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エジプトの文化変遷(エジプトのぶんかへんせん)とは、古代エジプト文明から現在に至る、エジプトの文化の変遷を記す。Template:基礎情報 建築様式

王朝以前の文化

現在のエジプト地域では50万年前には人類の痕跡が残されている[1]

エジプト先王朝時代には、ナイル川中流域(現在のスーダン中部)でも多数の集落が形成されている[2]。このナイル川中流域の遺跡から発見された文化はカルトゥーム(ハルツーム)中石器文化(Khartoum)と呼ばれている。このカルトゥーム中石器文化の遺跡からエジプトで最も古い段階の土器が発見されており、また豊富な動植物資源、水産資源に支えられて定住も開始したと考えられている[3]

7,000年前頃から、アフリカ大陸北東部では乾燥化が徐々に進行し始めた。これに合わせて人類の生活環境も、年間を通してが手に入るナイル川流域が中心となっていった[4]。そして、ナイル川流域での農耕の開始をもって新石器時代の開始とされている。

なお、歴史学の見地からは先王朝時代の始まりがいつであるとするのか明確ではなく、考古学においては農耕の開始をもってその開始とするのが代表的な見解となる[5]

後に、「ナガダ文化」と呼ばれる彩色された陶器、ヌビアリビア砂漠オアシス、東地中海域(Eastern Mediterranean)と貿易[6]を特徴とする文化が発生し、後の文化の母体となった。ナカダ文化は上エジプトのバダリ文化から発達したと考えられ、より一層農耕と牧畜に重きが置かれるようになり、農業生産物として麦が最も頻繁に検出され、亜麻も発見され、豆類やシカモア、イチジク、根菜等野生種も見つかっているなど、農業作物は案外豊富であった。また、家畜としてヤギ、ヒツジ等のの畜産をした。

エジプト文明

概説

ギザ三大ピラミッド。古代エジプトの象徴。

エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川デルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。また、豊かな農耕文明とともに貿易も行われ、商業が発展し、早くも紀元前5000年ごろには、エジプト王国と後世呼ばれる事と成る中央集権国家を形成した。その王は「ファラオ」と呼ばれ、親権を背景とした王制を敷き、エジプトを導いた。ピラミッドや神々に捧げられた数多くの神殿ルクソール神殿フィラエ神殿カルナック神殿など)、王家の谷ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。世界四大文明の一つにも数えられる。

エジプト文明

前5000年ごろからナイル川流地域に古代文明で、世界四大文明の一つにも数えられるエジプト文明英語:Egyptian civilization)は、『エジプトはナイルの賜』とギリシア人に言わせたように、ナイル川利用して豊かな農耕文化を栄えさせ、発達した文明であった。一般的にヒエログリフと呼ばれる独特の象形文字の使用、後にユリウス暦のもととなった暦法などの科学技術が行なわれ、「ナイルを母体とした、多神教を柱とした文化」大いに発達し、栄えたのであった。

王朝

農耕文明はメソポタミア文明より遅かったが、統一国家の形成はそれより早い時期であった。ナイル川の定期的な洪水により栄養分が堆積し、土地が豊かとなり、豊かな農耕文化が栄え、それに伴って経済やファラオと呼ばれた王の王権も強化される事と成り、紀元前3000年頃に成立した統一国家が誕生する。

古代エジプト王朝のもとでピラミッド神殿ルクソール神殿カルナック神殿など)の建設、古王国の時代に青銅器の使用、文字(ヒエログリフ)、ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄した。紀元前3000年頃に統一国家が成立し、その王朝の下で栄える事と成り、それらの王国は古王国・中王国・新王国に大分出来、推移する。巨大な国家権力のもとにピラミッドや各種の神殿が建設され、繁栄したのだった。

宗教

スカラベの形をした葬礼のお守り

古代エジプトで信仰されていた宗教は、多彩な神々が信仰された多神教であった。それらの古代エジプトの神には、様々な種類の自然の力を象徴する様々な神々があり、古代エジプト人は、すべての自然の動きと原理に神々の力が作用すると見ていたのであった。例としては、天空の神ホルス、冥界の神オシリス、その妻イシス、太陽神ラー、ミイラの守り神アヌビス、家と音楽の守り神バステトなどがあげられよう。また、後にアメン神官団と呼ばれる神官団が勢力を伸ばし、ナイル川沿岸のテーベに本拠地を置いた。その強力さは後に「大司祭国家」と呼ばれる国家を建国するほどであった。

しかし、エジプト第18王朝のファラオ・アメンホテプ4世は強くなりすぎたアメン神官団に嫌気がさし、宗教改革を断行した。その影響により日輪を模ったアテン神という神が崇拝・信仰されるようになり、古代エジプト元来のアモン・ラーの信仰は停滞し、後に「アマルナ美術」と呼ばれる事と成る美術が花開いた。また、宗教的・社会的改革(アテン信仰)が行われ、それに伴って文学・美術上の写実主義・自然主義的傾向が顕著となった。後にアメンホテプ4世の息子・ツタンカーメンによってアモン・ラーの侵攻が復活され、アテン神の信仰は止められ、アマルナ時代も終焉を告げた。

また、ヌベトという町が中心となってセトと言う神が崇拝されたが、ホルス信仰が盛んになると、セト信仰は衰退していった。

その他

ヒエログリフ

パピルスと呼ばれる葦から作られる「パピルス」と呼ばれる紙が使用され、そこには象形文字であった神聖文字「ヒエログリフ」や、神官文字・「ヒエロティック」、民用文字・「デモティック」などを用いた文章が書かれた。これらの中でヒエログリフは1822年、考古学者・シャンポリオンによって解読された。パピルスには、「死者の書」と呼ばれる、冥界への手引書などが書かれ、墓におさめられた。パピルスには次第に内容を示す挿絵も描かれるようになった。

アマルナ時代

アテンとスフィンクス

この時代では、アメンホテプ4世の改革の影響によりアテン神が崇拝されるようになり、古代エジプト元来のアモン・ラーの信仰は停滞し、後に「アマルナ美術」と呼ばれる事と成る美術が花開いた。また、宗教的・社会的改革(アテン信仰)が行われ、それに伴って文学・美術上の写実主義・自然主義的傾向が顕著となった。後にアメンホテプ4世の息子・ツタンカーメンによってアモン・ラーの信仰が復活され、アテン神の信仰は止められ、アマルナ時代も終焉を告げた。

衰退期

異民族の征服

最近では、この期間に一時的にアジア系のヒクソス、アッシリア、ペルシア帝国、アジアのオリエント世界だけでなく、ナイル川上流のアフリカ世界の黒人王国であるヌビア王国(現在のスーダン、系統的にはエチオピア)、リュビア(現在のリビア)などの異民族の支配を受けていたことが分かっている。また、、そのたびに異文化がエジプトに流入し、優れた文化の発生を促した。また新王国はシリアやユーフラテス川流域の、所謂『肥沃な三日月地帯』にも進出するなど、他のオリエント世界と密接な関係にあったが、エジプトの文化は維持された。

アケメネス朝ペルシア

3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年アケメネス朝ペルシアに支配された。

それ以前のエジプト

エジプト文明

ギザ三大ピラミッド
プトレマイオス朝末代のカエサリオンクレオパトラのエジプト様式で描かれた壁画。

エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川デルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。また、豊かな農耕文明とともに貿易も行われ、商業が発展し、エジプト人は紀元前3000年ごろには早くも古代エジプト王国と後世、呼ばれる中央集権国家を形成した。その王は「ファラオ」と呼ばれ、親権を背景とした王制を敷き、エジプトを導いた。文化的にも大いに発展し、大規模なピラミッドや神々に捧げられた数多くの神殿ルクソール神殿フィラエ神殿カルナック神殿など)、王家の墓所であった王家の谷、神聖文字ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。

征服王朝とプトレマイオス王国

しかし、そんな高度な文明も第20王朝以降衰退し、リビア人ヌビア人などの異民族の支配の後にはエジプトは衰退しきっていた。また、征服したペルシア帝国の圧政も受けた。

前4世紀アレクサンドロス3世アーケメネス朝ペルシア帝国征服に伴う支配、アレクサンドロスのディアドコイの一人・プトレマイオス1世が立てたプトレマイオス朝エジプト王国ギリシア系権力が成立したが、このアレクサンドロスの帝国を含めたすべての王朝は、ファラオの称号を名乗り、エジプト文明の優れた要素を吸収して、いわゆるヘレニズム文明を形成した。首都となったアレクサンドリアはヘレニズム時代の地中海貿易と文化の中心地として栄えたのであった。

その中でも特に、プトレマイオス朝時代からローマ帝国時代にかけて存在していた図書館である、アレクサンドリア図書館ムーセイオン)などが作られた。壮麗なものであったと言うこの図書館は、ギリシア古典古代世界における最大かつ最も重要な図書館英語版であり、世界各国の約70万冊の蔵書を誇った。文学・歴史・地理学・数学・天文学・医学など世界中のあらゆる分野の書物を集め、ここに所蔵した。

ヘレニズム時代の学問において中心的な役割を果たしたアレクサンドリアの図書館は、ムセイオンと呼ばれる。文芸を司る9人の女神ムサ(ミューズ)に捧げられた大きな研究機関の一部であった[7]

しかし、プトレマイオス朝が前1世紀末に古代ローマに滅ぼされ、エジプト文明は終わりを告げる。

アエギュプトゥス

ローマの支配

アエギュプトゥス

1世紀頃には完全に古代ローマの支配下に入った。またローマ皇帝の私領として、皇帝個人の収入源となった。この地域は、ローマ帝国にとって重要な穀物の供給地となり、穀物を中心とした富を供給し、ローマ人パンとサーカスを支える事と成る。その時期の詳細は『アエギュプトゥス』を参照のこと。ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161年-180年)は、増税したことにより現地エジプト人の反乱を招いた。172年にイシドルス率いるブコリック戦争と呼ばれる反乱が起こり、数年で制圧されたものの、地域経済に大きな打撃となり、これを契機としてアエギュプトゥスの経済が衰退を始めた。

カラカラ211年-217年)は、他の属州と同様、自由民である全てのエジプト人にローマ市民権を認めた(アントニヌス勅令)。それにより、エジプト人もローマ市民権を得る。ただし、これは税収を増やすことが目的で、帝国の財政は歳入を増やしても破綻に向かい、属州の富を基盤とした商業は停滞して行った。

キリスト教の浸透

フィラエ神殿

その後、ローマ帝国は恒常的に複数の皇帝に分割されるようになり、この間、エジプトでは新たな宗教キリスト教が普及し、社会の中核を占めるようになっていった。

キリスト教はまずアエギュプトゥスに暮らすユダヤ人ユダヤ教徒)に伝わり、そのユダヤ人から東地中海に多く、当時の博識人種であったギリシア人に、そして現地のエジプト人にも広まって行った。エジプト文明の系譜をつぐ人種であり、古代エジプトの宗教を信仰していたエジプト人であったが、その中でも特に下層階級の人々は、ローマ帝国の厳しい圧政によって古来のエジプト宗教への信頼を無くしていたという。そんな中でのキリスト教の浸透であったため、「全ての人は神の前では平等で救済される」という教義に魅力を感じたのであった。

アレクサンドリア教会とコプト語

この結果、200年頃までにアレクサンドリアはキリスト教の中心地のひとつに発展し、「アレクサンドリア教会」が成立し、キリスト教の五大本山にまで発展する事と成った。初代教会の歴史である『教会史』を記したエウセビオスは、アレクサンドリア教会は福音記者マルコが創設したと伝えている。アレクサンドリア教会はキリスト教の歴史の中で大きな影響力を持と事と成る。

パピルスの生産地・集散地であるアレクサンドリアでは数々のパピルス写本が作られ、また羊皮紙写本も作られたと推定される。新約聖書の写本にはアレクサンドリア型と呼ばれる型が存在するほどである。エジプトにおいて発達した砂漠の隠遁修道とも大きくかかわりがある。修道院生活というキリスト教活動は、アエギュプトゥスから世界中に伝わっていったのであった。

また、同じ時期には古代エジプト言語の一種であるコプト語が発達した。コプト語は、ギリシア文字にエジプト語独特の発音を表すいくつかの記号を補った文字で書かれる言葉であった。このコプト語が、初めの頃とのキリスト宣教者が現地エジプト人に教典や福音の言葉を伝えるために利用され、やがてアエギュプトゥスのキリスト教の礼拝式の言葉となり、現在でも使われている。「コプト正教会」 と同起源の名称である。

古代エジプトの宗教との共存

ギリシア彫刻であらわされた女神・イシス像。テッサロニキの考古学博物館に所蔵されている。

323年、後にキリスト教に改宗することとなるローマ皇帝コンスタンティヌス1世306-337年)と共同皇帝・リキニウスキリスト教徒の信仰を認める旨の「ミラノ勅令」を発した。また、356年にはローマ皇帝・コンスタンティウス2世(337-361年)が帝国全体にわたってキリスト教ではない異教ローマ神話ギリシア神話ユダヤ教ミトラ教など)の神殿の閉鎖を命じる。

4世紀を通じてキリスト教は地位を高め、その他の宗教(ローマ神話ギリシア神話ユダヤ教ミトラ教など)の信者は減っていき、そして390年には、テオドシウス1世の勅命により国教となったキリスト教以外の異教を禁じられた。ただし、エジプト南部のアスワンに残るフィラエ神殿(イシス神殿、現存する神殿はプトレマイオス朝時代に建設されその後ローマ時代にわたって増築が行われてきた)に残る4世紀頃の落書きなどを見ると、古代エジプトの宗教の神々に対する崇拝は一部の人々(旧エジプト貴族の家柄、ヌビア人など)によって隠れて残された。また、5世紀になっても女神イシスやその他の神々が信仰され、祭られていた。

また、この頃にはプトレマイオス朝時代に作られたアレクサンドリア図書館は、財政破綻のため規模を縮小し、その蔵書や重要性も嘗てのように高くは無くなった。後に、本館は暴動のさなかに掠奪・破壊され、その姉妹館であった付属のセラペウムは391年コプト教アレクサンドリア司教、アレクサンドリアのテオフィロスが発した布告の下に略奪と破壊に晒され、かつての遺構や重要性は、キリスト教から見る『異教』という名目で根絶やしにされる。

それに代わり、アレクサンドリアには、『アレクサンドリアのキリスト教図書館』が作られ、そこでは主にキリスト教神学的な議論が交わされ、蔵書された。また、ローマ帝国がキリスト教化するにつれ、アレクサンドリア図書館などの、東地中海に多く残るヘレニズム時代の大図書館(アレクサンドリア図書館アンティオキアの図書館など)を模範としたキリスト教徒の図書館がギリシア語圏であるローマ帝国の東部全域に設立され始めた[8]。こうした図書館の中で最大かつ最も有名なものに、カエサレア・マリティマの神学図書館英語版エルサレム図書館などがあった。そんな中で、古代ギリシア・ヘレニズム的な観点を吸収しながら、キリスト教は大きく変貌し、成長する。

キリスト教の拡大とエジプト

この時、エジプトのテーベ(現ルクソール)に存在し、最も格式高い神殿であったたカルナック神殿は、この異教弾圧の時代に大部分が放棄される事と成り、その跡にはキリスト教会が廃墟のなかに設けられた。このうち最も有名な例は、トトメス3世祝祭殿の中央の間の再利用であり、そこには聖人が描かれた装飾やコプト語の碑文が今もなお見られる[9]

また、イシス崇拝を存続させていたナイル川第一瀑布のフィラエ島でのフィラエ神殿での伝統的な礼拝は、当時の反異教徒の迫害にもかかわらず、少なくとも5世紀に生き残り、キリスト教と共存していた。キリスト教化される頃の最初の司祭はマセドニオスで、神殿に保管されている神聖なハヤブサを殺したと伝説が語るが、現代の専門家はこの記述の歴史を疑問視することが多い。少なくとも、5世紀半ばまでに異教の寺院と共にキリスト教の教会が存在し、共存していた。

その後、ローマ帝国のもとでの4世紀末にテオドシウス1世が、帝国内の全ての古代神殿を閉鎖しようとしたとき、フィラエ島のフィラエ神殿だけは抵抗を続け、453年に不可侵の条約が締結され、周辺地域の宗教的自由が保証され、その条約はユスティニアヌス1世の閉鎖まで約100年間守られる事と成る。

395年1月、ローマ帝国東西分裂し、アエギュプトゥスはその内のの東方領土、即ち東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領土と成った。

東ローマ帝国の時代

古代エジプトの宗教の廃止

フィラエ神殿のキリスト教教会時代の棺
ユスティニアヌス1世が描かれたフォリス銅貨

その後、前述した様に古代ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。また、キリスト教の浸透とともに独自のコプト教会が生まれた。その一方で、東ローマ帝国の治下約100年間にわたって古代エジプトの宗教は存続した。

しかし、世俗政治と同様に皇帝教会政策でも専制君主の片鱗が垣間見える事と成る 東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世は強硬なキリスト教以外の異教の弾圧を推し進め、その一環としてエジプトの宗教の寺院の閉鎖命令が出された。遂に550年ユスティニアヌス1世により最後の古代宗教の抵抗集団であったアスワンのフィラエ神殿(イシス神殿)は閉鎖され、古代エジプトの遺風はついに失われることとなった。

閉鎖後は、4つのキリスト教会として再利用される事と成り、古代エジプト文明時代の古い神々やそれに伴う独自の文化、古代エジプトの神々や文字、歴代ファラオが築き上げた歴史は忘れ去られ、エジプトの砂漠の中に多くの神殿は放置され、砂漠化するか、キリスト教の教会などに転用されたりした。また、フィラエ神殿は古代エジプトの宗教の中心地ではなくキリスト教の中心地としての重要性を保持する事と成り、その神殿のうち5つは教会に転用される事と成った。その内のイシス神殿は聖ステファノス教会に奉献された[10]。その過程で、多くの神像は聖母マリア(イシス神像からの転用が多かった)やイエス・キリストの像に転用されるか、破棄されるかの運命を辿った。

また、その他にもリビア砂漠のアウギリアにおけるアメン神崇拝は廃止され[11]、そして同じことがイシス神崇拝の残滓でも起こった[12]。古代エジプトの文化と宗教を守り継いだ民族のうち、唯一ヌビア王国のみがその信仰を後世に伝えたのであった。

東ローマ支配の混乱

宗教論争の舞台として

虐殺されるヒュパティア

このころのアエギュプトゥスの地は、キリスト教の論争の中心地でもあった。415年には、こうした雰囲気の中で、キリスト教徒とみられる[13])暴徒達によって、アレクサンドリアからユダヤ人を追放させる事件が起きた。

その時、哲学者ヒュパティアは異教徒であるとして殺された。エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』にて、四旬節のある日、総司教キュリロスらが馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキ貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害したと伝えている[14]

その後、これによって古代ギリシア、プトレマイオス朝エジプト王国から受け継がれる秀でた学問の系譜は、このアエギュプトゥスでは途絶える事と成った。しかし、後にアレクサンドリアでは、キリスト教徒・ユダヤ教徒がプトレマイオス朝以来のプラトン主義を含む哲学・思想の系譜を引き継ぐこととなる。そして、この学問の系譜はイスラームのアラブ人に征服されるまで聖書文献学の中心として発展したのであった[15][注釈 1]

また、アエギュプトゥスでは他にも教会分裂を原因とする内紛は延々と続き、そのために帝国の中でもアエギュプトゥスは異質な存在となり、混乱した。

不安定な東ローマ支配

その後、7世紀頃に東ローマ帝国サーサーン朝ペルシャ帝国との間で争いが起こり、その結果のひとつとして、618年または619年からアエギュプトゥスはペルシアに占領された。その後は、東ロマ帝国がアエギュプトゥスを奪還するなどしたが、キリスト単性論者が堂々と考えを主張するようになるなど、宗教的にも政治的にも東ローマ帝国の支配から遊離し、半分裂状態となった。しかも、そこには新たな敵が控えており、それがイスラーム帝国正統カリフの王国)であった。

イスラーム化

イスラム教スンナ派の現存する世界最古の大学の1つであるアル=アズハル大学。

預言者ムハンマドの政治的後継者である第2代正統カリフウマルは、将軍アムル・イブン・アル=アースからエルサレムでカリフにエジプト遠征計画を進言した。そこで、カリフは「汝にエジプトから引き返すように命令する書簡が、エジプトのどこかに侵入する前にとどいたときは引き返せ。しかし汝が余の書簡を受け取る前にその地に踏み込んでいたときは、前進してアッラーの援けを乞え」と遠征を決断し、イスラーム教をシナイの西側に広めるために派兵を行った。4000名のアラブ人からなる軍を派兵し639年、新たに侵攻を始めたのであった。

イスラーム帝国は、攻撃を繰り返して善戦し、遂に東ローマ軍アレクサンドリアに追い詰め、東ローマ軍は籠城戦を強いられた。アレクサンドリアの城壁の内側に東ローマ帝国の軍は立て籠ったが、遂に陥落し、イスラーム軍はアレクサンドリアに入城し、東ローマ兵をギリシアへと引き上げさせることに成功した。アエギュプトゥスの人々は東ローマ帝国の教会から迫害を受けていたため、多くの住民が新しい支配者に代わることを歓迎し、城壁の中に迎え入れたと言う。

サッラーフ・アッディーン城のモスク。

しかし、その後もエジプトの奪還をあきらめなかった東ローマ帝国はアエギュプトゥスを奪還するために艦隊を組織し、645年にはアレクサンドリアを取り戻したが、646年には再びイスラム軍に奪われる結果となった。これによってアエギュプトゥスはイスラム支配下に入り、ギリシアローマによる975年間にわたったエジプト支配は終わりを告げ、イスラーム教の支配する時代となり、イスラーム教の第二の中心地として大いに栄える事と成る。

イスラーム下での発展

7世紀以降のイスラーム化を経てエジプト固有の風土は薄れ、大きく変貌することとなった。その時代の主な首都はテーベでもなくアレクサンドリアでもなく、それまではナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地であるカイロだった。未開の地であったカイロは、古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体には町の痕跡はない[注釈 2]

しかし、643年に東ローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として「フスタート」を作る。9世紀に入るとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。

後に、ファーティマ朝カリフ宮殿がおかれるなどして発展した政治都市はカーヒラ(カイロ)と呼ばれたが、紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。経済都市フスタートの方はミスルと呼ばれるようになった。また、学問の中心地としても発展を遂げ、アル=アズハル・モスク(970年建立)に付属するマドラサとして、ファーティマ朝支配下に設立されたアル=アズハル大学は特に著名である。

後に、アイユーブ朝、マムルーク朝の首都としての役割をカイロは果たし、15世紀にはエジプトはオスマン帝国の支配下に入った。

脚注

関連項目

































































濃紫の部分がダルマチア

ダルマチアの歴史とは、紀元前2世紀から現在に至るまでのダルマチア歴史について記載する。

先史時代

古代ダルマチアには、イリュリア語を話すイリュリア人と呼ばれる民族が居住した。イリュリア人の祖先は、青銅器時代の初期にはイリュリア地方に定着し、非インド・ヨーロッパ語族の祖先(エトルリア系?)と混合したと考えられている。紀元前5世紀頃には、イリュリア人の勢力範囲は北に広がって、現スロベニアのサヴァ川周辺まで伸びた。

イリュリア王国

イリュリア王国
イリュリア王のローマの大使殺害を描いた絵。これがイリュリア戦争の発端となったともいわれる。

古代ギリシア時代には、ダルマチアにはイリュリア王国[注釈 3]が存在した。また、紀元前4世紀にバルデュリスが現れて、イリュリア王国を強大な力を持つ国に変えた。この王国は、イリュリア人によって建国され、交易などにより発達した。[注釈 4]

ローマ領ダルマチア

一時代にはマケドニア王国の一部を支配下に置くなど栄華を誇ったが、勢力を拡大していた古代ローマ(共和政)によって紀元前220年から紀元前168年に起こったイリュリア戦争の結果征服され、この地域を支配していたイリュリア王国領の南半分は共和政ローマの保護領となる。

その後、周辺領域を加え紀元前32年から紀元前27年頃にはイリュリクム属州となった。現アルバニアに存在し、首都はスプリトの近くのサロナエであった。紀元6年から9年にパンノニア族とダルマチア族が反乱を起こしたがローマ帝国に鎮圧され、10年にイリュリア属州は南北に2分割され北側にはパンノニア属州、南側にはダルマチア属州が設立された。ダルマチア属州はアドリア海沿岸部から、ディナル・アルプス山脈を含む内陸までの領域とされ、現在のダルマチア地方よりかなり広い地域であった。

ダルマティア属州はディオクレティアヌス(在位 284年 - 305年)の出身地であり、また隠棲の地(サロナディオクレティアヌス宮殿。現 スプリト)でもある。また、この頃に「ダルマチア」という名称は初めてローマ帝国の属州の名として登場した。それまで専らイリュリアであったが、その後は殆ど使われなくなった。なお、イリュリアがさらに広範囲を指すのに対し、ダルマチアという名は沿岸部の事を指すようになる。

中世ダルマチアの様相

東ローマ帝国領

紀元四世紀の民族大移動期には、ダルマチアの領土はゴート人(特に東ゴート人)が住み、テオドリックによって建国された東ゴート族の王国、即ち東ゴート王国がこの地に建国された。後に、オドアケルを敗退させ、イタリアを支配するようになってからは首都はラヴェンナとなり、中心地もイタリア半島に移った。東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの同盟により、西ローマ皇帝の廃止後、イタリアのほぼ全域を支配下におき、イタリア半島ゴート人ローマ人による共存と平和を実現させた。

535年には東ローマ皇帝ユスティニアヌスが東ゴート王国征服後、この地域を東ローマ帝国に組み込み、ダルマティア軍管区(テマ)とされた。 その後、ユスティニアヌスのの6世紀頃から南スラブ人が住み始める。7世紀にはダルマチア北部にクロアチア人、南セルビア人をが住んだ。

フランク領と東ローマ領の並立

その後、イタリアランゴバルト王国が支配したが、7世紀頃、ダルマチア地方にクロアチア人が移住をはじめ、774年にはフランク王国がランゴバルト王国を滅ぼしたことによりこの付近一帯がフランク王国領化し、ダルマチア一帯が東ローマ帝国との国境地帯になった。しかし、まだ一部の地域は東ローマ帝国の領土に組み込まれていた。以降ダルマチア一帯はカトリック、これより以東のボスニア一帯はギリシア正教会に区分けされる。

ヴェネツィア共和国の支配

獲得

ヴェネツィア共和国

そののちも、一部の地域は東ローマ帝国の領土に組み込まれていたが、ダルマチアの沿岸部は時折ヴェネツィアで勃興したヴェネツィア共和国によって貿易港を得るために攻撃された。そして、遂に998年、ダルマチア沿岸部がヴェネツィア共和国の領域下に入り、アドリア海沿岸をほぼ手中に収めて貿易していたヴェネツィア共和国の一大拠点となるのであった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家であったヴェネツィア共和国にとって非常に重要な地域となった。

1000年頃、クロアチア、ダルマチア、スラボニアを統一したクロアチア王国が成立し、1102年にはハンガリー王がクロアチア、ダルマチア王を兼ね、ハンガリー王国内のクロアチア自治領となる。 また、15世紀初め、ラグーザ共和国(ドゥブロヴニク)を除いたダルマチア全域がヴェネツィア共和国の領域に組み込まれることとなった。

地位の低下

オスマン帝国

その後、東ローマ帝国が滅びたのちの、オスマン・トルコ人との長い戦争の後に、隣国のボスニアは併合されたにもかかわらず、ダルマチアはヴェネツィアの死守によって独立を維持した。しかし、その結果はトルコ大戦の後、ダルマチアの都市はオスマン帝国に圧迫をされ続けたという事実につながったのであった。

その後もヴェネツィア共和国の支配は続くが、オスマン帝国によるギリシアの領土の侵略・割譲によってヴェネツィア共和国の海洋国家としての地位が下がることとなり、それに伴いダルマチア地域重要性も低下していった。

近代

1797年ヴェネツィア共和国ナポレオンヴェネツィアを占領(イリュリア州)し、滅亡したために存在しなくなり、ヴェネツィアのダルマチア支配の停止が起こった。その後は、一時的にナポレオンのフランス帝国の支配下に組み込まれ、ダルマチアはイタリア王国の一員となった。1898年、この地方の言語であった、ロマンス諸語の1つであるダルマチア語の最後の話者が死亡し、ダルマチア語が死語になる。

1809年にオーストリアからフランス帝国に割譲されたイリュリアは、第六次対仏大同盟の戦争でオーストリアに再征服され、ナポレオン帝国崩壊後の1816年に行われたウィーン会議の最終文面でオーストリアに復帰し、ウィーン会議の結果、1815年にオーストリア帝国に引き渡された。た。行政的中心はリュブリャナにあった。その後、1848年革命の影響により、1849年にカルニオラ公国ケルンテン公国オーストリア沿海州ドイツ語版に分割された。

1918年、ダルマチアはスロベニア、クロアチア、セルビア人の州に入り、オーストリア・ハンガリー帝国崩壊に伴い、セルビア・クロアチア・スロベニア王国領になる。

近~現代

クロアチアの国旗

ユーゴスラヴィア領

1941年、クロアチア独立国が成立した。ただしダルマチアの一部はイタリア王国の軍が占領した状態であった。第二次世界大戦後の1945年、ダルマチア地域はオーストリア=ハンガリー帝国領の一員となり、オーストリア皇帝が王位を兼任する直轄領、ハプスブルク領イリュリア王国、ハプスブルク領ダルマチア王国となった。なお、その時にクロアチアスラボニアハンガリー王国領クロアチア=スラヴォニア王国になり、独立を保つ。

その後は、ユーゴスラヴィアの支配下に入る。

現在

ユーゴスラヴィア崩壊の後は1991年、クロアチアが独立し、クロアチア共和国領となり、現在に至る。