大島康徳

日本の野球指導者、解説者、元プロ選手 (1950-2021)

大島 康徳(おおしま やすのり、1950年〈昭和25年〉10月16日 - 2021年〈令和3年〉6月30日)は、日本のプロ野球選手内野手外野手)、プロ野球監督野球解説者

大島 康徳
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地大分県中津市
生年月日 (1950-10-16) 1950年10月16日
没年月日 (2021-06-30) 2021年6月30日(70歳没)
身長
体重
182 cm
85 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手三塁手一塁手指名打者
プロ入り1968年 ドラフト3位
初出場1971年6月17日
最終出場1994年9月28日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 日本ハムファイターズ (2000 - 2002)

現役時代は中日ドラゴンズ1969年 - 1987年在籍)で強打者として活躍し、1974年1982年にはチームのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献。また、1983年には本塁打王のタイトルを獲得、現役生活の終盤となる1988年日本ハムファイターズトレードで移籍すると、1990年には通算2000安打を達成。プロ入り26年目の1994年に44歳で現役を引退し、2000年 - 2002年には日本ハムの監督を務めている。

次男はお笑い芸人の大島雅斗

経歴

プロ入りまで

福岡県生まれの大分県中津市育ち。父は国鉄職員、母、兄、姉の5人家族、高校入学まで野球経験はない[1]。今津中学時代はテニスバレーボールをやっており、バレーボールでは大分県選抜チームのレギュラーだった。また、相撲が強かったため相撲部に助っ人で参加することもあった。相撲の大会を観戦に来ていた中津工業高校の小林監督が惚れ込み、本人は当初、乗り気でなかったもののスパイクとグローブをプレゼントされたのをきっかけに同校に入学。野球部ではエース、4番打者として活躍し、同期の春日一平とバッテリーを組んだ。1967年秋季九州大会大分県大会準決勝に進むが、同年春のセンバツ優勝校で、優勝メンバーにも名を連ねていた大田卓司を擁する津久見高に敗退。翌1968年春季九州大会大分県大会も準決勝で高田高に敗れる。同年夏も大分大会で敗退し甲子園には届かなかった。この大分大会の2回戦・大分商業戦で左中間130 m本塁打を打った。この試合を中日ドラゴンズのスカウトが視察に来ていたため、中日入団後に打者転向のきっかけとなった。また大田、詫摩和文鹿児島照国高校)と共に「九州三羽ガラス」とも称された[2]

現役時代

その後中日ドラゴンズ(少年時代は阪神タイガースが贔屓のチームだったという)の入団テストで、同球団の二軍監督を務めていた本多逸郎の目に留まり合格、1968年秋のプロ野球ドラフト会議で3位指名され入団した。投手として入団したが、入団間もない投球練習でコーチから一球で「投手失格」を言い渡されが、その一方で当時の一軍監督だった水原茂が素質を見抜いて打者転向させた[3]。大島を発掘した本多は彼を将来の主軸と見込み、1年目から四番打者として起用する[1]

1971年6月に一軍初出場。直後に一塁手ジョン・ミラーが故障し、同年は一塁手、中堅手として64試合に先発出場を果たす。またジュニアオールスターゲームではウエスタン・リーグの主砲としてMVPを獲得した。

1972年は開幕から中堅手右翼手として起用され、規定打席(29位、打率.230)にも到達。しかしまだ荒削りで完全なレギュラー定着には至らなかった。

1974年には三塁手、中堅手、一塁手を兼ねチームのセントラル・リーグ優勝に貢献。同年の最終戦は長嶋茂雄引退試合で、中日の選手代表として花束を渡している。ロッテ・オリオンズとの日本シリーズでは5試合に先発出場。最終第6戦は先発を外れるが、6回に村田兆治から同点本塁打を打ち意地を見せた。

1976年代打起用で勝負強さを発揮しシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立。

1977年には三塁手の定位置を獲得し、打率.333(4位)、27本塁打の好成績を残す。

1979年には全130試合で4番打者に座り、30本の大台を越える36本塁打、打率.317(リーグ3位)を記録。また、リーグ最多となる159安打を放ち、打点もキャリアで最多(唯一の100打点超)となる103を数えた。

1980年4月には交通事故で重傷を負い欠場を余儀なくされるが、わずか1か月で復帰した。

1982年左翼手がメインとなり、5番打者として優勝に貢献し、西武ライオンズとの日本シリーズは5試合連続左翼手として先発。第5戦では杉本正から5回に先制本塁打、最終第6戦では東尾修に三振を喫し最後の打者になっている[4]

1983年に再び36本塁打を放ち、山本浩二と並んで本塁打王に輝く。

輝かしい打撃成績を残したにもかかわらず代打起用が多かったのは、バッティングの調子の波が激しすぎた[注釈 1]他、守備に難があったためである。殊勲打を打っても失策でふいにしてしまうことが多々あった[いつ?]

1985年西武ライオンズからトレード要請があったが、マスコミに漏れてしまい破談となる[注釈 2]。しかし1987年オフ、監督の星野仙一のチーム改革により、田中富生大宮龍男との交換トレードで日本ハムファイターズ曽田康二とともに移籍。星野の意向で球団から功労金をもらっている[5]。すでに37歳であったが、日本ハムでは一塁手としての起用が多く、チームの得点力不足もあって主軸として活躍し、1988年はチーム最多の打点63、1989年7月8日の近鉄バファローズ戦では阿波野秀幸からサヨナラ適時打[6]、8月13日の近鉄戦で佐々木修から本塁打を打ち、350本塁打を達成。1990年8月21日の対オリックス・ブレーブス戦で佐藤義則から適時二塁打を打ち2000安打を達成。39歳10か月での達成は当時最年長記録で、到達までに要した試合数2290も当時最長記録だった。なお、1・2年目ともに出場試合数ゼロでの達成は史上初である[7]

1994年、43歳にして代打起用がメインだったとはいえ、最終的には打率.323・21安打・22打点の成績を残しており、自身も「43歳とあってスイングスピードは当然落ちていましたが、それをカバーして余りある技術を手にしていました。与えられた打席でしっかり結果を出したと自負しているシーズンでもあります。」と述べ、「あと2年は出来るな」と思っていた。しかし球団から「来年は契約しません。御苦労様でした。」と戦力外通告をされてしまう。その時は「分かった」とだけ言って引き下がるも、後にこの時を回想し「実際、体はボロボロでした。プロ入った時から必要ないと言われたらパッとやめようと思っていましたし、逆に必要とされるなら給料が下がろうが続けようと思ってましたが、球団の事情は想像がつきました。この年、最下位になった事で大沢啓二監督が退任し、翌年から阪急で黄金時代を築いた上田利治さんが監督になる事も決まっていました。こうなると僕にも分かるんですが新監督は自分の色でやりたいんですよね。これはもう仕方ありません。勝てなかったら責任取るのは監督で、だったら俺みたいな面倒くさそうなヤツは辞めてもらい、自分の色でチームをつくり変えたいと思って当然です。」と述べている。

球団からは「引退試合は監督を退任する大沢、柴田保光と一緒にやって欲しい」と言われたものの、大島は球団と交渉し単独で行うことにした。9月28日のロッテ戦(東京ドーム)を引退試合に選び、6番・指名打者として先発出場。伊良部秀輝から2安打を放ち、試合終了後には胴上げされた[8]。当時は44歳の誕生日を目前に控えており、高卒入団では野村克也に次ぐ長寿選手と言われていた[9]。現役生活26年は山本昌(32年)、工藤公康中嶋聡(29年)、野村・谷繁元信(27年)に次ぐ記録。通算代打本塁打20本は歴代2位。満塁本塁打は8本打っており、最年長満塁本塁打(43歳6か月)の記録を持っている(門田博光の42歳6か月を更新、1994年5月4日西武戦、8回表2点リードされている場面で代打で登場し新谷博から)。当時年齢の事に対して記者に質問された事が多かったため「年寄り扱いするな」と記者に対して怒ったことがある[10]。後に「プロ入り9年目で初めて100安打以上を打った遅咲きの男が、2000安打どころか、最後は2204安打までいってます。なかなかどうして、大したものですよね。」と現役時代を振り返って自らを評価した[9]。引退勧告の時球団からコーチの要請があったが、断っている[8]

ベストナインは1度も受賞していない。通算2000安打以上を記録しながらベストナイン選出がないのは、大島と松原誠の2人だけ。1979年には一塁手として打撃3部門全てにおいて王貞治を上回る成績を挙げたにもかかわらず王に持っていかれ、1983年には外野手として本塁打王を獲得したのに受賞できなかった(受賞者は本塁打王を分け合った山本浩二盗塁王松本匡史、最多安打の田尾安志)。

引退後

1994年10月11日には川崎球場にて『愛ラブSMAP!』(テレビ東京)のコーナー「僕たちのベースボール・ストーリー」に出演。SMAPに素振りの手本からトス打撃、フリー打撃までじっくり教えるなど熱心であったため、SMAPは驚いたという[8]

NHK解説者・東京中日スポーツ評論家(1995年 - 1999年)を経て、2000年から2002年まで日本ハムの監督を務めた。投手コーチに森繁和、バッテリーコーチに日本ハム時代の同僚で大島がキャッチャーとして超一流と評価していた田村藤夫を招聘し、中日時代同僚だった牛島和彦平野謙も呼びたかったが球団の出した条件と合わず、球団から「この人をお願いします」と言われたコーチもいた[11]嶋田信敏も大島の声掛けでコーチに就いた[12]。2002年には球団の主導人事で大島と日本ハム時代同僚だった高代延博がヘッド兼内野守備走塁コーチに就任している[13]。1年目は3位と2年ぶりのAクラス入りに導くが、2年目の2001年は補強ほとんど無し・怪我人続出・先発ローテーションが崩壊し最下位[1]、3年目は5位と成績は振るわず、解任された[14]。怪我人続出ということもあり、当時若手の森本稀哲田中賢介を起用した[1]

監督1年目の2000年に投手交代のためにマウンドへ行ったものの、選手と話過ぎて審判に交代を告げるのを忘れてしまい、仕方なくバテバテの高橋憲幸を続投させたことがある。高橋は火事場の馬鹿力を発揮して2者連続三振で危機を乗り切った[15]。監督としては熱血漢で知られ、瞬間湯沸かし器とまで言われたが、監督時代には巨人監督の長嶋茂雄を意識した所作および指導方法が見られた。

2006年には第1回WBC日本代表打撃コーチを務め、準決勝ではイチローを3番打者にするなどの打順変更を王貞治監督に進言し、初代世界一に貢献。

プロ野球マスターズリーグには名古屋80D'sersの選手として在籍。背番号は中日時代の5日本プロ野球名球会が主催する野球教室で着るユニフォームの背番号は、2000安打を達成して名球会入りした日本ハム時代の11である。2010年にファイターズの始球式をした際は2010年仕様の背番号11のユニフォームで登場した。

2003年からは再びNHK解説者・東京中日スポーツ評論家として活動。

闘病

2017年2月7日、自身の公式ブログで「2016年10月にステージ4の大腸がんになり手術を受けていたこと、肝臓に転移していること」を発表した。なお、治療はするものの重く受け止めず、今まで通りの生活をしたいと述べている[16][17]。「父、母でがんで亡くなり、兄は白血病で28歳に亡くなっている大島家はがんの家系なんでしょうね。」と述べ、がん発症後も喫煙は続け、酒は飲めないことはないが禁酒していた[1]。なお、妻が大島の死後にブログで明かしたところによれば、既に2016年の手術前の精密検査の段階で妻と長男には医師からの見立てでは大島の余命は概ね2~3か月であることを宣告されていた[18]。しかし、肝臓に転移はしていたものの、手術で大腸癌の癌細胞を全て切除することに成功し、尚且つ早期に治療に取り掛かったことにより予後が非常に安定しており、これには大島の主治医も大いに驚いた。一時期は寛解と呼べるレベルにまで体調が回復したことにより、医者の見立てよりも遥かに長く、余命宣告から4年半以上生きることとなる。因みに、癌であることを公表した日は、当初の余命宣告上で、最も長く生きてもこの頃が余命と言われていた頃であった。

2018年5月7日、自らの闘病生活などを書き記した著書『がんでも人生フルスイング 「中高年ガン」と共に生きる”患者と家族”の教科書』(双葉社)を上梓した[19]。この頃は大島の体調は非常に良好であり、寛解したと言える状態にまで回復していた。

2021年6月30日、大腸がんのため、東京都内の病院で死去[20]。70歳没[21]。6月上旬に腹水を抜く措置を受けるために入院し、退院後の6月12日にNHK BS1MLB中継ロサンゼルス・エンゼルスアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦を解説したがこれが生前最後の仕事となった。その後、体調の悪化が見られたためホスピスに入院して緩和医療を受けており、ブログのエントリーは6月29日を最後に更新が途絶えていた[22][23][24]。葬儀は親族による密葬で7月4日に執り行われた。大島の死去が公表された7月5日には、自身が春頃に記した言葉が妻によってブログに掲載された[25][26]。なお、名球会の名誉会員で野球殿堂入りを果たしていないのは、2023年現在、大島のみである。

プレースタイル

長打力と勝負強さを兼ね備えた強打者[27]。体全体を使い、力強くボールを叩く豪快なフルスイングが特徴であった[27]。1976年に代打でシーズン7本塁打のプロ野球記録を樹立すると、翌77年からは三塁手のレギュラーを担い、キャリア初となる打率.333、27本塁打を記録[28]。82年からは外野手に転向。翌83年には36本塁打で本塁打王に輝いた[28]。日本ハム時代の90年には通算2000安打を達成している[28]

打撃のコツとして「配球を読んでヤマを張ること」、「積極的にファーストストライクを狙うこと」以上2つの思い切りの良さを挙げており、大島は「目の付け所をどこにするか。野球を難しく考えなくて良い」と語っている[27]。また、「バットコントロールにこだわり過ぎては駄目。まずはフルスイングして(ボールを)遠くに飛ばすこと。そこから工夫すれば良い」と語っている[27]

人物

中日時代は長打力が魅力の打撃と明るい人柄[29]、そして同球団の応援歌燃えよドラゴンズ!」の歌詞のフレーズで[30]、ファンから「一発長打の大島くん」と愛された[29]

日本ハム選手時代に付けていた背番号「11」は自身と夫人の結婚記念日から取ったものである[29]

中日時代のコーチで名球会でも一緒になった稲尾和久とは同郷で、「ヤス」と呼ばれては可愛がられていたという。

恋愛にあまりに興味がなかったことや、妙な部分で神経質なところがあり、私生活では当時としては珍しく、30歳代半ばまで独身を通していた(大島の実家が大島がプロ入り前に早くに父・兄を亡くし大島がプロ入り後は長らく母の扶養をしていた)が、郭源治の紹介で10歳年下の客室乗務員をしていた女性と結婚。恋愛結婚というよりも、顔を合わせてすぐに結婚したという感じであった。息子が2人おり、そのうちの1人がNSC大阪37期卒・お笑いコンビ・セパ(2019年5月から)[注釈 3]大島雅斗[31][32](元・ケンモッカ、ばくぼん)。

1984年5月5日の対大洋戦(横浜)で、3回表に一塁走者となった時(一死満塁)、打者の宇野勝がライトにフライを打ち上げたが、ライトの高木由一がこれを落球。大島はハーフウェーで打球の行方を追っていたが、打者走者の宇野が大島を追い越してアウトになった。これは「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」などで頻繁に取り上げられた。なお、みのもんたのナレーションで「走ってなかったんですか?」とされているが、フライの行方を見守って走らなかった大島の判断が普通であり、前の走者を確認しなかった宇野のミスとされている。一方の大島自身も、同月19日の対ヤクルト戦(ナゴヤ)5回裏無死一・二塁の場面でレフトにフライを打ち上げたが、レフトの釘谷肇が落球したところ一塁走者の谷沢健一を追い越したという宇野と同じミスを犯している[33]

1985年5月4日の対阪神戦(甲子園)で、中日3点リードの4回裏無死に佐野仙好のあわや逆転満塁本塁打という大飛球をラッキーゾーンの金網に激突しながら後ろ向きの姿勢でキャッチするという“超美技”を披露。失点を1に喰い止めた[注釈 4]

日本ハムの監督に就任が決定した際に激励会が開かれ、憧れの長嶋茂雄も出席した。長嶋はスピーチで大島とのエピソードとして、自身の引退試合で対戦相手だった中日の選手代表で大島が真っ赤なバラの花束を贈ってくれたことを話し、大島はそれを覚えていてくれたことに大感激した。しかし、実際に大島が贈呈したのは白ユリであった。

日本ハム監督時代の2001年オフ、当時チームの中心選手であった片岡篤史FA権を行使[34]。片岡は日に日に阪神タイガースに移籍したいという気持ちが芽生えていた反面、監督の大島やチームメイトを「裏切ってしまうことにならないか」という気持ちもあり、大島に相談した[34]。大島は片岡に対し、「寂しいけれど、他のチームから来て欲しいと言って貰える選手になれたんだから、素晴らしいことじゃないか。(阪神で)頑張ってこい」と伝えて後押しし、片岡は移籍を決断した[34]。大島はこの時を振り返り、「交換トレードじゃないし、戦力的には3番打者・三塁手がそのまま抜けるわけだから痛かった。球団には、お金が入ってくるんでしょうが、別に僕らの給料が上がるわけでもないしね。でも、僕はあいつを引き留めなかった。自分で選んだことだし、それを僕がとやかく言う必要はないと思ったから」と語っている[34]

2006年第1回WBCで優勝した際に「昔からオリンピックに出場するのが夢だったんだ」と金メダルを首に掛けられた瞬間から人目を憚らず号泣していた[35]

2015年2月26日放送のフジテレビの番組「アウト×デラックス」に、息子でNSC大阪37期生(当時)の大島雅斗が出演した際、息子から電話で「NMB48のCDを借金して買っている」と告白されて「もし本当だったら殺すよ?」と激怒した。しかし3月5日放送分では大島自身も番組に出演して息子と話し合い、「(NMB48は)難波にAKB48の仲間みたいのがいて」と説明されると、「AKB48はお父さんも知ってるよ。あっちゃん可愛いよ」と前田敦子ファンであることを告白。自身が大島姓なのに(大島優子ではなく)前田推しであることでアウトを宣告された。さらに今現役選手だったらテーマソングは何にするかと聞かれ、「ヘビーローテーション」と答えようとして「バイブレーション」と答えている[36]

2018年牛島和彦との対談では、野手は誤魔化しがきくという持論から、「肉離れや骨折も関係なかった」と笑っていた一方、自身が引退後に病魔と闘った経験から「いまの俺は病気をしたから分かるけど」と牛島が現役末期に怪我に苦しんでいたことを理解していた。大島は同対談で現役時代を振り返り、牛島とは対照的に自分は人当たりが悪く社交性が低かったと話していた[37]

本人の公式ブログでは野球のことから家族のこと、ドラマの感想やファンであるSMAPの話題まで内容が幅広い。ブログでの一人称は「大島」。

1994年5月に約5,000万円をかけて一戸建てを新築したものの、欠陥住宅で20年以上苦しんでいたことを公表した[38]。施工主を相手に損害賠償など約6,800万円の支払いを請求する訴訟を起こしたが、判決は補修費用など約300万円の支払い命令にとどまった[39][40][41]

大島は晩年「人生はフルスイングできたかどうか。仕事でも何でも、思い切りやりきることができたなら、それでいいと思う。俺は振った。振り切った人生だったよ」と語っている[27]

退場処分

現役時代・監督時代あわせて通算5回(中日1回、日本ハム1回、日本ハム監督3回)の退場処分の経験がある[42]

1974年5月14日のヤクルト戦では益川満育と乱闘により益川と共に退場。1991年8月6日のダイエー戦では9回表二死にハーフスイングを三振と判定されたことに激高し、塁審の良川昌美を小突き退場となった[43]山崎夏生から2度退場処分を受けている[44]。そのうちの一つは2000年6月20日の東京ドームで行われたロッテ戦で7回にロッテ・大塚明が左翼ポール際に大飛球を放った、三塁塁審の山崎は「ポールに当たってファール側のスタンドに落ちた」と本塁打の判定。大島はベンチを飛び出し「ファールだろう!」と猛抗議、抗議時間は21分に及び、山崎は「ここがリミットだ」と遅延行為で退場を宣告[44]。2002年3月31日のダイエー戦では良川一塁塁審に暴力行為を行ったとして退場処分となり2試合出場停止(4月3日、4日のオリックス戦[注釈 5])となった。監督代行は一軍ヘッド兼内野守備走塁コーチの高代延博が務めた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1971中日7426624125494177622113302101805.203.270.315.585
19721244373875189142141493897524132799.230.306.385.691
1973117368316427611013126421010714311725.241.332.399.731
19741122942563766171111184617232726426.258.339.461.800
1975911831622245814672312221710452.278.343.414.756
19761232802513363121111103322022611687.251.321.438.760
19771264914336414415127242716112152337412.333.407.559.966
1978984103525099110151554715054706648.281.371.440.811
19791305595019515933136302103170746458712.317.376.603.978
1980108398358479061181524661043115659.251.317.425.741
1981130548468691412222323681710468987111.301.396.504.900
198212446641643112140181806053034433609.269.341.433.774
1983130543473691371313626094712364516912.290.373.550.923
1984130551471751321513023987771473027314.280.376.507.884
19851013963394890150231745623154922669.265.357.513.870
1986110380339378891201594510023732684.260.334.469.803
19871113132833176121151354900222511469.269.328.477.805
1988日本ハム130535492481362611520963200339016721.276.329.425.754
1989130540461521222601820259541769426618.265.358.438.796
199011041736043961711114850211451216816.267.356.411.767
1991120463403351011811015161100851016215.251.330.375.705
1992982692362461705832810123010447.258.340.352.691
1993474742011400158000050083.262.340.357.698
199464736522110228220000800186.323.397.431.828
通算:24年2638922781051042220433018382371612348875307496446541462229.272.350.458.809
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績




























2000年日本ハム3位13569651.5154.5177.2784.7050歳
2001年6位14053843.38724.5147.2564.7951歳
2002年5位14061763.44528.0146.2473.8652歳
通算:3年4131812257.446Aクラス1回、Bクラス2回
  • 2000年は135試合制、2001年と2002年は140試合制。
  • 2002年、4月3日・4日のオリックス戦の出場停止2試合(2勝0敗)は通算成績に含まない。監督代行は高代延博

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1978年9月27日、対阪神タイガース26回戦(ナゴヤ球場)、4回裏に宮田典計から左中間へソロ ※史上98人目
  • 1000試合出場:1980年4月12日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上214人目
  • 150本塁打:1980年8月30日、対阪神タイガース19回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に小林繁から右中間へ同点2ラン ※史上59人目
  • 1000安打:1981年9月11日、対広島東洋カープ23回戦(広島市民球場)、3回表に北別府学から ※史上121人目
  • 200本塁打:1983年4月29日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、6回表に宮城弘明からソロ ※史上39人目
  • 1500試合出場:1984年4月22日、対読売ジャイアンツ6回戦(後楽園球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上77人目
  • 250本塁打:1984年6月21日、対ヤクルトスワローズ13回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に梶間健一から左越2ラン ※史上22人目
  • 1000三振:1985年10月2日、対ヤクルトスワローズ25回戦(ナゴヤ球場)、1回裏に荒木大輔から ※史上10人目
  • 1500安打:1986年4月16日、対読売ジャイアンツ4回戦(後楽園球場)、4回表に加藤初から ※史上50人目
  • 300本塁打:1986年8月15日、対阪神タイガース20回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に中西清起から3ラン ※史上18人目
  • 2000試合出場:1988年6月28日、対近鉄バファローズ11回戦(東京ドーム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上25人目
  • 3000塁打:1988年7月21日、対阪急ブレーブス15回戦(阪急西宮球場)、5回表に佐藤義則から左中間へ2点適時二塁打 ※史上29人目
  • 1000打点:1988年9月23日、対ロッテオリオンズ24回戦(東京ドーム)、4回裏に園川一美から右越ソロ ※史上20人目
  • 350本塁打:1989年8月13日、対近鉄バファローズ21回戦(東京ドーム)、3回裏に佐々木修から左越ソロ ※史上13人目
  • 2000安打:1990年8月21日、対オリックス・ブレーブス19回戦(阪急西宮球場)、6回表に佐藤義則から中前安打 ※史上25人目
  • 300二塁打:1990年9月9日、対近鉄バファローズ26回戦(宇都宮清原球場)、6回裏に藤王康晴の代打で出場、石本貴昭から右中間適時二塁打 ※史上29人目
  • 1000得点:1991年5月28日、対ロッテオリオンズ9回戦(川崎球場)、1回表にマット・ウィンタースの2ランで生還 ※史上22人目
  • 3500塁打:1991年6月1日、対近鉄バファローズ4回戦(水戸市民球場)、1回裏に小野和義から左前安打 ※史上17人目
  • 2500試合出場:1992年8月20日、対西武ライオンズ18回戦(東京ドーム)、7番・一塁手で先発出場 ※史上6人目
その他の記録
  • 1イニング2本塁打[45]:2回  ※史上7人目(複数回達成は史上初)
    • 1972年8月2日、対ヤクルトアトムズ18回戦(明治神宮野球場)、2回表先頭で渡辺孝博から左越ソロ、2死満塁で井原慎一朗から中越満塁本塁打 ※史上7度目
    • 1977年8月9日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場)、6回裏先頭でクライド・ライトから右中間ソロ、2死満塁で小俣進から左中間へ満塁本塁打 ※史上8度目
  • 5試合連続本塁打 (1979年10月8日 - 10月17日)
  • 最年長満塁本塁打:43歳6ヶ月 (1994年5月4日)
  • オールスターゲーム出場:4回 (1977年、1979年、1983年、1984年)
  • シーズン最多代打本塁打:7 (1976年)
1976年代打本塁打
#日付対戦チーム回戦投手イニング球場
14月15日広島1金城基泰9回ナゴヤ球場
26月8日ヤクルト9小林国男5回神宮球場
36月10日ヤクルト11小林国男5回神宮球場
46月12日阪神10江本孟紀8回ナゴヤ球場
56月22日ヤクルト12会田照夫7回ナゴヤ球場
67月24日阪神16山本和行9回ナゴヤ球場
78月10日ヤクルト16会田照夫6回ナゴヤ球場

背番号

  • 40(1969年 - 1976年)
  • 5(1977年 - 1987年)
  • 11(1988年 - 1994年)
  • 77(2000年 - 2002年)
  • 87(2006年WBC

関連情報

出演番組

連載

著書

監修
  • 小・中学生のためのワンコイン野球教室 2 バッティング編(2006年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583613833
  • 小・中学生のための野球上達トラの巻 ピッチング編&バッティング編(2007年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583614465) - 川口和久と共監修
  • 決定版! 小・中学生のための野球上達法 1 打撃編&守備編(2008年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583615325) - 高木豊簑田浩二と共監修
  • 連続写真で徹底解析 プロ野球究極のテクニック 打撃編(2012年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583619125) - 篠塚和典小早川毅彦と共解説

応援歌

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク