保井浩一

保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 2001年11月17日)は、京都府出身のプロ野球選手監督

保井 浩一
1956年
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地京都府京都市
生年月日 (1921-07-19) 1921年7月19日
没年月日 (2001-11-17) 2001年11月17日(80歳没)
身長
体重
168 cm
60 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1950年
初出場1950年
最終出場1951年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

来歴・人物

平安中学から立命館大学専門部法科を経て、中央倉庫、満州電電、京都大丸で活躍。平安高校監督を務め、戦後初の甲子園出場に導いた[1]1950年東急フライヤーズに入団した。1年目は内野手として主に一塁・三塁を守った。87試合に出場し、打率.280、9本塁打を放つ活躍を見せる一方、3月16日大須球場で行われた西鉄クリッパース戦では4番手投手として、0-14となった4回表の途中から登板し、最後まで投げきった。

1951年限りわずか2年で現役を引退したが、1955年には東映の監督に就任。成績を残せず監督は1年で解任されたが、1956年からは監督の岩本義行の下、二軍監督に就任した[1]1960年、代理監督をつとめていた試合で大毎山内和弘による振り逃げ4得点という珍記録を引き起こしている。

1961年には大洋ホエールズのコーチとなり、1963年からはスカウト部長の任に着いて、関西地区を担当した。そのため、1965年近鉄バファローズの監督に岩本義行が就任すると、保井もコーチとして移籍した[1]衣笠祥雄平安高等学校2年の秋に「今すぐ大洋に来ないか」と誘ったが、その時の衣笠は全然その気がなかったという[2]

その後は滋賀県で割烹旅館の経営をしていた[1]。2001年11月17日、心不全のため死去。享年81(80歳没)。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1950東急87258243296891910630132--13--0307.280.316.436.753
195155105997253113313100--6--0125.253.295.333.629
通算:2年14236334236931221013943232--19--04212.272.310.406.717

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1950東急1000000--------285.21213--0300769.002.65
通算:1年1000000--------285.21213--0300769.002.65

背番号

  • 10 (1950年 - 1951年)
  • 30 (1955年)
  • 40 (1956年 - 1960年)
  • 31 (1961年 - 1962年)
  • 70 (1965年 - 1966年)
  • 60 (1967年)

脚注

関連項目