井出正易

井出 正易(いで まさやす)は、江戸時代前期から中期の武士

 
井出正易
時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛永12年(1635年
死没天和3年9月12日1683年10月31日
改名法名:日秋
別名通称:正豊、木工之助、三郎兵衛
墓所法輪寺
主君徳川綱吉
氏族井出氏
父母父:井出正勝 母:大鏡坊頼賀[1]の娘
兄弟井出正祗、井手正易
大井政景の娘
井出政武、岩松、木工之助、伴野貞豪室、萬之助
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出自

井出正易は、大宮代官であった井出正勝[注釈 1]の二男である。また母方の祖母大宮城主であった富士信忠の娘であるため[2]、富士信忠は正易の曽祖父にあたる。

正易は井出家(正易系)を興しており、血筋としては( – 正直 – 正俊 – 正信 – 正勝 - 正易)である。

略歴

寛政重修諸家譜[3](以下『寛政譜』)によると、以下のようにある。

慶安4年(1651年)9月、徳川綱吉附属となり小十人に列する。のち小十人組頭を経て腰物奉行となる。

延宝8年(1680年)に江戸幕府将軍を綱吉が継ぐこととなり江戸城本丸に入ると、正易はこれに供奉する。それに伴い廩米200俵を賜り、三丸広敷番頭となる。天和3年(1683年)9月に享年49で死去。

正易は天和2年(1682年)11月に江戸神田橋門内に屋敷を拝領しており、坪数は300であった[4]。家督は子の政武が継いだ。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 富士宮市教育委員会『村山浅間神社調査報告書』2005年。 
  • 岩本馨「徳川綱吉政権の武家地政策と幕臣編入家臣団の動向」『日本建築学会計画系論文集』80(711号)、2015年、1213-1221頁。