モゼル県

フランスの県

モゼル県(モゼルけん、Moselle)は、フランス北東部、グラン・テスト地域圏の県である。

モゼル県
Moselle
Moselle旗 Moselle章
モゼル県旗 モゼル県章
位置
Moselleの位置
概要
県番号57
地域圏グラン・テスト
県庁所在地メス
郡庁所在地ブレ=モゼル
シャトー=サラン
フォルバック
サルブール
サルグミーヌ
ティオンヴィル(東西2郡)
9
小郡51
コミューン730
県議会議長パトリック・ヴァイタン
独立民主同盟
統計
人口
国内20位
  (2010年)
1,045,066人
人口密度168人/km2
面積¹6,216 km2
¹ 「French Land Register data」(1平方キロ以上の湖沼、エスチュアリー、氷河などの水面積除く。
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地理

ムルト=エ=モゼル県バ=ラン県ドイツ及びルクセンブルク大公国と国境を接する。

県南部のサールブール周辺はパリ盆地の東端部にあたり、ケスタという地形が多い。一帯は主に3つのエリアに分けられ、西部はセイユ川フランス語版上流部の池の国フランス語版、中央部はサル川の渓谷、東部はヴォージュ山脈の森林地帯である。哺乳類のナトゥージウスアブラコウモリ英語版ヒメキクガシラコウモリ英語版ヨーロッパヤマネコ、鳥類のコキンメフクロウエゾライチョウキンメフクロウハシビロガモ軟体動物Vertigo angustior英語版Vertigo moulinsiana英語版鱗翅目Lycaena dospassosi英語版、魚類のRhodeus sericeus英語版、両生類のホクオウクシイモリ英語版、植物のシッポゴケ属英語版が生息している[1][2]

南部は2021年にユネスコ生物圏保護区に指定された[1]。また、サールブール北西部の湿地の一部は2003年にラムサール条約登録地となった[2]

歴史

1871年以降の県境の変化

1790年3月4日に新設された83県のうちの1つ。県はかつてのロレーヌ州北部と、メス司教領からなっていた。1815年のパリ条約で、国境調整が行われ、サールブリュック(現在はザールルイ)と周辺の町がモゼル県から取り除かれた。1793年にはブケノンとサールウェルデンを含むアルザス・ボシュ地方、そして1833年にはオーベルスタンバックがバ=ラン県に割譲された。

フランスと第六次対仏大同盟が調印した1814年のパリ条約で、モゼル県はプロイセンに対してトレ小郡、シールク・レ・バン小郡を割譲した[3]。1815年、ルラン小郡とサールブリュックがドイツ領となった。いくつかのコミューンや集落は1829年に再びフランス領となっている。

普仏戦争で敗戦国となったフランスは、フランクフルト講和条約によってドイツにヴォージュ県東端部、ムルト県東部、そしてモゼル県の大部分を割譲した。モゼル県の最西端、現在のブリエ小郡相当する部分がフランスに残留し、ムルト県の残留地域と合流したムルト=エ=モゼル県に編入された。ドイツ領になった部分は、ロレーヌにおけるドイツ語圏だけではなかった。ティオンヴィルブレ=モゼルサルグミーヌおよびサールブールは、ロレーヌにおけるフランス語圏であった。ドイツに編入されたアルザスとロレーヌは1つにまとめられ帝国直轄州エルザス=ロートリンゲン (Reichsland Elsaß-Lothringen)となり、かつてのモゼル県に相当する部分はロートリンゲン郡(Bezirk Lothringen)となった。

第一次世界大戦が勃発すると、モゼル県はドイツ軍に組み込まれた。1914年から1918年の間、アルザス人とモゼル人計約18000人がフランス軍に入った。戦争終結までドイツ帝国のために戦った徴兵者の95%以上、約38万人がアルザス・ロレーヌ人であった。こうした徴兵の戦死者の墓は、ドイツ墓地管理委員会(fr)が管理している。このことが県の戦死者追悼についての特異性を示している。多くの場合、墓碑には『我々の戦死者へ』と刻まれ、伝統的に『フランスのために命を捧げた者』と刻まれるのとは異なる。

1919年のヴェルサイユ条約で、ロレーヌ地域圏の領土がフランスに返還されたが、その多くが元のフランスの県に戻ったのに対し、ロートリンゲン郡であった部分は新たにモゼル県として再編された。ブリエ郡のような元モゼル県地域はそのままムルト=エ=モゼル県に残された。戦間期のモゼル県は、戦争の涙、ナショナリズムに翻弄された被害で心に傷を負っていた。

モゼルの知識人たちは、フランスへのモゼル再統合について異なる反応を見せた。弁護士ロベール・シューマンは平和的で民主的な姿勢を見せ、いくらか親フランス・ナショナリズムに傾いていた。別の者は、親ドイツ・ナショナリズムに抵抗を見せ、同じように執念深く好戦的であった。アドリエンヌ・トマ[4]やポリー・マリア・ヘフラー、エルネスト・ムンゲネストのような民族的ドイツ人たちは、誠実な平和主義者だが素朴であり、文化的地方主義のアイデンティティの狭間で揺れ動いていた[5].。これらの動きは自立性が高かろうが低かろうが、その後ナチス・ドイツに広く悪用されてしまうことになった[6]。このアイデンティティの闘争は、多くの場合理想主義的な知識人たちが主導していた。彼らは欧州全体の中では非常に敏感であった。このことはアルザス=ロレーヌ全ての独自のアイデンティティの危機を反映したものだった[7]

モゼル県は、1939年9月3日に宣戦布告され、第二次世界大戦の影響を受けることになった。県面積のほぼ30%がマジノ線と対ドイツ国境の間になったのである[8]。県人口の45%に相当する約30万人が、9月のうちにフランス中部や西部へ避難した。彼らが向かったのはシャラント県、シャラント・アンフェリウール県(現在のシャラント=マリティーム県)、ヴィエンヌ県オート=ヴィエンヌ県であり、未成年者たちを受け入れたのはオート=ロワール県であった[9]。オベルドルフのような国境の村には、9月1日に避難命令が出されていた[10]。避難した30万人のうち約20万人は、大戦終結後に帰還した[11]

第二次世界大戦中、1940年6月22日に休戦したにもかかわらず、モゼルは7月になってナチス・ドイツに併合された。モゼルは併合されたアルザスと同じ運命を辿らなかったが、『西部辺境』を意味するガウ・ヴェストマルク(Gau Westmark、ザール、プファルツも含まれ、ザールブリュッケンが主都)に併合された。モゼルにおけるフランス語話者、または単なる親フランスは、大管区指導者ヨーゼフ・ビュルケルによってフランスに大量に追放された。同年8月に追放されたメス司教ジョゼフ・ジャン・ハンツがその例である。アルザス人よりもロレーヌ人の扱いは悪く、1942年に自らの運命を祝福したロレーヌ人たちは追放され、故郷にとどまるか戻ってきたロレーヌ人の若者たちは、ドイツ軍に志願するよう強く求められたのである。

人口統計

1968年1975年1982年1990年1999年2006年2007年
971 3141 006 3731 007 1891 011 3021 023 4471 036 7801 039 018

出典:SPLAF[12]、2006年、2007はINSEE[13][14]

文化

行政上のモゼル県は、ロレーヌ地域圏を構成する2つの文化圏の上にまたがっているため、モゼル県全体は均質的な文化を持っていない。ロレーヌ・ティオワ語(fr)は、最近ではドイツ語またはドイツ語の方言とみなされており、ロレーヌ・フランス語はラテン語方言とみなされている。この2言語の言語境界(fr)は、ほぼ等しく県を二分している。西はメスを中心としたラテン語のモゼル県、東はアルザス、ドイツ、ルクセンブルクと接するドイツ語のモゼル県である。

モゼル県の言語境界

ギャラリー

脚注

出典

外部リンク