アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

ポーランドにある、第二次世界大戦中の強制収容所

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenauポーランド語: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)は、ナチス・ドイツ第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容者の90%がユダヤ人アシュケナジム)であった。

世界遺産アウシュヴィッツ・ビルケナウ
ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)
ポーランド
「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
英名Auschwitz Birkenau
German Nazi Concentration and Extermination Camp (1940-1945)
仏名Auschwitz Birkenau
Camp allemand nazi de concentration et d'extermination (1940-1945)
面積192 ha
登録区分文化遺産
登録基準(6)
登録年1979年
備考負の遺産
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置(オシフィエンチム内)
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置(マウォポルスカ県内)
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置(ポーランド内)
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
使用方法表示

アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ[注 1])に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)に作られた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコ世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばである[1]。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。

この項では、ビルケナウに限定せず、アウシュヴィッツ全体について述べる。

概要

アドルフ・ヒトラー率いるドイツが行ったホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、1940年から1945年にかけてドイツが占領下においた現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外に作られた、強制的な収容が可能な施設群(List of subcamps of Auschwitzに一覧)の総称である。ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」[注 2]を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。

地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策がドイツ国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。

労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには「劣等民族」を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ[注 3](参考:ホロコーストホロコースト否認)。

収容されたのは、ユダヤ人をはじめ、政治犯ロマシンティジプシー)、精神障害者身体障害者同性愛者、捕虜聖職者エホバの証人、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)[注 4]により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

なお1942年初めには、イギリスBBCラジオで「ユダヤ人がヨーロッパ内部の強制収容所に送られ、多数が殺害されている」と報じているが、同じ連合国アメリカでは、強制収容所の存在については犯罪者隔離施設であるかのように見せかけるドイツの計画がうまくいったためか、大戦終結まで殆ど報じられぬままであった。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、

  1. ナチス党が掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと
  2. 領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産性確保(必要な栄養や休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと[注 5]
  3. 1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと

などが挙げられる。

併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる[注 6]。生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。

すべての強制収容所は、ナチス親衛隊(SS)全国指導者であったハインリヒ・ヒムラーによって、SSの下に集約されており、SSが企業母体[注 7]となる400以上[注 8]にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くのドイツ企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。

経過

ヘスの絞首刑台(オシフィエンチム博物館展示)
  • 1940年1月25日 - ポーランド・オシフィエンチム市郊外の強制収容所建設を決定。
  • 1940年5月20日 - 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」[注 9]親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所。強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「ダッハウモデル」を踏襲している。初代所長は、SS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘス[注 10]ザクセンハウゼン強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。
    • 6月14日 - ポーランドの政治犯728人が到着。
  • 1941年 - 最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が第一強制収容所に完成。
    • 10月 - 収容者増加のため、ブジェジンカ村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を建設。
  • 1942年1月25日 - ドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」を受け、ヒトラーはドイツ国内のユダヤ人強制労働者(男性10万人・女性5万人)のアウシュヴィッツ移送を命令。
  • 1942年 - 1944年 - モノヴィッツ村周辺に、当時のドイツを代表する大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの収容施設を建設。この施設群は「アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ」[注 11]とも呼ばれる。
  • 1943年1月 - 3月 - 105,000人を超えるユダヤ人が到着。
  • 1944年4月 - 11月 - 585,000人を超えるユダヤ人が到着。
    • 8月2日 - 第二強制収容所の家族棟に収容されていたジプシーに対して最後の処刑が行われる。当日、約3,000人が殺害され、アウシュヴィッツからジプシーは一掃された。殺害された総数は推定で2万人。
    • 10月7日 -ゾンダーコマンドによる武装蜂起。ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム4」を破壊するが、まもなく鎮圧された。
  • 1945年1月27日 - ソ連軍により解放。
  • 1947年4月16日 - 初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス、アウシュヴィッツにて絞首刑。
  • 1979年 - 「アウシュヴィッツ強制収容所」として、ユネスコ世界遺産に登録。
  • 2007年6月27日 -世界遺産登録上の名称を「アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)」に変更。
  • 2009年 - 「ARBEIT MACHT FREI働けば自由になる)」看板が何者かに盗まれ、のち3つに切断され捻じ曲げられた形で発見される。2011年5月に修復完了。今後は複製品を掲示し、実物は厳重に保管される予定。

各強制収容施設の概要

アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)

航空写真

第一強制収容所正門
「死の壁」。多くの被収容者がこの壁の前で銃殺刑に処された

1940年5月20日、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物をSSが譲り受け開所。約30の施設から成る。平均して13,000 - 16,000人、多いときで20,000人が収容された。被収容者の内訳は、ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯が主となっている[注 12]。後に開所する「第二強制収容所ビルケナウ」や「第三強制収容所モノヴィッツ」を含め、アウシュヴィッツ強制収容所全体を管理する機関が置かれていた。

赤レンガの積み立てられた2階建ての建物で、周りは鉄製のバリケードに覆われており一か所だけバリケードがない部分が入り口である[2]。入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている[2]。「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺瞞(ぎまん)に対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考える向きもあるが、実際にはこの書体は当時の流行であった。10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して銃殺刑を執行するための「死の壁」があり、そのほかには、裁判所、病院などがあった。収容施設は、女性専用の監房、ソ連兵捕虜専用の監房などといった具合に分けられている。また、アウシュヴィッツ最初のガス室とされる施設が作られたが、後に強制収容所管理のための施設となった。戦後、ガス室として復元され、一般に公開されている。

アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ

航空写真

広大な敷地に300余りの施設が建設された
ガス室のあった複合施設(クレマトリウム)の破壊跡

被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設から成る。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。ピーク時の1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかに主だったものとしてロマ・シンティが挙げられる。

アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。被収容者から猟奪した品々を一時保管する倉庫や病院(人体実験の施設でもあったとされる)、防疫施設、防火用の貯水槽とされるプールがあった。ガス室は、農家を改造したものが2棟と複合施設(クレマトリウム)が4棟の計6棟があったとされるが、これらは被収容者の反乱や撤退時に行われた何かしらの証拠隠滅を目的とした破壊により原型をとどめていない。収容施設は、家族向けの監房、労働者向けの監房、女性専用の監房などに分けられており、1943年以降に建てられた南側の収容施設(全体の3分の1程度の棟数)は、湿地の上に満足な基礎工事もなく建てられており、特に粗末な作りであったと伝えられている。ここには主に女性が収容された。

アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ

航空写真

最大の規模があったとされるイーゲー・ファルベン社の化学プラント(1941)
生産プラントは連合国爆撃機の標的となった(1944)

1942年から1944年の間に、当時のドイツを代表する イーゲー・ファルベン社(化学)、クルップ社(重工業)、シーメンス社(重電産業)といった大企業の製造プラントや、近隣の炭鉱に付随する形で大小合わせて40ほどの収容施設がモノビツェ村(ドイツ語名モノヴィッツ)に作られた。これらの施設群を「第三収容所モノヴィッツ」と呼ぶ。

オシフィエンチム市は鉄道の接続が良く、近郊は石炭と石灰の産出地。さらには内陸に位置することもあり、既存の生産拠点への空襲が危惧されるようになると、安い労働力と併せて注目されるようになった。

なかでも最大規模であったのが、700万ライヒスマルクを投資して建てられたイーゲー・ファルベン社の合成ゴム・合成石油プラント「ブナ」。同社は、1925年にドイツの化学関連企業6社が合体してできたコンツェルンであり、当時の総合化学業界としては世界を三分するうちの1社であった。また、1936年4月、ナチス率いるドイツ政府によって示された国家の重要な指針をとなる「四ヵ年計画」の遂行にあたって、産業面で大きな役割を果たすなどドイツ政府とは緊密に連携し合う関係にあった。

戦後のニュルンベルク裁判では「人道に対する罪」を理由に役員や技術者など被告の24人全員が有罪となり[注 13]、次いで1948年の「米英占領地区の合同管理理事会」でコンツェルンの解体が決定する[注 14]。各プラントは連合国軍の爆撃目標とされ、さらには1945年1月の解放の後、ソ連軍によって破壊されたため現在は残っていない。

収容所での暮らし

選別

ドイツ統治下の各地より貨車などで運ばれてくる。この全体は貨車が幾つも連なったような状態で、中は狭く多くの人がぎゅうぎゅう詰めに入れられた。運ばれてきた被収容者は、オシフィエンチム(ドイツ語名、アウシュヴィッツ)の貨物駅(1944年5月以降は第二強制収容所ビルケナウに作られた鉄道引込線終着点)で降ろされる。貨物駅ではアウシュビッツ・オーケストラなる音楽隊が演奏を奏でているが[3]、その後すぐに「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに分けられた。価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分となる。その多くが「女性、子供、老人」であったとされる。ここで言う「子供」とは身長120cm以下の者を指すが、学校や孤児院から集団で送られて来ていた子供たちは形式的な審査もなく、引率の教師とともにガス室へ送られた。

ナチス政権下のドイツ政府の制定した法の多くがそうであったように、選別は、「法令」に比べ規範(簡単に言えばルール)のあいまいな「訓令(または通達)」を受けて遂行されている。そのため規範の細部については「担当者」や「担当者が所属するグループ」の裁量に任された(「人体実験の検体として”双子”を選別する」といったような規範が、医師のヨーゼフ・メンゲレによって付け加えられたのはその一例)。このため個々の事例で、具体的にどのような行為が行われたのかが書面として残っていないことも多く、戦後の各裁判での事実認定を難しくしている主な原因となっている。

登録

収容の際に撮影された被収容者たち。縦じまの囚人服には、分類のためのマークがつけられている(オシフィエンチム博物館展示)

即刻の処分を免れた被収容者は、男女問わず頭髪をすべて刈り、消毒、写真撮影[注 15]、管理番号を刺青するなど入所にあたっての準備や手続きを行う。管理番号は一人ひとりに与えられ、その総数は約40万件とされる。私物は「選別」の段階までに、戦争遂行に欠かせない資源としてすべて没収されており、与えられる縦じま(色は)の囚人服が唯一の所持品となる。最後に、人種別・性別などに分けられた収容棟に送られた。

囚人服には「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さらには「ユダヤ」などを区別するマークがつけられている(ナチ強制収容所のバッジを参照)。これは、強制収容所内にヒエラルキーが形成されていたことを意味し、労働、食事、住環境など生活のあらゆる面で影響を及ぼしたと考えられる。ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、最下層にユダヤ人や同性愛者、ロマ・シンティが置かれ、下層にあればあるほど食料配給量や宿舎の設備、労働時間などあらゆる面で過酷状況に置かれ、死亡率も高くなった[注 16]。心理面では、下層の被収容者がいることで上層の者に多少の安心を与えると共に、被収容者全体がまとまって反抗する機運を作らせない狙いがあったと考えられる。

労働

イーゲ・ファルベン社の化学プラントで道路舗装を行う被収容者(1941)

労働は主に4つのタイプに分けることができる。一つ目は被収容者の肉体的消耗を目的とした労働。たとえば、石切り場での作業や道路の舗装工事などを行う「懲罰部隊」がこれに該当する。場合によっては、「午前中は穴を掘り、午後その穴を埋める」といったような、なんら生産性のない作業を命じられることもある。懲罰部隊に組織された被収容者の多くは短期間のうちに死亡したとされる。

二つ目は、戦争遂行に欠かせない資材・兵器などの生産や、収容施設の維持・管理などを目的とした労働。工場労働者や各施設の拡張・管理作業などがこれに該当し、何らかの技能や知識(電気工事士、医師、化学者、建築士など)を持つ被収容者が作業にあたった。懲罰部隊での労働と比較して程度の差こそあれ、劣悪な食料事情や蔓延する伝染病などにより命を脅かされる状況にあったことに違いはない。

三つ目は、所内で死亡した被収容者の処分を目的とした労働。ガス室や病気、栄養失調などで死亡したおびただしい数の遺体を、焼却炉などに運び処分する「ゾンダーコマンド(特別労務班員)」がこれに該当する。比較的待遇は良かったが、一方で口封じのため数ヵ月ごとに彼ら自身も処分された[注 17]。1期から13期まであり、解放直前に結成された12期のメンバーは武力蜂起による反抗を試みている。

四つ目は、ほかの被収容者たちを監視する「カポ(労働監視員、収容所監視員などと訳される)」である。主に第一収容所のドイツ人犯罪者から選ばれることが多かったとされ、被収容者ヒエラルキーの頂点に立った。戦後、過酷な懲罰を課したことで裁かれる者もいた。

住環境

バラック内部。三段ベッドの下は汚物を流す溝。右端は暖房(第二強制収容所)

住環境は非常に劣悪であった。この地域は、夏は最高37度、冬は最低マイナス20度を下回る。第一収容所はもともとポーランド軍の兵営であったため暖房設備は完備されていたが、収容所として利用された時には薪などの燃料は供給されなかったと言われている。掛け布団は汚れて穴だらけの毛布(薄手の麻布に過ぎない)のみであった。カポなどSSに協力する者には個室やまともな食事が与えられている。

第二収容所はバラックと言うべき非常に粗末な作りで、もともとポーランド軍の馬小屋であったものや、のちに一部は基礎工事なしで建てられたため床がなく、上下水道が完備されていないため地面は土泥化していた(汚水は収容者が敷地内に溝を掘って流した)。暖房は簡素なものがあったが、燃料の供給はされなかったと言われ、なぜこのような暖房設備が作られたのか、理由は不明であり、隙間風がいやおうなく吹き込み役目を果たしていなかったと言われる。排水がままならない不衛生なトイレ(長大な縦長の大きな桶の上にコンクリート板を置き、表面の左右に丸い穴をあけただけのもの)を真ん中にはさむ形で三段ベッドが並べられ、マットレス代わりにわらを敷いて使用した。トイレ使用は、午前・午後2回に制限され、目隠しになるものもなく、一斉に使用を強制された。非衛生的環境であったため、病原性の下痢も蔓延し、きわめて非人間的扱いがなされた。映画『シンドラーのリスト』では、汚物まみれのトイレの溝に隠れ、処刑をまぬがれた少年がいた描写がされている。

食事

収容した側された側双方の証言によると、食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされる[注 18]。公式には重労働者に2150キロカロリー、一般労働者に1700キロカロリーの食事を与えるという規定があったが、現場監督によって量は左右され、監視兵に厨房の食料を奪われるなど、実情はかけ離れていた[5]

配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館に展示されている「朝食:約50CCのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:ほとんど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど[6]」は一例で、実際は被収容者間のヒエラルキーや個々の労働能力、さらには収容時期によって待遇にかなりの差があったと見るのが自然だろう[独自研究?]。実際、1943・1944年以降は「業績に連結した食料配給体制」[注 19]が多くの労働者に対し実施されている。この制度は生産の全量的向上を目的としており、戦況悪化に伴い厳しくなった食料自給環境において、生産性の高い労働者に優先配給を行うというもの。

一般的ドイツ人の業績を基準に、業績の良い労働者に多く配給し、逆に悪い労働者は以前よりもさらに減らすというものだが、もともとほとんどの被収容者は一般成人が一日に必要とするカロリーに遠く及ばない量の食料[注 20]しか与えられていないなかで、比較すること自体無理があり、不幸にも減らされれば死は確実になるばかりである。生き抜くためにほんのわずかな増加分を得ようとする「人間の精神力」に期待しての制度であり、結果として被収容者同士が食料を奪い合うことが日常的にあったというのは、いかにその状況が過酷であったかを表している。

医療

強制収容所内は栄養失調や不衛生な環境によりチフスなどの伝染病が蔓延し、それらによる死者はかなりの数に上ったとされる。被収容者の中には医師や看護師などもおり、主に彼らが治療にあたった。

医療現場は「第二の選別の場」でもあり、回復が難しいと診断された被収容者は処分施設へまわされることになる。このため、選別が収容所内に知れ渡るまで医師は患者に対して極力入院を拒んだという。一方、当時のドイツ政府に組み込まれていた当時のドイツ赤十字(DRK)から派遣された医師は、治療以外に選別や人体実験に携わっていたとされる。

抑圧

高圧電流が流れた鉄条網(第一強制収容所)

アウシュヴィッツ全体の警備は約6,000名のSSによって行われているにすぎず、対して被収容者は最大で14万人を数える。一般予防としての懲罰は、圧倒的多数の被収容者に多大の心理的な抑圧を与えることを目的とし、行使以外にも見せしめによる擬似的な体験、連帯責任制や強烈な恐怖心を抱かせる懲罰の流布などにより、被収容者をコントロールする要となった。一方、先に触れた「口封じのためにゾンダーコマンドが"数ヵ月おき”に処分される」ことは、これが事実であれば、人種主義的な抑圧も併せることによって発生した「多すぎる死」を被収容者に隠すための処置であり、つまり懲罰はむやみやたらというよりも、被収容者のコントロールと人種主義的な抑圧のバランスの中で計画的に遂行されていたと見ることができる。

懲罰は「鞭打ち」「後ろ手に縛り体を杭に吊るす」「特別監房への移送」「過重労働(懲罰隊への入隊)」「懲罰点呼」などが挙げられる。いずれも激しい飢餓に苦しむ被収容者にとっては死を意味するものであったと言える。たとえば、90cm×90cmの狭いスペースに4人を押し込む「立ち牢」や、一切の水・食料を与えない「飢餓牢」[注 21]は、体力を確実に消耗させ、死に至らしめる。永続的に続くかのような苦痛と絶望が介在する懲罰の存在は、被収容者たちに計り知れない恐怖を与えたと考えられる。また「銃殺刑」や「絞首刑」[注 22]は、具体的な死の姿を瞬間的に見せつけ、しばしば所内にとどろく銃声は直接これを見ずとも緊張と忘れがたい恐怖を植えつけるのに十分であったと言える。絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという。

このような状況の中で脱走者も少なからず存在する。脱出した人数は約100人 - 400人程度だが強制収容所からの脱走と考えると脱走率は高いと言える。最終的に成功した脱走者数は、約150名とされている。成功した背景には内部のレジスタンスの協力があったとされている。中でも一番脱走者が多かったのがアウシュヴィッツ3である。しかし、収容所では、脱走があるごとに、脱走者の10倍の人数を見せしめとして無作為に選び、「飢餓刑」にすることが恒常的に行われていた。マキシミリアノ・コルベ神父が身代わりとなったのは、失敗した脱走者に対する見せしめとしてであった。

また、被収容者による「オーケストラ」が組織されていた。強制収容所到着直後の被収容者には明るい曲を、強制労働に向かう被収容者には行進曲を奏でたとされる。オーケストラの存在は、収容所が「人道的に」運営されていると主張するための、カモフラージュの一環として行われた。多くを奪われ、失意のうちにアウシュヴィッツへ送られてきたばかりの人々にはかすかな希望を与え、日々重労働を課せられる被収容者には逆に腹立たしさを覚えさせた。SSにとっては余興でもあり、その本分は人心を巧みに利用した被収容者に対しての欺瞞と侮辱であったと言える。奏者は特別待遇を受けたが(アルマ・ロゼに概要)、ゾフィア・チコビアクのように、「人々の死に自らの行為が間接的に関与していた」という思いから心に生涯にわたる傷を負った者もいた。

戦後、被収容者としての経験を持つ精神科医たちは、自らの抑圧体験を研究し精神分析学の発展に貢献した。たとえば、精神科医ヴィクトール・フランクルは、実体験を記した著書「夜と霧」で、激しい苦痛の中で精神がどのようにして順応し、内面的な勝利を勝ち得ていくかについて語るとともに、患者に対し実存主義的アプローチを採る「ロゴセラピー」を新たに提唱した。

大量殺害のための施設(ガス室)

ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム2」。最大の規模があったとされる。(1)入り口(2)脱衣室(3)ガス室(4)ガスを投入するための穴(5)遺体運搬のためのエレベータ(6)5つの搬入口から成る焼却炉

ドイツ政府が推し進めた人種的な抑圧にも通じる「東部ヨーロッパ地域の植民計画」は初期段階において占領したポーランド地域のドイツ化を目的とした。当時のポーランドは農業後進国であり、入植したドイツ人による農業生産の機械化で数百万人の余剰労働者が生まれると試算したドイツ政府は、そこに住むポーランド人やユダヤ人などの資産(農地、工場、住宅など)を接収(時には非常に安い価格で買い上げ)するとともに、強制移住させることを決定する。1942年1月には、同計画について関係機関間における認識の共有化を図り、より強力に推し進めるための「ヴァンゼー会議」が開かれた。

しかし、戦況悪化により移送や移送先確保が難しいなど計画が行き詰まると、「特別措置14f13[注 23]に准じた「大量殺害」に関する研究の意義が増し、各強制収容所でもなされるようになったと考えられる。ダッハウ強制収容所の排気ガスを使った一酸化炭素による中毒死の研究「ガス車」は、事実であれば、一例と言える。

チクロンBの缶(オシフィエンチム博物館展示)

アウシュヴィッツでは、日々送られてくる被収容者の効率的殺害の手段として「ガス室」を研究し、実際に用いたとされる。最初のガス施設(クレマトリウム1)は1941年頃に第一強制収容所に作られ、実験をかねてまず約800人のソ連兵捕虜・ポーランド人が送られた。後に第二強制収容所に4つのガス施設(クレマトリウム2 - 5)[注 24]が1943年3月 - 6月にかけて、さらに農家を改造した2つのガス施設(赤い家、白い家)[注 25]の計7施設が作られたとされる(第一強制収容所のガス室は、後に強制収容所管理のための施設に改造したとされる)。使用したガスは「チクロンB(防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治にも使用)」で、効率良く処刑を行うための研究班を配し「32分で800名処刑可能であった」とされる。死体は施設に備えられた焼却炉や焼却壕などで処分され、この作業にはゾンダーコマンドがあたった。死者の骨は砕かれてビスチュラ河に捨てられ、現在では慰霊碑が立てられている。

これらの施設は、1944年10月に起きたゾンダーコマンドの反抗による破壊(クレマトリウム4)、ソ連軍接近を察知したSSによる破壊で、現在当時のままの形をとどめているものはない。オシフィエンチム博物館で閲覧できるクレマトリウム1は復元されたものである。

人体実験

人体実験の舞台となった第10号棟の病院(第一強制収容所)

ドイツ人医師たちは、被収容者をさまざまな実験の検体とした。いわゆる「人体実験」である。カール・ゲープハルトエルンスト・ロベルト・グラーヴィッツホルスト・シューマンらはスラブ民族撲滅のために男女の断種実験を、ヨーゼフ・メンゲレ双子身体障害者、精神障害者を使った遺伝学人類学の研究を行ったとされる。

ほかにも新薬投与実験や有害物質を囚人の皮膚に塗布する実験などが行われた。命を落とした者は数百に及び、たとえ生還できても多くには障害が残った。ニュルンベルク裁判などはこれらの行為を医療犯罪として裁いた(医者裁判に概要)。また、裁判の結果を受け、医学的研究における被験者の意思と自由を保護する「ニュルンベルク綱領」が示された。

死体焼却施設

強制収容所では大量虐殺が行われたため大量の死体処理が問題になったが、この死体を無差別に大量火葬する施設がクルト・プリューファーのもとトップフ・ウント・ゼーネ社により建設された[7]

赤十字国際委員会(ICRC)とドイツ赤十字(DRK)

まずは「赤十字国際委員会(ICRC)」と「ドイツ赤十字(DRK)」[注 26]の違いを簡単にでも知る必要がある。ICRCは中立性を重視した赤十字組織で、世界中の紛争地域へ介入を行うことを目的とした国際機関であり、本部はスイスのジュネーブに置かれている。一方DRKは、ジュネーブ条約締約国のドイツに設けられた各国赤十字組織[注 27]であり、活動の中心はドイツ国内である。特に、戦時中の両者はまったくの別組織であり、ホロコーストを研究するにあたっては、どちらの赤十字が作成した資料かを見極める必要がある。

輝かしい歴史のなかの汚点 (ICRC)

ICRC(赤十字国際委員会)のエンブレム
ドイツに捕らわれた戦争捕虜と対面するICRC委員

スイス人技術者などは戦時中もドイツ国内を自由に移動でき、強制収容所内の細部についてはさておき、1938年頃より後にもたらされたドイツに関する情報は赤十字国際委員会(ICRC)が注視せざるを得ないものであった。

各強制収容所に数多くの援助物資を送り続けるが、ナチスの非人道的な行いの調査と実効的な手段による行動については消極的であった。理由として、本部の依拠するスイスと当事国ドイツが国境を接し、産業でも強く結びついていたことにより、永世中立国と言えどもナチスの動向には敏感にならざるを得ない状況であったこと、赤十字の活動には原則当事国の承諾が必要なため表立った非難は状況をさらに困難にすると考えられていたこと、さらにジュネーブ条約の条項に一般市民(文民)保護に関する規定がなかった[注 28]ことなどが挙げられる。

特にスイス国益に関する問題は大きな足かせであった。1942年当時、ICRC委員でもあったスイス大統領フィリップ・エッターは、断固たる態度を示すことに反対し、ICRC委員長カール・ヤーコプ・ブルクハルトは、ファシズムよりも共産主義拡大を恐れ、その防波堤となるナチスと国際社会の良き仲介者であろうとした(ブルクハルトがドイツ系スイス人であったことも関係)。このような状況下で強制収容所に送り込まれた視察員は、意図して作られた平和的な光景に惑わされることになる[注 29]

ICRCが実効的手段を執るようになったのは、ドイツの敗色が濃厚になり、いよいよ残りすべての被収容者を処刑しはじめようとした1945年から。主だった強制収容所にICRC委員を"常駐"させ監視できるようになったことで、それまで送り続けていた援助物資が被収容者に確実に届きはじめ、併せて消えかけた命も救われた。

1995年、ICRC委員長コルネリオ・ソマルガは、アウシュヴィッツ解放50年周年式典に出席するにあたり、当時の対応の誤りを認め遺憾の意を表明した[注 30]

ナチス党政権下のドイツに組み込まれた赤十字 (DRK)

赤十字の旗
党大会で講演するカール・エドゥアルトDRK総裁(1936)

1933年にイギリスの王族出身でナチス党員のカール・エドゥアルト元公爵がドイツ赤十字(DRK)の総裁職に(後に国会議員も兼任)、1937年にSS高級将校エルンスト・ロベルト・グラーヴィッツが総裁代行職にそれぞれ就任したことは、DRKがナチスまたはSSの一部局であることを象徴するものであり、後の組織改編を経て決定的となる。

赤十字の基本原則である「平等」が破棄されるとともに、ナチスの標榜する人種的な抑圧政策が持ち込まれた。強制収容所の人体実験や選別は、間接的に関係したというあいまいなものではなく、DRKの行為そのものであったと言える[注 31]

1945年4月、エルンスト・グラーヴィッツはベルリンが戦場になる中、家族を巻き添えにして手榴弾で自殺。カール・エドゥアルトは非ナチ化裁判で有罪となり、重い罰金を課せられるとともに、財産のほとんどをソ連に没収された。赤十字の崇高な理念に反するだけでなく、まさに利用していたことは、苦しい時代を生きた人々の信頼を著しく失墜させた。

解放

1944年暮れ、ソ連軍接近に伴い強制収容所および強制労働者の扱いが問題となる。11月には、SSの一部局「親衛隊人種及び移住本部」が「強制労働者を管理組織が独自判断で処刑するように」との通達を出している。これを受け産業界は、自らの手を汚すまいと強制労働者をSSに返還することを決めており、SS、産業界双方に「解放」という姿勢は見うけられない。

アウシュヴィッツ収容者は、なおも活動するドイツ本国の強制収容所に移送か、処刑のいずれかであった。実際は約7,500名が1945年1月27日の解放時にとどまっており、これはソ連軍の急速な接近による混乱、一部証言の「ドイツへ行くか残るか選ぶことができた」といったような処置[注 32]、さらには処刑や移送が間に合わなかったなどの可能性が考えられる。移送された被収容者は合計60,000人に上るとされるが、移送途中にも多くが命を落としている。移送で生き残った者は、別の強制収容所に入れられるだけのことで、実際の解放までに数ヵ月間待たなければならなかった。[注 33][注 34]

現在のアウシュヴィッツ

アウシュヴィッツを訪問するローマ教皇ベネディクト16世

多くの要人が公式・非公式にかかわらずこの地を訪れている。一例として、1979年にはポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、2006年5月28日にはベネディクト16世が訪問している。ベネディクト16世は「この地で未曽有の大量殺戮があったことは、キリスト教徒として、ドイツ人教皇として耐え難いことだ」と述べた。

2016年にはフランシスコが訪問し「惨劇の場では言葉は無用」と「死の壁」の前や「聖コルベの監獄」の中で黙祷した。年間を通じイスラエル人学生の修学旅行のルートになっている。

日本からの訪問も増えており、多くても200人程度だった年間訪問者が近年は5,000人を超えた。なお、日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある。

アウシュヴィッツの死亡者数について

おびただしい数の眼鏡フレーム。収容の際に没収されたもの(オシフィエンチム博物館展示)
靴の山。女性もののサンダルも含まれている。(オシフィエンチム博物館展示)
慰霊の碑文(オランダ語)。この地で150万人が死んだことを後世に伝える(第二強制収容所)

ニュルンベルク裁判では、「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と認定し、オシフィエンチム博物館の碑文にも「400万人」と記載されていたが、冷戦後の1995年に下方修正されて「150万人」に改められた。

現在では、さらに下方修正されて、110万人となっている。アウシュヴィッツ収容所博物館および公式ページでは、1999年の研究により1944年までに強制収容されたユダヤ人は110万人であり、うち20万人は労働に供されたと書かれている[8]

これら以外のアウシュヴィッツの死亡者数の推定について記載する。

125万人説

ラウル・ヒルバーグRaul Hilberg)による。

「100万人」のユダヤ人と「25万人」の非ユダヤ人の合計「125万人」が殺された。

120万人説

ユネスコの世界遺産に登録された人数。(2007年)

80万から90万人説

ジェラルド・ライトリンガー(Gerald Reitlinger)による。

63万人から71万人説

ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac)による。

(そのうちガス室の犠牲者は47万人から55万人であった)

50万人説

フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)による。

(そのうちガス室の犠牲者は35万人であった)

15万人説(その内の10万人がユダヤ人)

アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz)など歴史修正主義者による。

「死亡者は15万人に達し、そのうち10万がユダヤ人であった。彼らは殺されたのではない。病気により死亡したのである。」

終戦直後の1945年当時にソ連が主張した400万人という数は、当時の非ナチ化の影響を強く受けていると認識されている。同様に近年においても、新たに主張される死亡者数の多い少ないにかかわらず政治または宗教的背景に影響されていることが多い。たとえば、イスラム教徒の反ユダヤ主義者との接触が疑われる「歴史見直し研究所」は15万人という数値を掲げている。このような問題の根本には「絶対的数値が今後も得られる可能性が低く、主張することによって自己または属する集団の利益に有利に働く」という事情が挙げられる。

否認主義(または修正主義)

アウシュヴィッツ=ビルケナウにおける虐殺自体や、その人数や規模を疑う説がある。

世界遺産

1979年、第一・第二強制収容所の遺構は第二次世界大戦における悲劇の証拠であり後世に語り継ぐべきものとして、ユネスコ世界遺産に登録された。日本では、いわゆる「負の世界遺産」に挙げられる。

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

改名提案

かねてからポーランド政府は「ポーランド人が作ったかのような印象を与える」として登録名称の変更を要請しており、ユネスコ世界遺産委員会は2007年6月27日に「アウシュヴィッツ強制収容所」から「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)」へ変更した。

主な人物(五十音順)

収容者

獄死した人物
  • アルマ・ロゼ:音楽家。アウシュヴィッツのオーケストラを指揮。1944年4月4日死亡。死因は中毒死。彼の日記によると、「痛い!痛いと叫んでいた。ホロコーストは、ユダヤ人を家畜のように死ねと言うのと同じ」とある。
  • アンネ・フランク:「アンネの日記」原作者。両親や姉を含む、隠れ家生活での同居人達とともに移送されて来て、アウシュヴィッツに2ヵ月間収容される。再移送先のベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスを患い1945年3月頃死亡。父オットーはアウシュヴィッツに留まったが、隠れ家生活での同居人中唯一の生還者となる。同居人の中では、ヘルマン・ファン・ペルスと母エーディトが、同収容所で死亡。
  • ヴィクトル・ウルマン : 作家。彼の音楽はナチスドイツに頽廃音楽とレッテルを貼られ弾圧された。1944年10月18日殺害されたとされている。また、息子ペーデターと妻ミールは、ガス室で殺された。
  • エーディト・シュタイン:聖職者。1942年8月9日、実姉とともにガス室で処刑。1998年、聖人に列せられた。
  • エルゼ・ベルク:オランダ人画家。夫のモミー・シュワルツ英語版とともに1942年11月19日に殺害された。
  • ギデオン・クライン:音楽家。アウシュヴィッツに収容されていた時期もある。1945年1月頃、強制収容所で死亡。
  • タデウシュ・タンスキ : 自動車技術者ポーランドの指導層、知識階級を対象としたAB行動時に逮捕され1941年3月23日に死去。
  • ドーラ・ジェルソン:女性歌手。1943年2月アウシュヴィッツにて死亡。
  • パヴェル・ハース:音楽家。テレジン強制収容所からアウシュヴィッツに移送。同強制収容所にて1944年10月17日死亡。
  • ハンス・クラーサ:音楽家。作品には児童オペラ「ブルンジバル」がある。チェコのテレジン強制収容所からアウシュヴィッツに移送直後の1944年10月17日、ガス室で処刑。
  • ハンナ・ブレイディ:「ハンナのかばん」主人公。チェコのテレジン強制収容所から実兄がいるアウシュヴィッツに移送される。13歳の幼い少女は労働力とは認められず、1944年頃処刑。
  • マキシミリアノ・コルベ:聖職者。脱走者が出たための連帯責任で餓死刑を宣告された被収容者の身代わりとなる。1982年、聖人に列せられる。
  • マルツェル・テュベルク : 作曲家。テュベルクはカトリックであったが、母方の高祖父がユダヤ人であったために16分の1ユダヤ人として逮捕され、ドイツに引き渡された。1944年12月31日に死亡したと記録されている。
  • モミー・シュワルツ : 画家・エルゼ・ベルクの夫。妻エルゼ・ベルクとともに逮捕され、1942年11月19日に殺害された。
戦後解放された人物
シモーヌ・ヴェイユ
脱獄

人物

  • イェジ・ビェレツキ英語版 - 恋人シーラと共に脱出したが生き別れる。映画『あの日 あの時 愛の記憶』のモデル
  • ヴィトルト・ピレツキ - 自ら収容され脱出したエージェント。3つのレポートで内情を連合国に伝えた。
  • カジミェシュ・ピエホフスキー英語版 - ポーランド人兵士。3人の仲間と共に脱出。
  • ルドルフ・ヴルバ英語版 - ユダヤ人生化学者。脱獄後、脱獄者アルフレート・ヴェッツラー英語版ヴルバ=ヴェッツラー・レポート英語版を作成、虐殺を伝えた。

加害者的立場でアウシュヴィッツに関与した人物

イルマ・グレーゼ

その他

アウシュヴィッツに関する作品

映画・小説・ドラマ

音楽

漫画

脚注

注釈

出典

参考文献

  • ルドルフ・フェルディナント・ヘス(著)、片岡哲治(訳)、『アウシュヴィッツ収容所;私は人間の尊厳を傷つけた・・・所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』、サイマル出版会、1972年
  • Wolf H. Wagner(著)、アウシュヴィッツの子供たち、Wo die Schmetteringe starben; Kinder in Auschwitz, Dietz Verlag, 1995, ISBN 3-320-01867-1
  • Sybille Steinbacher, Auschwitz. Geschichte und Nachgeschichte, München: C.H.Beck, 3. Aufl. 2015 (EA 2004).
  • 中谷剛(著)、ポーランド国立オシフィエンチム博物館唯一の外国人公式ガイド、『アウシュヴィッツ博物館案内』、凱風社、2005年、ISBN 4-7736-2907-X
  • 中谷剛『ホロコーストを次世代に伝える―アウシュヴィッツ・ミュージアムのガイドとして』岩波書店岩波ブックレットNo.710〉、2007年10月。ISBN 978-4000094108 
  • ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成-増田好純:東京大学
  • 第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして―(1,2)-川島祐一:東京電機大学
  • インターネットにおける「アウシュヴィッツの嘘」の公開とドイツ刑法の適用-渡邊卓也早稲田大学
  • ドイツにおける現代史教育 ナチの過去に関する歴史教育の変遷と展望-川喜田敦子東京大学
  • ナチ体制下のホロコーストと科学-ズザンネ・ハイム (Susanne Heim):マックス・プランク研究所 川喜田敦子(訳)
  • ホロコースト研究におけるロマ民族の位置づけ 犠牲者間の差異をめぐる考察-千葉美千子:北海道大学
  • 人類の滅亡と文明の崩壊の回避-佐久間章行:青山学院大学
  • 第三帝国における強制労働-田村光彰北陸大学
  • ICRC in WW II: the Holocaust”. 赤十字国際委員会. 2009年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月18日閲覧。
  • BBC 赤十字国際委員会の光と影
  • ナチ収容所とドイツ社会 ブーヘンヴァルト強制収容所とヴァイマル市を例として-増田好純:東京大学
  • 第二次大戦初期のドイツ戦争経済とイタリア人労働者-阿部正昭:法政大学
  • ナチス期ドイツ外国人労働者政策における階層構造-高橋典子:名古屋大学
  • ナチスドイツの経済回復-川瀬泰史:立教大学
  • 事実の不直視-飯田龍一:社会保険山梨病院
  • アウシュビッツからの手紙-早乙女勝元:草土文化

関連項目

外部リンク