ベンジャミン・リー・スミス

ベンジャミン・リー・スミス (英語: Benjamin (Ben) Leigh Smith)[1]とは、イングランドヨット操縦者、探検家である。

ベンジャミン・リー・スミス
ステファン・ピアース英語版による肖像画(1886年)
生誕 (1828-03-12) 1828年3月12日
イングランド
サセックス
死没1913年1月4日(1913-01-04)(84歳)
イングランド
ロンドンハムステッド
国籍イングランド人
著名な実績北極探検(スヴァールバル諸島およびゼムリャフランツァヨシファ
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幼少期

サセックスアルフレトン英語版の製粉所従業員のAnne Longdenの婚外子として生まれる。父はホイッグ党の政治家ベンジャミン・スミス英語版、祖父は急進的奴隷解放主義者として著名なウィリアム・スミス英語版1826年、父がダービーシャーに住む姉妹の元を訪ねた際、Anne Longdenに出会う。Anneは懐妊し、イースト・サセックスバトル近郊の小さな村ワットリントン英語版の借家に移り、バーバラ英語版を生む。のちベンジャミンが生まれると4人は2年間アメリカへ移住する。その後サセックスに戻ると更に2人の子をもうける。そんな中1834年にAnneは結核を患いワイト島にある小さな町ライド英語版にて死去。この時ベンジャミンは5歳だった。

探検

Eiraの遭難(1881年)
ベンジャミンがゼムリャフランツァヨシファの探検の際、ベル島に建てた小屋(Eira Lodge)

1871年から1882年に掛けてベンジャミンはスヴァールバル諸島およびゼムリャフランツァヨシファへ5度の学術調査のための探検を行う。

スヴァールバル諸島ではブロッコイア島英語版フォイノヤ島英語版など諸島北東の31の地点を発見し命名している。大英博物館王立植物園のために標本を持ち帰り、ロンドン動物園のために生きたホッキョクグマを連れて帰るなどした。4度目の探検では北極探検に対する熱意から自身の船Eiraを建造した[2]Eira1881年にゼムリャフランツァヨシファ南方にあるノルトブルク島のフローラ岬付近の氷河に衝突し沈没、ベンジャミンと隊員らは10カ月に渡り遭難する。沈没した船は2017年8 月にロシアの探検船Alter Egoによりノルトブルク島から20 m沖にて偶然発見された[3] [4][5]

評価

1881年に王立地理学会金メダルを授与される [6]

ゼムリャフランツァヨシファのリー=スミス島ロシア語版など彼に因んだ地名がいくつかある[7][8]

脚注

参考文献

  • Capelotti, P. J. (2006). "Benjamin Leigh Smith’s first Arctic expedition, Svalbard, 1871", Polar Record 42 (220): 1-14.
  • Capelotti, P. J. (2008). "Benjamin Leigh Smith’s second Arctic expedition: Svalbard and Jan Mayen, 1872", Polar Record 44 (3): 255-264.
  • Markham C. R. (1881). "The Voyage of the Eira and Mr. Leigh-Smith's Arctic Discoveries in 1880", Proceed. of the Royal Geographical Society.
  • Markham C. R. (1883). "Second Voyage of the Eira to Franz Joseph Land", Proceed. of the Royal Geographical Society.