丁仏言

丁 仏言(てい ふつげん)は中華民国の政治家・書家・詩人・ジャーナリスト。仏言で、名は世嶧。号は邁純

丁仏言
プロフィール
出生:1878年光緒4年)[1]
死去:1930年民国19年)12月1日
中華民国の旗 中華民国 河北省北平市
出身地: 山東省登州府黄県
職業:政治家・書家・詩人・ジャーナリスト
各種表記
繁体字丁佛言
簡体字丁佛言
拼音Dīng Fóyán
ラテン字Ting Fo-yen
和名表記:てい ふつげん
発音転記:ディン フォーユエン
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事跡

清の廩貢生。日本に留学し、法政大学法政速成科を卒業した。帰国後はドイツの山東鉱山区占領に反対するため、保鉱会という組織を結成している。後に山東法政学堂教習(教官)となった。1910年宣統2年)、山東咨議局議員に当選したが、翌年辞職する。武昌起義が勃発すると、革命派に与して山東省の独立を図った。

1912年民国元年)、北京で臨時参議院議員に当選し、さらに『亜細亜日報』主筆もつとめた。翌1913年(民国2年)5月、進歩党に加入し、党務部部長に任ぜられている。同年10月、国民党張耀曽らと民憲党を組織したが、まもなく袁世凱の命令により国会は解散されてしまう。政党活動の一方で、張東蓀らと共に『中国雑誌』を編集・出版した。1915年(民国4年)、袁が皇帝即位をもくろむと、丁は上海に移り反袁活動を展開した。

袁世凱死後の1916年(民国5年)8月、大総統となった黎元洪により丁仏言は総統府秘書長に任命された。しかし、翌年2月にいったん辞職・帰郷し、古文書学に親しむ。1922年(民国11年)、曹錕が賄選により大総統当選を目論むと、当時国会議員となっていた丁はこれを拒否し、さらに批判的な言論活動を展開した。このために丁は逮捕され、1924年(民国13年)に北京政変(首都革命)で曹が失脚するまで拘禁された[2]

その後、丁仏言は済南の中学で国文学教師となった。1928年(民国17年)以降は北平に寓居している。丁は書家・詩人としても優れた声望を有し、多くの作品を残した。

1930年(民国19年)12月1日、北平にて病没。享年53。

脚注

参考文献

  • 蒋恵民「豪気邁千秋 文章垂万世-記近現代著名書法、古文字学家和社会活動家 丁佛言」人文自然網(山東省人文自然遺産保護与開発促进会ホームページ)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  中華民国北京政府
先代
張国淦
総統府秘書長
1916年8月 - 1917年2月
次代
夏寿康