千葉胤宗

鎌倉時代中期から後期の武将

千葉 胤宗(ちば たねむね)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将鎌倉幕府御家人千葉氏第10代当主。第8代当主千葉頼胤の次男。

 
千葉胤宗
時代鎌倉時代中期 - 後期
生誕文永5年9月24日1268年10月31日
死没正和元年3月28日1312年5月5日
別名千葉介
幕府鎌倉幕府
主君将軍:惟康親王久明親王守邦親王
得宗:北条時宗貞時(→高時
氏族千葉氏
父母父:千葉頼胤、母:千田泰胤の娘
兄弟宗胤胤宗
北条顕時の娘
貞胤粟飯原氏光
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概要

頼胤の没後、父に代わって兄宗胤異国警固番役として肥前国に赴き下総国を離れたため、胤宗が留守を預かることになり千葉氏の第10代当主となる。なお六浦荘地頭金沢北条氏下総国守護の千葉氏と縁を重ねており、北条顕時は娘を胤宗に嫁がせることによって関係を深めている。このため北条氏との関係は深く、胤宗の名も得宗家当主・鎌倉幕府第8代執権北条時宗より偏諱を受けて名乗ったものとみられる[注釈 1]

胤宗没後子の貞胤は、南北朝の戦いに際し北朝方についた兄宗胤の嫡男胤貞と千葉氏の家督を巡り争うが、敗れて北朝方に降伏した。しかし降伏した貞胤は北朝方に寝返って千葉氏の家督を守りきり、これにより胤宗の子孫が千葉氏宗家として存続した。

伝承

『千学集抜粋』・『妙見実録千集記』には以下の伝承が伝えられている。

胤宗が大番役として京都に居た時、内裏の宝蔵に藤原保昌酒呑童子から奪った「宝生の懐太刀」と呼ばれる宝剣があると聞き、蔵の鑰を管理していた女房と契って宝剣を持ち出してそのまま帰国して千葉妙見宮に奉納した。ところが、その後に件の女房が宝剣を無くした罪で処刑されたことを聞いた胤宗はこれを悔やみ、7体の阿弥陀仏を作らせて彼女の菩提を祈ったと伝えられている。

この伝承は、兄・宗胤の系統に比べて嫡流としての正当性に欠いた胤宗の子孫の千葉氏宗家が、武者としての名高い保昌および千葉妙見宮にまつわる伝承を胤宗に付与することで、権威づけを図ったとみられている[6]

脚注

注釈

出典

参考文献

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