マルティン・エレーラ

マルティン・オラシオ・エレーラMartín Horacio Herrera1970年9月13日 - )は、アルゼンチンリオ・クアルト出身の元サッカー選手。ポジションはゴールキーパー

マルティン・エレーラ
名前
本名マルティン・オラシオ・エレーラ
Martín Horacio Herrera
ラテン文字Martín Herrera
基本情報
国籍アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1970-09-13) 1970年9月13日(53歳)
出身地リオ・クアルト
身長185cm
体重80kg
選手情報
ポジションGK
ユース
1978-1987アルゼンチンの旗 エストゥディアンテス・リオ・クアルト
1987-1991アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
クラブ1
クラブ出場(得点)
1991-1996アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 0 (0)
1996-1997アルゼンチンの旗 アタランタ 66 (0)
1997-1998メキシコの旗 トルーカ 5 (0)
1998-1999アルゼンチンの旗 フェロカリル・オエステ 34 (0)
1999-2002スペインの旗 アラベス 94 (0)
2002-2005イングランドの旗 フラム 2 (0)
2003-2005アルゼンチンの旗 エストゥディアンテスLP (loan) 40 (0)
2005-2006アルゼンチンの旗 エストゥディアンテスLP 37 (0)
2007-2009アルゼンチンの旗 エストゥディアンテス・リオ・クアルト 26 (0)
通算233 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クラブ経歴

ボカ・ジュニアーズ

コルドバ州リオ・クアルトに生まれ、1991年にエストゥディアンテス・リオ・クアルトからボカ・ジュニアーズの下部組織へと移り、ボカ・ジュニアーズでプロサッカー選手となった。しかし、当時のボカ・ジュニアーズのトップチームにはコロンビア代表カルロス・モントーヤが絶対的な地位を築いていたため、出場機会は皆無だった。1993年5月16日、リザーブチームからの招集に応じ、この日のCAインデペンディエンテ戦に出場していたエレーラは、試合の後半に相手選手と接触し、顔の頬骨陥没と顔靭帯断裂という重傷を負った[1]。これにより、およそ9ヶ月の離脱を強いられ、復帰後もモントーヤからポジションを奪えず、1996年にクラブを退団した。

アラベス

ボカ・ジュニアーズ退団後はメキシコやアルゼンチンのクラブを渡り歩いた[1]。1999年7月8日、デポルティーボ・アラベスに移籍し、3年契約を交わした[2][3]。アラベスでは1シーズン目からレギュラーとして活躍し、リーグ戦38試合で37失点という鉄壁の守備陣に貢献し、自身もサモラ賞を受賞した[4][5]。クラブもリーグを6位でフィニッシュし、UEFAカップ出場権を獲得した[6]

2シーズン目からはスペインサッカー連盟に申請してイタリア国籍を取得し、外国籍枠を1つ空けた[7]。一方、UEFAカップでは低い期待と裏腹にクラブは快進撃を続け、遂にはリヴァプールFCとの決勝にまで進んだ。この決勝にもエレーラは出場し、試合は延長戦にまでもつれ込む激戦となったが、最終的には延長後半のチームメイトデルフィ・ヘリのオウンゴールとなったゴールデンゴールによって4-5で惜敗した[8]

フラム

2002年5月、フラムFCと3年契約を結んだ[9]。しかし、同じポジションにエトヴィン・ファン・デル・サールが君臨していたため、出場機会はほとんどなく[10]、2003年にはアルゼンチンのエストゥディアンテスLPへとレンタル移籍をした。

エストゥディアンテスLPへのレンタルが終わると、同クラブに完全移籍し、2009年に37歳で現役を引退した[1]

脚注

外部リンク

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