・サイニャソーンが党書記長に就任した。ブンニャンは政治局員に再選されて序列第4位に位置づけられたものの、同年6月8日の国民議会第6期第1回会議で首相を第三世代のブアソーン・ブッパーヴァンに譲り、国家副主席に転任した。
書記局員
2011年3月の第9回党大会で政治局員に再選、書記局常任に選出され[3]、序列第3位となる。同年6月15日の国民議会第7期第1回会議で国家副主席に再選された[4]。
党書記長
2016年1月の第10回党大会で政治局序列1位、書記局序列1位となり党書記長(最高指導者の役職)に就任した[5]、チュンマリーから最高指導者の地位を継承した。同年4月20日、第8期国民議会第1回会議においてチュンマリーの後任として、国家主席に選出された[6][7]。
2021年1月の第11回党大会では党書記長職を、同年3月22日の第9期国民議会初回会合では国家主席の座をトーンルン・シースリット首相に譲った[8][9]。
脚注
参考文献
- 山田紀彦「ラオス人民革命党第7回大会 ― 残された課題 ― 」(石田暁恵編『2001年党大会後のヴィエトナム・ラオス ― 新たな課題への挑戦』アジア経済研究所、2002年3月)
- カム・ヴォーラペット『現代ラオスの政治と経済』(藤村和広・石川真唯子訳、めこん、2010年)
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