入れ墨

身体に傷をつけ、そこに絵などを描く行為

入れ墨(いれずみ、英語: Tattoo)は、などで皮膚に傷を付けてなどの色素で着色し、文様・文字・絵柄などを描く手法。また、その手法を用いて描かれたものである。タトゥー刺青とも呼ばれる。

背中に入れ墨。

傷口に異物が入りこんでできる変色は外傷性刺青(Traumatic tattoo、外傷性色素沈着)といい、それが鉛筆の芯などの炭素の場合はカーボン・ステイン英語版と呼ばれる。レーザー治療によって脱色可能[1][2]

起源

2500年前のアルタイ王女ミイラ: 腕の部分の皮膚に入れ墨が残されている
入れ墨状の文様を持った土偶

入れ墨は比較的簡単な技術。野外で植物のが刺さったり怪我をしたりした際、入れ墨と同様の着色が自然に起こることがあるため、体毛の少ない現生人類の誕生以降、比較的早期に発生して普遍的に継承されて来た身体装飾技術と推測されている。

古代人の皮膚から入れ墨が確認された例としては、アルプスの氷河から発見された紀元前3300年頃のアイスマンが有名。その体には61か所の入れ墨が確認されており、それらは損傷がある骨と関節の位置などを示していた[3]

2,500年前のアルタイ王女のミイラは、腕の皮膚に施された入れ墨が、ほぼ完全な形で残されたまま発掘されている(1993年発掘)[4]

3000年前の古代エジプトのミイラから入れ墨が見つかっている(1891年発掘)[5]他、5000年前の古代エジプトの複数のミイラからも赤外線撮影によって入れ墨が見つかっている(2014年発見)[6]

3000年前のタリム盆地のミイラからも入れ墨が見つかっている[7]

原始アートにおいても、入れ墨と考えられるデザインのものが世界各地に存在する[注釈 1]。古いものは後期旧石器時代の彫像であるライオンマンホーレ・フェルスのヴィーナスの体に、何本もの線が入っているのが見られる。

東ヨーロッパのククテニ文化[8]や、日本の縄文時代(主に終期以降)に作成された土偶の表面に見られる文様[9][注釈 2]は、世界的に見ても古い時代の入れ墨を表現したものと考えられている。

現存する遺体および土偶に続く入れ墨の記録となる証左は、歴史書である。古代ギリシアでは、ペルシア帝国の影響で奴隷や犯罪者に入れ墨をする習慣があったとプラトンが記している[10]。この習慣はローマ帝国にも引き継がれる。ガリア戦記ではケルト人が刺青をしている事に触れ、「ブリトン人は体に青で模様を描き、戦場で相手を威嚇する」としてピクト人と呼んでいる。

中国の歴史書には入れ墨をした中国周辺の民族(人、古人、倭人など)の記述がたびたび見られることから、中国文明の周辺では入れ墨の文化が普及していたと考えられる。弥生時代にあたる3世紀の倭人(日本列島の住民)について記した魏志倭人伝によると、邪馬台国の男はみな入れ墨をしていたという(「男子は大小と無く、皆黥面文身す」の記述)。一方で中国では、先秦の時代から入れ墨は犯罪者を区別するために行われていた。

また、紀元前後にはアメリカ大陸のメキシコやペルーなどで、全身に入れ墨をしたミイラや土偶が見つかっている他、南太平洋諸島(ラピタ人など[11])でも古くから入れ墨の習慣があったと考えられる遺物も見つかっている。

古代エジプトでは入れ墨の習慣があったが、サブサハラのアフリカでは入れ墨の確たる証拠は見つかっていない。しかし、いくつかの部族では入れ墨よりも直接的な皮膚を傷つけて模様を描くスカリフィケーション(瘢痕文身)が行われている[12]。オーストラリアのアボリジニの文化からも、確たる入れ墨の証拠は見つかっていないが、スカリフィケーションの慣習はある。他にも、ネグリトメラネシア人インディオなどの肌の色の濃い民族の間で見られる。

このようにユーラシア大陸、アフリカ大陸北部、南北アメリカ大陸および太平洋諸島の部族社会では入れ墨文化が盛んだが、啓蒙思想を持った大文明の影響で法律刑罰の概念が到達すると犯罪者やアウトローのものとなり、近代になり大衆文化が発達するとファッションとして復活するという大きな流れが見られる。

目的

個体識別

入れ墨は容易に消えない特性を持ち、古代から現代に至るまで身分・所属などを示す個体識別の手段として用いられてきた。

アウシュヴィッツ強制収容所で入れ墨されていた収容者番号

有名な例では、ナチ親衛隊員が戦闘中に負傷した際に優先的に輸血を受けられるよう、左の腋下に血液型を入れ墨(SS blood group tattoo)していたほか、アウシュヴィッツなどの強制収容所に収容された人々が腕に収容者番号を入れ墨されていた。

人間以外の家畜やペットに対しても、個体認識のために入れ墨や焼印が行われてきた歴史がある。

江戸時代の日本を含めた多くの国の刑務所で、犯罪者を識別するための犯罪者用入れ墨英語版、入墨刑が広く用いられた[13]。(ユーゴ内戦時の各収容所において入れ墨による識別が行われていたことが知られている。ヒューマンブランディング英語版ロシアでの犯罪者識別用入れ墨英語版ティアドロップ・タトゥー英語版

またこうした強制的なケースばかりではなく、多くの文化では、出漁中に事故に遭う可能性のある漁師や船員などが、身元判定や安全祈願として船乗りの入れ墨英語版を行うケース[14](類似に木場川並が好んで入れていた「深川彫」など)や、首を取られてしまえば、身元不明の死体として野晒しになる恐れのあった日本の戦国時代の雑兵が、自らの氏名などを指に入れ墨したケースなども知られている。

刑務所内で自分で制作するプリズン・タトゥー英語版などもあり、どのギャングかや出自、犯罪内容の誇示や暗号など、様々な目的で制作される。

刑罰

罪を犯した者に対して顔や腕などに入れ墨を施す行為は、古代から中国に存在した五刑[15]のひとつである、(ぼく)・(げい)と呼ばれた刑罰にまで遡るとされる。

墨刑は額に文字を刻んで墨をすり込むもので、五刑の中では最も軽いものだった。前漢の将軍・英布(黥布)は若い頃に顔に罰として入れ墨を施されたことから、逆に自ら黥を名乗ったと伝えられている。

日本書紀』中にも、履中天皇元年四月に住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇連浜子に、『即日黥』(その日に罰として黥面をさせた)との記述[16]がある。この記述は海人の安曇部の入れ墨の風習を、中国の刑罰と結びつけて説いた起源説話とされている。阿曇連は漁民でもある海部(あまべ)を統括する氏族であり、河内飼部は馬の飼育にかかわる河内馬飼部(うまかいべ)のことで、また鳥の飼育をするのが鳥養部(鳥飼部)である。これらは生き物を飼う職能集団であるという共通性がみられる。飼育している生き物からの危害を避け威嚇する意味も含めて、こうした呪術的意味を含み黥面をしていたと推側する研究者もいる。このことから、こうした記述は入れ墨の風習が廃れ、刑罰として用いられるようになってからの部分改変である可能性が指摘されている[17]

また『日本書紀』雄略天皇10年10月には宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたため、犬の飼い主に黥面して鳥飼部(とりかいべ)としたとの記述[18]がある。

江戸時代には、左腕の上腕部を一周する1本ないし2本の線(単色)の入れ墨を施す刑罰が科せられた。施される入れ墨の模様は地域によって異なり、額に入れ墨をして、段階的に「一」「ナ」「大」「犬」という字を入れ、五度目は死罪になるという地方もあった。

ファッション

米国における入れ墨は、1960年代末に世界的に流行したヒッピー文化に取り入れられ成長したため、その図案や表示するメッセージなどにおいて両者は不可分の関係にあり、ドラッグ・カルチャーとの関連から、ヒッピー達が好んだヒンドゥー教チベット仏教に由来する梵字[19]オカルト的な図案が多く好まれていた。

江戸時代では、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業は、入れ墨は粋であり入れ墨がない方が恥であった。また、遊女の顧客が遊女への思いを入れた「入黒子」などの文化もある[20]

日本では、ヒッピー文化の影響を受けた両親を持つ団塊ジュニア世代以降の第2世代ヒッピーが、ファッションとしての意味合いで入れ墨を施すことが流行した。こうした「入れ墨のファッション化」と日本国内のサブカルチャーの影響により、アニメのキャラクターやアイドルなどを入れ墨する事例も現れている[21][22]。入れ墨といえば前述の反社会性ばかりが取沙汰された時代があったが、歌手の安室奈美恵が自らの亡き母親や息子の名前を入れ墨にしている事例からも解るように、一部の人たちは「愛する対象との同一化」や「憧れの対象との同一化」を図るための、自己表現の為の装飾道具に変化しつつあると主張している。

ナチスのシンボル等のタトゥーを入れる者もおり、アメリカではユダヤ人医師に不快感を与えたり[23]、ドイツでは地方議員が起訴されるなど、社会問題になっている[24]

美容用途

ヘナを用いて手に文様を描く印僑女性: シンガポール

女性の眉や唇などに針の深度を浅くしたアートメイク・タトゥー英語版(数年で薄くなるが完全に消えはしない)を施すほか、南アジアやアフリカの女性が施すヘナ(植物性の染料)を用いて手に模様を描く(染料なので消える)ことが行われている。TATsと呼ばれるエアブラシを用いて皮膚表面に色素を定着させ、針を使った入れ墨に近い描画を可能とした技法も存在する。この手法では一度描いた文様を油性溶剤を用いて消し去り、新たに描き直すことも可能であるため、一般的な入れ墨では忌避されるような図案であっても大胆に描くことが可能。入れ墨を入れる前に図案が自分に合うかどうか事前に確認する用途にも用いることができる。また、神社の祭礼時の出店などで良く売られている、模様の印刷された極薄のフィルムに超微粒子の顔料を使用した、プラモデルの耐水デカールの様に肌に転写する「タトゥーシール」や、タトゥーのスタイルを取り入れたタトゥーストッキングもあり、ファッションの一部として用いられているが、こうした“消せるタトゥー(入れ墨)”の存在が「入れ墨は消せないが、タトゥーは消せる」といった誤った認識を一般人の間で蔓延させる要因ともなっている(ただし針を浅く入れるライトタトゥーをおこなえば、数年で消えてしまうようにする事も可能である)。美容用途の入れ墨は人間以外に対しても行われており、色素が薄い白毛の犬などの鼻部に生じてしまう白斑を隠すために黒色の入れ墨を施し、ドッグショーでの評価を上げるケースなどが知られている。

性的装飾

主に性的サービス業に従事する女性が、男性の性的興奮を高める性的装飾として入れ墨を施す文化が各国に存在しており、女性器の周辺を装飾している場合も多い。東南アジアの一部の国においては、適齢期に婚期を逃した独身女性が眉部に太幅の眉毛の形状(ちょうど日本のバブル期に流行した眉毛の形である)に入れ墨を施すことで、特定の男性に限定されずに幅広く恋愛を行う意思(=夜這いへの誘い)を示すサインとする習俗がある。

組織帰属の証

日本の暴力団や中華系のなど、反社会的組織の構成員の多くが入れ墨を入れている。欧米においても、ロシアマフィアや米国の白人至上主義団体が入れ墨を構成員の象徴として用いている。日本の暴力団関係者が入れ墨をする理由としては、社会からの離脱と帰属組織への忠誠を表し、痛みに耐えて消えない刻印を背負うことによる覚悟、また「彫り物をしている」と流布することで周囲を威圧するなどが挙げられる。その図案は日本の伝統的な題材を描いたいわゆる「和彫り」が主流である[注釈 3]。特定の犯罪組織への帰属を示す入れ墨の存在により、当該犯罪組織からの離脱が困難になる場合があるため、米国においては自発的な犯罪組織脱退者に対して入れ墨除去手術の費用を公的に負担する場合がある。反社会的な組織に限らず、近代国家においても国家への帰属意識・忠誠の確認として入れ墨を入れた例がある。朝鮮戦争において中華人民共和国が義勇軍の名目で参戦した時、実際にはその名に反して多くの者が国民党軍から寝返ったばかりの兵士であり、人海戦術の使い捨ての駒とされた。そのため少なからぬ数の兵士が自ら国連軍に投降し、そうでなくても捕虜となった義勇軍兵士たちは、中華人民共和国への帰参を望まなかった。中国義勇軍の捕虜たちの3分の2を占める1万4000人が大陸ではなく、台湾への渡航を希望した。台湾への渡航を希望する者は、自らの意思で、あるいは半ば強制されて、国民党への忠誠・反共を表す文言を入れ墨として入れた。

医療関係

入れ墨による色調再建(左乳輪)
乳頭・乳輪の再建
形成外科領域では、乳頭・乳輪の再建のために入れ墨の技術を用いることがある。
メディカル・アラート・タトゥー
意識を失っている状態やその緊急搬送時などの、自身の身体情報や病歴を伝達できない状況の想定下で、持病やアレルギーや検視では判別が難しい内臓の異常を、医療従事者などに迅速に知らせる目的のタトゥーのこと。脈拍を検べるときに発見しやすい手首の内側に入れる人が多い[25]。緊急性はないが、見た目で判別がつきにくいことで他者から誤解されやすいため、片耳に聴覚障害を知らせるタトゥーを施した例もある[25]
傷跡隠し
家庭内暴力や暴行、自傷の傷跡を隠すためのタトゥー。[25]

入れ墨の技術

手ぬぐいを噛んで痛さに耐え恋人の名を刻む江戸時代の女郎。『風俗三十二相月岡芳年、1888年

器具を使ったから「洋彫り」、手で彫ったから「和彫り」とは一概に分類できず、絵の画風や全体の様子で判断する。和風の絵でも筋は器具でぼかしは手彫りで行うなど、手法は彫師により千差万別である。現在は機械彫りが主流であるが、暴力団などの間では手彫りが一種のステータスとなっている。一般的に、伝統的な手彫りの方が痛みが少なく傷の治りが早い。現在では技術の進化、向上により肌へのダメージが最小限に抑えられていて、彫師の技術はそこで判断することもできる。手彫り・機械彫り共に、彫師の技術や作風によって所要時間に開きがある。

手法及び用語

手彫り(テボリ)
柄の先で針を束ね、手を動かして肌に墨を入れる。
羽彫り(ハネボリ)
手彫りの技術。針を皮膚に刺した後、針先を跳ね上げることで穿孔が広がり色素が多く入る。
突き彫り(ツキボリ)
手彫りの技術。
隠し彫り(カクシボリ)
腋下・内股など他人には見られにくい場所に、花びらなどで隠れた名前や言葉、淫靡な絵を彫る。
毛彫り(ケボリ)
人物や動物の毛の部分を彫ること。通常よりも細い針で彫ることが多い。
筋彫り(スジボリ)
下書きとしてボカシの前に全体の輪郭を彫る。
ボカシ(あけぼの)
墨の濃淡や各色を用いて、全体を彫っていく。
ツブシ
塗りつぶすこと。
シャッキ
手彫りの音。
マシーン彫りの様子
機械彫り(キカイ・マシーンボリ)
磁石の磁力またはモーターの回転運動を用い、機械の上下運動により肌に針を刺す。束ねられた針には浸透圧により墨が蓄えられる構造。
ライナー・マシーン
ライン(筋彫り)を行うための「ライナー」と呼ばれる入れ墨器具。
シェーダーマシーン
シェーディングを行うための「シェーダー」と呼ばれる入れ墨器具。シェーディングとは、ツブシやボカシ、カラー等の施術を指す意味の用語。
半端彫り(ハンパボリ)
彫りの痛みに耐えられない、費用が続かないなどの理由により、入れ墨が途中で終わっていること。
白粉彫り(オシロイボリ)
血行が盛んになると浮き出ると言われている彫り物のこと。創作上のものであり、現実には不可能である。蛍光塗料を用いてブラックライトに浮かび上がる入れ墨は存在するが、通常の状態でも絵は見える。
二重彫り
刺青を入れた人物の図柄を入れること。水門破り、花和尚魯智深、九紋龍史進など。
図柄の周囲の雲や波を彫ったもの。
抜き彫り
額を彫らずに主題だけを彫ったもの。
古梅園
和彫りのインクとして使われる書道用の固形は奈良の古梅園製の和墨が良いとされ、明治時代の彫師の間では古梅園製の「桜」が定番として使用されていた。続きを別の彫師が彫る際、墨の銘柄が違っていると色が変わってしまうため、共通してこの銘柄が使われたのだという。菜種油煙の上質な墨が刺青にはいいとされており、現代では梅花墨、金神仙、五つ星紅花墨などが使われている。

医療的側面

昭和の頃に和彫りの入れ墨を施した者に対しては、MRI検査を行うことができない場合がある。MRI検査の際に金属が多く含まれる顔料を使用した入れ墨がある部分に、火傷や痛み、入れ墨の変色が発生することや、MRI画像にノイズが入ることがあるためで[26][27][28]、このようなトラブルは入れ墨に使われるインクの成分 (特に酸化鉄やその他の金属成分が原因とされる) によって発生する。そのため病院ではMRI検査の前に患者に入れ墨の有無を確認することがある。ただし、このような事例は平成以降に製造されたタトゥーインク(酸化鉄などをチタンなどの磁性を帯びない金属で代替しているインク)の場合には稀であり[29]アメリカ食品医薬品局は火傷のリスクに比べてMRIによる診断を行う有用性の方が非常に高いとしている[30]。MRI撮影を行う場合でも、入れ墨がある部分に冷却材などを当て、医療従事者が細心の注意を払い、異常があれば即座に撮影を中断できるような体制を作ることが求められる[31]

感染症

オートクレーブ等の殺菌方法では、血液中の全ての種類のウイルスを死滅させることはできないため、施術用の針やインクの再利用は感染症の原因となる。そのため、血液の付着する施術用の針やインクは使い捨てにする必要がある。

安全管理が不十分な場合、B型肝炎C型肝炎HIVに感染する場合がある[32]ほかアレルギー[33]肉芽腫[34]の発症が報告されている。

入れ墨の除去

美容外科では入れ墨の除去手術が行われている。その方法としては、皮膚の表面を削りガーゼ等で顔料を吸い取る、自家植皮をする、レーザーで色素を分解する、入れ墨が小さい場合には縫い合わせる、といったものがある。入れ墨の除去手術をしても手術痕は残る上、複数回の手術が必要となるため患者は苦痛に耐え続けなければならず、健康保険が適用されないため多額の費用も必要であり、種々の困難を伴う。入れ墨を施す際には、除去手術が極めて困難であることを十分に考慮する必要がある。

日本における入れ墨

入れ墨の歴史

上古まで

縄文晩期・弥生期の日本は世界でも有数の入れ墨文化を有していたと考えられている[誰によって?]。紀元前1500年頃より、縄文時代の土偶には入れ墨を思わせる紋様が描かれている。縄文人と文化的関係が深いとされる蝦夷アイヌ民族の間に入れ墨文化が存在(後述)したため、これも縄文人による入れ墨の習慣の傍証とされる。

続く弥生時代にあたる3世紀倭人(日本列島の住民)について記した『魏志倭人伝』には、「男子皆黥面文身」との記述がある。黥面とは顔に入れ墨を施すことであり、文身とは身体に入れ墨を施すことであるため、これが現在確認されている日本の入れ墨の最古の記録である。同書には水に潜って漁をするときのまじないとして入れていたものが装いに転じ、地域や階級によって刺青が異なるとも書かれている。

また『魏志倭人伝』と後の『後漢書東夷伝』には、

  • 「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」(魏志倭人伝)
  • 「諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差」(後漢書東夷伝)

と、共通した内容の入れ墨に関する記述が存在し、入れ墨の位置や大小によって社会的身分の差を表示していたことや、当時の倭人諸国の間で各々異なった図案の入れ墨が用いられていたことが述べられている。魏志倭人伝ではこれら倭人の入れ墨に対して、中国大陸の長江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗との近似性を見出し、『断髪文身以避蛟龍之害』と、他の生物を威嚇する効果を期待した性質のものと記している。

古墳時代4世紀になると入れ墨を施した埴輪(黥面埴輪)が登場するようになるが、6 - 7世紀ごろになると入れ墨の文化は徐々に廃れていくものとなる。

古代の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。これは『古事記』の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述[35]を論拠とするものである。

さらに、『日本書紀』には蝦夷が入れ墨をしているという記述があり、全員入れ墨をしていたという邪馬台国大和朝廷とでは、入れ墨に関して正反対の態度が窺える。

これに対して、顔に入れ墨と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土[36]している例や、出土地域による図案の違いから、類型化もなされている事実などが反証として挙げられている。

ただし、近年の研究ではアイヌの入れ墨は縄文の形式を踏襲したもので、弥生時代・古墳時代の黥面は大陸側の龍文化の影響を受けて成立していたことが示されており、日本列島の東西黥面文化さらに大陸文化が混じることで、古代日本のいれずみ文化が形成されていたことが指摘されている。また、『古事記』『日本書紀』にみる黥・文身の内容は事実の記録ではなく、当時の国際情勢から政治的に操作されての記述であることが指摘されている[37]

奈良時代 - 戦国時代

古代の日本における入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および513年百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられる。

遣唐船の乗組員に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された。

この他、蝦夷隼人といった人々や儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた。日本においては耳なし芳一の説話が有名だが、経文を直接身体に書き込む行為は、仏法への帰依とその加護を得る目的で広く行われた。現代のタイカンボジアなど上座部仏教の盛んな地域では、経文を身体に入れ墨する習慣が一般的に見られる。

中世に入ると人々の日常生活を描いた絵画が残されるようになるが、これらの絵画に入れ墨をした人々が描かれている例は見られない。

また、戦国時代には死を覚悟した雑兵達が、自らの名や住所を指に入れ墨で記す個体識別目的の習俗があった。

江戸時代

浪子燕青水滸伝より)
歌川国芳
入れ墨を施した男性
フェリーチェ・ベアト撮影(1870年頃)
アドルフォ・ファルサーリ撮影、手彩色写真(1881年)[38]

17世紀頃になると入れ墨に対する記録が残されるようになる。当時、入れ墨による芸術や表現の文化は社会であまり見かけないものであったが、江戸神田の釣鐘与弥左衛門には文字の入れ墨で「南無阿弥陀仏」とあったことが知られている。江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始めたことから、犯罪の抑止を図る目的で入墨刑が用いられるようになり、1720年(享保5年)には徳川吉宗が中国の明王朝で行われていた墨刑(入れ墨刑)を採用した。そのようなことから江戸の後期頃になると、罰としての「入墨(いれずみ)」(烙印)と「彫り物(ほりもの)」(芸術表現)とで呼称を分けて、そこでの意味を区別する風潮が生じていた[37]

遊廓などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現し起請する手段として、上腕に相手の年の数のほくろを入れたり、「○○命」といった入れ墨を施す「起請彫(きしょうぼり)」(神仏に禊を立てるという意味を持つ彫り物[39])と呼ばれた表現方法が流行した。

こうした風潮に伴って、古代から継承された漁民の入れ墨や、経文や仏像を身体に刻む僧侶の入れ墨といった、様々な入れ墨文化が都市で交わった。

現代に続く日本の華美な入れ墨文化は、江戸時代中期に確立された。

明和安永期(18世紀後半)になると、侠客の間で刺青を誇示することが目立ってきた[39]。江戸火消しや鳶などを中心として『』を見せるために好んで施した。それは江戸時代での美意識を形成するものとなっている。

当時中国趣味が流行して『通俗忠義水滸伝』(18世紀後半)など翻案物が多く出版され、寄席・講談などで演じられるなど水滸伝ブームが起こり、物語に登場する豪傑たちの活躍を刺青にするのが明治期まで流行った[39]。水滸伝は登場人物に刺青が施されている(史進など)こともあり、任侠道にも通じるいわゆる「漢」の勇壮さを江戸期の人々に印象付け、刺青文化の発展に強い影響を与えた。

江戸時代末期には歌川国芳を代表とする浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての入れ墨の技術が大きく発展した。

国芳は華やかな刺青に覆われた勇壮な男たちを描いた『通俗忠義水滸伝豪傑百八人之一個』シリーズを文政10年(1827年)より出版し、全身に刺青を施すという刺青史上画期的なブームを作った[39]。また、同じ文政年間ごろから、墨だけでなく朱や藍が入れられるようになった[39]

背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな入れ墨の技法は、この時代に完成されている。

11代将軍徳川家斉文化年代(19世紀前半)に入れ墨の流行は極限に達し、博徒火消し飛脚など肌を露出する職業では、入れ墨をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。

刑罰で入れ墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もあった。幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、入れ墨を施す者が現れるようになり、図案にも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された。

下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら入れ墨を入れていたと言われる。ただし正容は幕府に不行跡を理由に隠居を命ぜられた。

時代劇で有名な江戸町奉行の遠山景元に入れ墨があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない。

また、当時の武士階級の間では入れ墨のある身体を斬ることに対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していたことも記録[注釈 4]されており、市中では帯刀できない町人にとって刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった。

明治以降

明治維新以降、近代国家体制の構築に邁進した新政府は外国人の目に対する配慮から、1872年(明治5年)の太政官令によって入墨刑を廃止するとともに、同年11月に司法省が発令した違式詿違条例を受けて旧幕臣出身である大久保一翁東京府知事が発した布告によって、装飾用途の入れ墨を入れる行為を禁止[注釈 5]し、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。入れ墨を施す行為は厳しく取り締まられ、当時の彫師達は取り締まりを恐れて住居を転々と移した。

他方、日本の伝統的入れ墨の芸術性と高い技術は外国船の船員を通じて世界に広く知られ、1881年に英国のジョージ5世とアルバート王子が来日に際して日本の入れ墨師による入れ墨(花繍)を彫った[41]。また、1891年に皇太子時代のロシア皇帝ニコライ2世(ジョージ5世の従兄弟にあたる)とギリシャのゲオルギオス王子が来日した際にも、両腕に龍の入れ墨を入れたことも知られている[42]

その後、時を経るごとに入れ墨はある程度黙認される存在へと移行し、小泉又次郎小泉純一郎の祖父)のように禁令後に入れ墨を入れながら政治家として活躍する人物も現れた。

普請現場で働く大工。威勢の良い男で、入れ墨をしている。
(『童謡妙々車』(刊行年:嘉永8年(1855年)~明治7年(1874年)より)[43]

また、入れ墨の持つ性的装飾としての側面や嗜虐性も大衆文化のなかで再び焦点化され、明治期の谷崎潤一郎の『刺青』や昭和初期の江戸川乱歩の『黒蜥蜴』などの小説世界に入れ墨を施した登場人物が描かれた。また、推理小説で名を馳せた横溝正史も多くの作品で入れ墨をモチーフとして、あるいは小道具として多用している。

戦後

終戦後の1948年(昭和23年)、米国GHQの占領政策の一環として、入れ墨は再び合法化されることとなった[44][45]。欧米を主とした海外からの日本の伝統的な入れ墨に対する関心の高まりにも関わらず、明治以降の非合法化されてきた印象は払拭されなかった。1960年代以降、娯楽の中心だった映画が入れ墨と「ヤクザ」との結びつきをドラマチックに焦点化し(ヤクザ映画)、大衆文化の中で「入れ墨=ヤクザ」のイメージが広く形成された。

現代では、海外のタトゥー文化の趨勢に呼応した芸能人やアーティスト、ファッションモデルなどから影響を受けて入れ墨(タトゥー)を施す若者が増加傾向にある[46]。おしゃれを楽しむためのツールとして「ファッションタトゥー」「プチタトゥー」「ワンポイントタトゥー」を施す女性もいる。また、入れ墨を扱った「TATTOO girls」[47]など入れ墨を主要な題材としたファッション雑誌も各種出版された。

しかし戦後も容認されにくい傾向は残り、公衆の場で受け入れられているとは言い難く、採用拒否やスポーツでの出場禁止、入場拒否などが認められている(後述)。また、入れ墨保有者が結婚や出産などに際して、家庭や教育で支障をきたすこともあり、親の入れ墨を理由に子どもが学校でいじめを受ける、逆に親の脅威から敬遠されて友人ができないなどの事例もある。

芸能人でも例えば酒井法子が覚醒剤所持で逮捕された際には、入れ墨をしていたことが「異変の兆候」として報道された[19]ように、過去の不良行為の印として扱われる傾向にある[48]

入れ墨愛好家からはこうした風潮が形作られたことを法律の拡大解釈であり、警察の示威行為とみる意見もある[49]

それでも、2020年代に入ると大手飲食チェーン店でも人手不足を背景に入れ墨を容認するようになった。例として2023年11月1日にはスシローが服務規定を改定し、入れ墨を規定で認めることとなった[50]

一方で海外で和彫は人気のあるジャンルであり、東洋デザインのオリジナリティと精密さから外国人は多くの和彫りをいれている。また日本の彫師彫巴など海外に拠点を移す彫師も増えている。[51][52]

呼称

日本において入れ墨が施されて来た理由は、身体装飾・個体認識・社会的地位や身分の表示・宗教上の理由など多種多様であり、その歴史的経緯はいくつかの曲折を経たため、多様な呼称が存在する。

  • 紋身もんしん
  • 倶利迦羅紋々くりからもんもん[注釈 6]
  • 紋々もんもん
  • 彫り物ほりもの
  • タトゥー

など様々な表現で呼ばれており、入れ墨を施す行為も墨を入れる彫るなどと表現されるほか、苦痛と金銭的な負担をかけて『がまん』と呼ぶ場合もあるとされる。なお、近年のマスメディアによる報道、法律・条例の条文では、入れ墨という呼称が用いられる[53][54]。古来より、入墨彫物という呼称が多く使われる。ほか歴史的にげい文身ぶんしん箚青(とうせい、さっせい)のほか、入黒子(いれぼくろ)といった呼称がある。日本の伝統的な入れ墨を和彫りと呼ぶのに対して、欧米における入れ墨の呼び名であるタトゥー (tattoo[55]洋彫りと呼び分けている場合もあるが、両者に本質的な違いはなく図案や描画の技法に違いがあるのみである。

日本社会における取り扱い

法的・社会的規制

被施術者側
2007年の三社祭では都迷惑防止条例違反の疑いで逮捕者を出した

入れ墨に対する法的規制は、敗戦後の1948年(昭和23年)、軽犯罪法の公布とともに解かれた(それまでは警察犯処罰令で処罰対象だった。人権侵害の疑いがあることからGHQにより入れ墨禁止が条文より外された)ため、現在の日本では入れ墨そのものに対する法的規制は存在しない。明治以降の法規制の結果、入れ墨に対する規制が生じるものとなっている。

社会にみる規制行為
入場制限

入れ墨を入れた者は公衆浴場法で定められた浴場を除いた非認可入浴施設[注釈 7][56][57]温泉大浴場サウナスーパー銭湯健康ランドなど)や遊園地、プール海水浴場ジムゴルフ場などへの入場を断られることがあるが、これは各施設の規則によるものであり法的な制限はない。施設管理者に逆らった場合は建造物侵入罪(刑法130条前段)の構成要件に該当し、入れ墨をした者が退場を求められても従わなかった場合は不退去罪(刑法130条後段)の構成要件に該当する。しかし最近では外国人も多くいるため、入場を規制しない施設や入れ墨をシールで隠す対応を取れば入場を可能とする施設が出てきている[58]。ただし、公衆浴場法では入浴を拒む理由として入れ墨が認められていないために、公衆浴場法で定められた公衆浴場では入れ墨を入れた者も入浴が可能である。全国の公衆浴場で構成している全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会(全浴連)も、「入れ墨のある人の入浴を認めており、拒否することはできない」との見解を出している[59]。愛媛県の道後温泉など温泉でありながら公衆浴場である場合などは入れ墨を入れたものの入浴を認めている場合がある。

  • 2010年1月、「入れ墨お断り」の看板を無視して入浴施設に入ったとして建造物侵入罪に問われた裁判で、被告に懲役7か月の実刑判決(求刑・懲役1年)が言い渡された[60]
  • 神戸市の須磨海岸では、「須磨海岸を守り育てる条例」によって、「入れ墨その他これに類する外観を有するものを公然と公衆の目に触れさせること」が禁止されている。
  • 三社祭では地元暴力団「浅草高橋組」が介入する例が度々確認されており、逮捕者も出ている[61]
雇用

就職採用に当たり身体検査のある企業への就職には制限がある。公務員では自衛官など一部の職種において、入れ墨も「身体上の不具合」として採用していない[62]

入れ墨が原因で懲戒解雇されるか、もしくはマイナス評価を与えられたり、コンプライアンスの観点から雇用契約を破棄されたりと、社会生活上様々なリスクを負ったケースも報告されていた。

2012年2月の大阪市の事例では、児童福祉施設で働く30代の市役所職員が子どもたちに入れ墨を見せて脅していたという件で、大阪市長橋下徹は全職員を対象にアンケート調査を行い、入れ墨が他者の目に触れる可能性のある職員に関しては、直接市民と接することのない部署への配置転換を行った[63]。大阪市による入れ墨調査について回答を拒否した職員に対しては戒告処分となったが、最高裁判所はこの訓告処分を合法とした[64]

スポーツ界

全日本柔道連盟2016年12月に、入れ墨をした選手を2018年4月以降、高校生以下の全柔連主催大会で出場禁止にすることを決定。この年、入れ墨をした中学生選手が出場してから対応を検討してきた[65]Jリーグでは各クラブが厳重注意という形で通達をしている[66]プロ野球ではアレックス・カブレラのような例がある。プロボクシングではライセンス取得のために、皮膚移植やレーザー除去した選手もいる[67]。2014年時点で日本ボクシングコミッション(JBC)のルールブック「試合出場ボクサー」の項には、入れ墨に関する記述があった[68]日本相撲協会では2019年2月に相撲規則の力士(競技者)規定を改定し、これまで部屋の師匠が口頭で伝えてきた入れ墨(他、伸びた爪や過度な験担ぎによるひげ)禁止を明文化、力士会で関取衆にも伝えた[69]

生命保険

生命保険に加入する際は、告知書において入れ墨の有無を申告させられるため、それをもって生命保険の加入を拒絶されることがある。また、入れ墨は皮膚がんの発生リスクを高めるほか、病気の発見が遅れる原因にもなるため、疾病の状態によっては不担保となり、保険金が支払われないことがある。

施術者
医師法

暴力団員、またその関係者に対する逮捕を主な目的とするために、平成時代では医師法を適用することでの取り締まりを行おうとした。

2018年11月の大阪高裁の判決では、タトゥーは歴史や現代社会で美術的な意義や社会的風俗という実態があることを踏まえ、「医師の業務とは根本的に異なる」として医行為には当たらず、医師免許は必要ではないとした[70]。これは厚生労働省の通達と異なる判断であることや、草野耕一裁判長が補足意見として「タトゥーの施術による保健衛生上の危険を防ぐため法律の規制を加えるのであれば、新たな立法によって行うべきだ」と述べたほか、誤解を解くためとして「被施術者の身体を傷つける行為であるから、施術の内容や方法等によっては傷害罪が成立し得る」と述べたことから[71]、入れ墨を取り締まる新法が登場する可能性もある[70]。彫り師の団体である一般社団法人日本タトゥーイスト協会では、衛生上の問題は資格制度により対処すべきだとしている[72]

その他

蝦夷・アイヌ・琉球の入れ墨

口元に入れ墨をしたアイヌ女性

蝦夷アイヌ民族奄美・琉球の領域では、それぞれ独自の入れ墨文化が存在した。

5世紀頃と比定される日本書紀の記事中には、武内宿禰の「日高見國[74]からの帰還報告として、蝦夷の男女が文身していたことが記されている(景行27年2月条)[75]

アイヌ民族の入れ墨は成人女性が手や口の周りに施すものが知られており、1871年(明治4年)以降禁止されたが隠れて行なわれることも多かったとされ、文化的に重要な位置を占めていたとされる。また、現代のアイヌ女性が重要な儀式に際して口の周りを黒く塗るのは、かつての習俗の名残とされる。

沖縄県地域のハジチ
奄美群島のハジチ

奄美・琉球では「ハジチ(針突・ハドゥチ・パリツク・ピッツギ)」と呼ばれる入れ墨文化があった。ハジチは女性のみが行い、奄美・琉球人であることを示すことで日本本土や中国の人攫いから身を守る役割があったとされる[76]。さらに、魔よけや後生(死後の世界)への手形とする民間信仰、成人儀礼としての意味もあり、美しさの象徴ともされた[76]

笹森儀助宮古島では11, 13歳に施す成女儀礼であり、またそれがないと後生(グソー)に行けないと著作に記されているため、かなり強制力があったようである。沖縄本島では14歳くらいから施し始め、少しずつ文様を増やしていく。文様には地方によって微妙な違いがあり[77]、両手に23の文様を彫りこんで完成とし、その頃が結婚適齢期とされていた。文様のそれぞれには太陽や矢といったさまざまな意味がこめられていた。宮古島の場合は手背や前腕に彫り、文様が多彩で、人頭税下、貧困にあえいでいた島であるので、米のご飯をたべる女性に育って欲しいという文様(食器、箸など)もある[78]

琉球王国が沖縄県として日本に併合された後もしばらくこの旧習は維持されたが、1899年(明治32年)10月21日に沖縄県にもハジチ(入れ墨)禁止令が出されたことで、差別の対象となった[76]。しかし、昭和初期までハジチを施す者がみられ、1980年代まで生存していたため、詳細な調査記録が残されている[76]

日本以外の入れ墨

アメリカ

腕の入れ墨を見せるアメリカ海兵隊の伍長(2009年)
首に漢字の入れ墨を入れたアメリカ陸軍の兵士(2009年)
Captain George Costentenus(1875年頃)
Nora Hildebrandt(1882年頃)
モード・スティーヴンス・ワグナー(1907年)

ヨーロッパの侵略者が入ってくる以前から、ネイティブ・アメリカンの間では入れ墨をする部族の習慣があった[79]。これは宗教儀式や戦いの儀式のためと考えられている。ヨーロッパからの植民者の間ではイギリスの節にあるように、土着民族の入れ墨を船乗りたちが取り入れていた。

アメリカ合衆国建国以降では、南北戦争では兵士の間で入れ墨が流行っていた記録があり[80]、大半の兵士は体のどこかに入れ墨をしていたと考えられている[81]。名前が記録に残る中で最も古いアメリカの入れ墨師であるMartin Hildebrandt英語版は、1845年頃から入れ墨師のキャリアを開始し、1870年にニューヨークで入れ墨彫りショップを開業した。また、イギリスから伝わってきた入れ墨をしたサーカス団の見せ物は、部族ばりの全身入れ墨を流行らせるきっかけとなった。1860年代にタタールの捕虜になり、強制的に顔から全身まで入れ墨を入れられた後、1870年代より見せ物師となって、アメリカではP・T・バーナムに雇われ興行したCaptain George Costentenusなどが有名である[82]。1891年には、サミュエル・オライリー英語版が最初の電動入れ墨彫り機を発明し、特許を取得している。

2015年の世論調査によると、アメリカ人の29%が入れ墨を入れている[83]。青年層ではその割合が非常に高く、20代後半の42%、30代の55%が入れ墨を入れている。一方、65歳以上の高齢層は11%と比較的低い。同調査の2003年の数字と比較しても2倍近くに増加しており、今後もこの割合は上昇するものと予想されている[84]。実際、2023年の調査では米国人の成人のうち約3人に1人(32%)が入れ墨を入れていることが分かっている。尚、男性より女性の方が入れている割合が高く、18〜29歳の女性では56%が入れているという結果となった。人種別では黒人が39%で最も高く、次いでヒスパニック、白人と並び、アジア系が14%と最も低かった[85]

警察官は州ごと異なるがおおむね夏制服(半袖)着用時に隠れる位置ならば容認される。しかし、他人から見えるタトゥーをしている人を採用しない会社は多い[84]

軍隊では身元確認となるため規制が緩かったものの、ドッグタグ(認識票)が普及したことで実用上の意味は無くなっている。さらに2010年以降からは厳格化が進んでおり、陸軍では夏用制服を着た際に見えないように肘から先への入れ墨を禁止し、海兵隊は腕、首、顔への入れ墨を禁止[86][87]、海軍・空軍でも年々基準が厳しくなっている[88]。しかし、陸軍では2022年に兵士が入れ墨を入れてもよい身体の部位が増やされた[85]

一方、警察は深刻な人手不足から刺青関連の就業規則を見直している場合がある。オハイオ州のミドルタウン警察署では2022年11月に刺青を市民に見せることを解禁した[89]

日本同様に入れ墨を消したいと考える人も存在し[86]、世論調査会社ハリスポールの調査によると、タトゥーを入れたことを後悔しているという人の割合は2012年で約14%、2015年で約25%と増加。米国美容形成外科学会(ASAPS)によると、実際に除去施術を行った米国人の数も2015年には前年比39.4%増となっており、この5年で著しく増えたという[84]。タトゥーに批判的な声もあり、オバマ大統領(当時)やその他責任が求められる職業に就く立場からの批判も出ていた[90]

フランス

2020年に全身に入れ墨をいれた男性教師が子どもを怖がらせるという理由で、6歳未満の子どもを教えることを禁じられた[91][92]

イギリス

古代のグレートブリテン島では、ピクト人などが入れ墨をしていた記録がある。また、10世紀前後にイングランドを征服したバイキングも入れ墨をしていた記録がある[93]

16世紀より海外進出を始め、17世期から20世紀中盤まで海洋国家として世界中に植民地を保有していたイギリスでは、太平洋諸島のポリネシア人がしていた刺青を船乗り英語版が真似たことから刺青文化が本格的に始まった。16世紀には、エルサレムに巡礼し聖なる入れ墨を入れることが流行となった[94]。また、植民者たちが入れ墨をした土着部族をイングランドに強制的に連れ帰り、見せ物としてビジネスにすることもあった。1577年にマーティン・フロビッシャーが3人の入れ墨のイヌイット(男、女、子供)をロンドンで見せ物にしたのが初期の記録として残っている[95]。1769年に出版されたジェームズ・クックタヒチへの航海に関する本では、現地人が入れ墨を指して「tatau」と呼んでいたことが記載されている。これは英語の「tattoo」の語源となった。

19世紀になると、見世物小屋サーカスのエンターテイナーの間でも入れ墨が流行した[96][97]。1804年にJean Baptiste Cabriが入れ墨を入れてサーカスを行ったことが初期の例である[98]。1862年、当時王太子であったエドワード7世は、エルサレムで5つの十字架と3つの王冠の入れ墨を腕に入れた[99]。19世紀末に世界一周航海をしたイギリス王ジョージ5世は、1881年に日本に寄港した際に横浜の彫千代という彫師に龍の刺青を彫らせた[100](従兄弟のニコライ2世もその10年後に世界一周航海で日本に立ち寄った際に長崎で龍の入れ墨を入れたという)。1889年にはSutherland Macdonald英語版がイギリスで最初の入れ墨彫りの専門店を開業した[101]

また、19世紀にイギリスからオーストラリアに流刑判決になった人たちの多くは、入れ墨を入れていたことが確認されている。[102]

2013年に公表された英国階級調査の際には、タトゥーを入れていることがプレカリアートと名付けられた最も低い階級の典型的な特徴と認識されており、まともではない下品な人とみなされている[103]。また、タトゥーと同じようなものとして、喫煙アルコールの過剰摂取、肥満なども傷んだ身体と病的なアイデンティティの特質を具現化していると思われた[103]

現在[いつ?]、主に刺青は船乗りや労働者階級のファッションという傾向が強く、労働者階級の人間は刺青を全く隠さずに仕事(肉体労働物、食堂の従業員、駅のスタッフ、バスのドライバー等)に従事していることが多い。反面、中間階級以上では刺青はあまり見受けられず、アーティストや芸能界以外では好ましくないものとされるケースが多い。

中国

人像
ヌク・ヒバ島の戦士(1813年)

歴史的には、書経史記志怪小説筆記中国語版英語版などの史書には、入れ墨に関する記述がある。越絶書春秋左氏伝では蛮族の入れ墨(紋身 (Wen Shen))の習慣について記述がある。紀元前3世紀の荀子は犯罪者は入れ墨を入れられるべきであると説いている。先秦(または西周[104]?)の頃から犯罪者に入れ墨を入れる墨刑が行われるようになった(文身、鏤身、紮青、點青、雕青などと呼ばれた)[105]

の時代には入れ墨が盛んに行われていた[106][107]段成式の著作酉陽雑俎には人々の入れ墨の習慣が興味深く記録されている[108]。その後、棒打ちの刑や打ち首の対象となったため一時途絶えたが、その後も慣習は残る。

代の岳飛は背中に「精(尽)忠報國」の入れ墨があったとされる。

代の小説、水滸伝には入れ墨をしたキャラクターが多数登場する。花和尚(牡丹の刺青)の魯智深、九紋龍(9匹の龍の入れ墨)の史進、大蛇の入れ墨の張順燕青楊雄などが見事な入れ墨を入れていたことになっている。この小説が版画の挿絵付きで1757年に日本でも出版されると、龍・虎・唐獅子・花・宗教画などをモチーフとした飾りとしての入れ墨が流行するきっかけを作った。

1920-30年代には上海などでモダンな断髪とともに、刺花(入れ墨のこと)が下流社会の男女の間で流行した[106]

中国共産党政権下では公的には入れ墨は禁止されており、入れ墨のある者は軍人を含む公務員に採用されない。しかし実際には多くの彫師が店を構えていて、ほとんど取締りを受けていない。

近年では欧米由来の図案のものが多く見られるほか、北京周辺や東北では、日本・韓国の影響で日本風の入れ墨を入れる者も多い。

2018年1月、中国本土の放送に関する監督庁である国家新聞出版ラジオ映画テレビ総局は、入れ墨のある芸能人は低俗であるとして、テレビ、ラジオ番組で取り上げない方針を打ち出している[109]

2020年8月、甘粛省蘭州市の運輸委員会はイメージ向上のため、タクシー運転手にタトゥーの除去を命じた[110]

2021年12月28日、中国国家体育総局は(帰化選手も増えている[111])国内サッカー代表選手に対し、タトゥーの除去を勧告と新たに入れることを禁止する通達を出した。また、既にタトゥーを入れている選手に対し、「特殊な状況」下で行われる練習や試合中はタトゥーを隠すよう指示した[112]

2022年6月6日、中国国務院未成年者保護指導小組は、未成年者が入れ墨を入れることを禁止する「未成年者の刺青規制に関する弁法」を施行した[113]

国内の少数民族では、トーロン族やタイ族系ルー族などが入れ墨の習慣がある[114]

台湾

日本統治時代の台湾で撮影された、タイヤル族の女性

もともとの住民である原住民族においては、男女ともに顔や手に入れ墨を入れる風習があったが、日本統治時代に禁止された。ただし、原住民族にとって宗教的な意味のある重要な文化であるためなかなか廃れず、1930年代までひそかに実施された。現在、1名のみ入れ墨を入れたセデック族の女性が生存している。

台湾の黒社会は大陸起源の集団と台湾起源の集団が存在するが、どちらの集団も日本との深いつながりを有するため、その施す入れ墨も日本の影響を強く受けており、入れ墨とパンチパーマといった日本やくざのスタイルを模倣することが広く行われていた。

近年に入り、有名女優がテレビドラマにおいて自身の入れ墨を堂々と露出しはじめたため、日本よりも“入れ墨のファッション化”が広く進行していると言われている。中華圏では貴族階級が派手な入れ墨を入れる宮廷文化が存在していたことも有り、入れ墨が各界で活動している台湾原住民族の固有文化でもあることから、庶民の差別感情も低いと言われている。

上述の通り、朝鮮戦争の元捕虜で台湾への渡航を希望した者について、国民党への忠誠を示す入れ墨を入れた例もある。

韓国

韓国では漢語由来の文身(문신:ムンシン)と呼ばれる。

儒教の影響が強い現代の韓国では、日韓併合以降に日本から流入した文化と言われているが、実際には李氏朝鮮初期に入れ墨の習俗があったことが記録されている。

李朝実録」中の世宗大王(1397-1450)時代の記録には、王世子(後の文宗)の側室と女官が対食(テシクあるいはパンドンム)と呼ばれる同性愛にふけったスキャンダルが記されており、宮中の女性同士が互いの愛情の証として「朋」という文字の入れ墨を尻に密かに入れるという風習があったことが記録されている。

1992年に施行された現行法では、医師免許のない者がタトゥーの施術をした場合、罰金や2年以上の実刑判決を受ける可能性がある[115][116][117][118]

2022年3月、憲法裁判所の大法院は医師免許のない者がタトゥーの施術を行うことに対しての違法性を再度認めた。彫師650名で作る組合の調査によると、2021年4月以来、彫師が懲役刑を言い渡される例が少なくとも6件確認されている[119]

近年の韓国では兵役逃れをするために入れ墨を入れるものもいる。韓国では徴兵制が施行されているが、入れ墨が全身にある場合は軍務に服す代わりに公益勤務対象になるという法律がある。このため、兵役を逃れようと全身に入れ墨を入れる者がいる。ただし、この全身への入れ墨を入れるという行為が兵役逃れを目的としたものだと認定されると、兵役免脱の罪になる[120]

フィリピン

ウィリアム・ダンピアによってロンドンで見せ物にされたミンダナオ島Giolo王子(1691年)

スペイン統治時代から秘密結社の文化が発達していた関係から、独特の図案の入れ墨を結社のメンバーの印として入れる習俗がある。特に有名なのは、犯罪結社であるシゲシゲスプートニクの印として有名なUFOマークの入れ墨である。

タイ・ラオス・カンボジア・ビルマ

タイには「サクヤン」と呼ばれる独特な宗教的入れ墨文化が存在する。魔除けとして寺院にて僧侶の手により、経文や図柄を入れ墨する習俗があり、毎年3月にはナコーンチャイシー郡の寺「ワット・バン・プラ」で、数千人が集まる入れ墨を儀式とした奇祭がとり行われる[121][122]

軍人や警察官にも入れ墨を入れている者が多く、その内容は弾避けに効果があるとされる呪文や経文であることが多い[123]

ニュージーランド

マオリの族長(1769年)

マオリ族の入れ墨はmoko(モコ)と呼ばれている。イギリスの植民地政策のもと、1840年にイギリス領ニュージーランドが成立する。ニュージーランド政府の政策により、モコ文化は一度途絶えることになった。しかし20世紀の後半になって復興運動がおこり再興された。美術大学の教授など、比較的社会的地位の高いとされる人間が、彫り師業を行っているケースがみられるのが特徴的である。

その他

マルキーズ諸島
サモア
ポリネシア
エジプト
キリスト教徒の一派であるコプトでは、右手首にコプト十字英語版の入れ墨を入れている。これは7世紀にイスラム教によって十字架の烙印が押され、宗教税を課された歴史に由来し、それが結束と反抗の象徴となった[124]

海外アーティスト関連

入れ墨はカウンターカルチャーと相性がよく、ロック[125]ヒップホップポップスのシンガー[126]やダンサーの多くが入れ墨を保有。また、音楽のテーマとして枚挙に暇がないほど取り上げられていることでも知られている[127]

2019年には歌手のアリアナ・グランデが、自らのヒットソング「7 rings」を翻訳し漢字で「七輪」と彫ったところ、調理器具の「七輪」と混同されるなど様々な指摘が飛び交い炎上。最終的に「七指輪」に修正している[128]

関連書籍

  • 斎藤卓志『刺青墨譜 : なぜ刺青と生きるか』春風社、2005年。ISBN 4-86110-053-4 
  • 斎藤卓志『刺青』岩田書院、1999年。ISBN 4-87294-150-0 
  • Ian Buruma and Donald Ritchie, The Japanese Tattoo (英語)
  • 中野長四郎『刺青の真実 : 浅草彫長「刺青芸術」のすべて』彩流社、2002年。ISBN 978-4-88202-740-9 
  • 市川重治『南島針突(ハジチ)紀行 : 沖縄婦人の入墨を見る』那覇出版社、1983年。全国書誌番号:87041409 
  • 小野友道『いれずみの文化誌』河出書房新社、2010年。ISBN 978-4-309-24524-9 
  • 玉林繁『文身百姿』文川堂書房、1936年。 
  • 宮下規久朗『刺青とヌードの美術史: 江戸から近代へ』日本放送出版協会、2008年。ISBN 978-4140911099 
  • 小山騰『日本の刺青と英国王室:明治期から第一次世界大戦まで』藤原書店、2010年。ISBN 978-4894347786 
  • 桐生眞輔『文身 デザインされた聖のかたち:表象の身体と表現の歴史』ミネルヴァ書房、2019年。ISBN 978-4623085071 

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク