大矢根博臣

日本の元プロ野球選手(投手・1935 - )

大矢根 博臣(おおやね ひろおみ、1935年昭和10年〉7月1日 - )[1]は、香川県三豊郡仁尾町(現:三豊市仁尾町)出身の元プロ野球選手投手[2]。右投右打。

大矢根 博臣
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地香川県三豊郡仁尾町(現:三豊市
生年月日 (1935-07-01) 1935年7月1日(88歳)
身長
体重
174[1] cm
69[1] kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1954年
初出場1954年8月28日
最終出場1962年9月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

現役時代はNPBセントラル・リーグ)の中日ドラゴンズ先発投手として活躍し、在籍7年間(1954年 - 1960年)で8452を記録した[1][3]。特に1956年には中日のエースとして20勝を挙げ、1958年には自己最多の24勝[注 1]を挙げた[2]

中日時代の通算防御率は1.99、通算勝率は0.618[9]2020年シーズン終了時点で、前者は中日の球団記録であり、後者も杉下茂服部受弘吉見一起に次ぐ球団史上4位(いずれも通算投球回1000イニング以上の投手に限る)である[9]

来歴・人物

プロ入り前

明治から続く刃物製造業者の実家に三男として産まれたが、小学生のころに戦争が激化し、野球を始めた時期は高校入学後だった[2]

香川県立観音寺第一高等学校時代は甲子園には出場できず、2年生夏の県予選[注 2]1953年〈昭和28年〉)で準決勝まで進んだのが最高位で、志度商業高校相手に敗退[注 3][2]。同じ北四国ブロックに在籍していた松山商業高校愛媛)には、後に中日ドラゴンズで同僚となる空谷泰(児玉泰1953年夏の甲子園優勝投手)がいたが[10]、大矢根は県内屈指の好投手として知られ[2]、「空谷以上の快速球を投げる投手」という評価も得ていた[1]

本人は大学進学を希望[注 4]しており、大洋松竹ロビンス(洋松ロビンス)からの勧誘も固辞していたが、中日の二軍監督・宮坂達雄の熱意にほだされた父親から勧められ[2]1954年(昭和29年)に空谷とともに中日に入団[1]。当時の中日二軍スタッフは監督とマネージャーのみで、一軍の投手コーチ捕手野口明が兼任していた[注 5][11]。プロ入り当時の背番号37[12]

中日時代

プロ入り当初は同期の空谷に比べ、甲子園出場経験のない大矢根への注目度は低かったが、1年目(1954年)は二軍(新日本リーグ)で下積みを重ねた[2]。その後、敗戦処理で一軍登板の機会を得ると、次第に天知俊一監督の信頼を勝ち得て[11]、同年9月23日の対洋松ロビンス戦(ダブルヘッダー第2試合)[注 6]でプロ初先発[14]。洋松打線を3安打に抑え、2対0で完封勝利を記録する[注 7][14]。リーグ最終戦(10月25日・中日球場)でも洋松に勝ち[13]、2勝を挙げて中日の球団史上初のセ・リーグ優勝に貢献した[注 8][11]。しかし同シーズン終了後に天知は突然辞意を表明し、後任の監督には野口明が就任した[16]。野口体制で迎えたプロ2年目(1955年)に背番号を19に変更し[12]、同年は先発ローテーションに定着して[3]6勝を挙げた[2]

1956年(昭和31年)はエースの杉下茂から「自分の決め球を作れ」という助言を受け、決め球となる「沈むシュート」(ツーシーム)を習得[注 9][2]。同年は杉下が14勝14敗と貯金を作れず[注 10]、チームはセ・リーグ3位に終わったが、自身は中山俊丈[注 11](左腕)とともに左右の両輪として活躍[18]。20勝13敗(21完投[19]・防御率1.53(セ・リーグ3位)[注 12]を記録する活躍を見せ[21]、杉下に代わる中日のエースとして認められるようになった[2]。また同年には40回1/3の連続イニング無失点記録[注 13]を樹立したが[3]、これは2020年10月14日に大野雄大が更新[注 14]するまで、64年間にわたり中日の球団記録だった[24]

1957年(昭和32年)は肘痛に苦しみ[1]規定投球回には到達できず[注 15][25]、12勝に終わったが[1]、同年10月12日の対大阪タイガース23回戦(甲子園球場)でノーヒットノーラン[26](2リーグ制施行以降ではセ・リーグ史上9回目)を達成した[27]。この試合における与四死球は3、奪三振はわずか2で[27]、本人は試合後に「調子はよくなかったが、その分慎重に投げたのがよかった」と振り返っていた[26]

1958年(昭和33年)はエース杉下が衰えて11勝[注 16]に終わったが[14]、自身はシュート中心の技巧派投手に転向し、自己最多の24勝[注 1]を挙げた[1]。また、防御率1.61は金田正一国鉄スワローズ・防御率1.30)、藤田元司読売ジャイアンツ〈巨人〉・防御率1.53)に次ぐセ・リーグ投手成績3位だった[29]。同年はオールスターゲーム第2戦(広島市民球場)にも出場したが、4回表に中西太(西鉄)から3点本塁打を打たれている[30]。杉下は同年限りで現役を引退し、翌1959年 - 1960年に中日の監督を務めた[31]が、1961年に毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)で現役復帰した[28]

1959年(昭和34年)は[32]、春季キャンプ中盤に腰を痛め、12試合登板・5勝と不振に終わる[2]。同年5月3日の対巨人戦では先発登板が発表されていたが、試合前にブルペンで腰痛を発症し、出場を回避した[注 17][33]

1960年(昭和35年)には15勝を挙げて復調の兆しを見せ、「1年おきのエース」とも言われた[34][1]が、チームは投手陣の崩壊[注 18]により、セ・パ分立後では初のBクラス(5位)に終わる[35]同年のオールスターゲームでは第1戦(川崎球場)・第3戦(後楽園球場)にそれぞれ登板した[36][37]

交通事故・トレード

しかし1960年11月26日、自身の運転する乗用車で滋賀県甲賀郡石部町石部(現:湖南市)の国道1号大阪方面に向けて運転していたところ、前方に停車していたトラックに追突[38]。乗用車は横転し、対向車と激突して大破した[38]。この事故により、乗用車に同乗していた女性2人(24歳・19歳)が全身強打で即死し、自身も頭蓋骨骨折の重傷を負った[注 19][38]。野球の動作に関わる箇所には怪我はなかったが[注 20]、この出来事で精神的ショックを受け、「名古屋にはいられない」とトレードを志願[注 21][2]。12月17日に小淵泰輔とのトレードで西鉄ライオンズへ移籍することが発表された[39]

同年、5位に低迷した中日球団は杉下に代わり、濃人渉新監督[注 22]の就任が決まっていたが、濃人は日鉄二瀬社会人野球)時代に師弟関係にあった小淵の獲得を希望し、投手陣の補強が課題となっていた西鉄[注 23]にトレードを打診[42]。その交換相手として、中日側は12月12日に児玉(旧姓:空谷)・中山・河村保彦の3投手から1人を選ぶよう西鉄側に提示[42]。これに対し、西鉄側は西亦次郎球団社長らフロント最高幹部と、川崎徳次監督による協議の結果、大矢根が先述の事故から「他球団に移籍して出直したい」と志願していることを把握したため、「第1候補は児玉、第2候補は河村。2人が拒否した場合は大矢根を指名する」と決定[43]。直接交渉に入ると、中日側が児玉・河村のトレード要員を撤回したため、大矢根と小淵のトレードが成立した[注 24][43]。この時、中日は大矢根に対し、事故被害者への慰謝料170万円+大矢根自身への功労金200万円を支給している[注 25][43]

中日退団後

西鉄ライオンズ時代(1961年 - 1962年)の背番号は1[49]。環境を変えて心機一転を図ったが[2]、西鉄では在籍2年間でわずか2勝4敗の成績に終わり[43]1962年(昭和37年)限りで現役を引退した[2]

現役引退後は東海ラジオ放送野球解説者に就任し、中日ドラゴンズOB会副会長も務めた[注 26]ほか、愛知県名古屋市内でクラブを経営[注 27]していた[2]。85歳になった2020年令和2年)には自身の連続無失点球団記録を大野が更新したことに伴い、中日球団の親会社である中日新聞社から取材を受け、「自身が球団記録を持っていたことは覚えていなかった」というコメントを発表した[19]

選手としての特徴

思い切りよく内角を突く投球術と、曲がりながら落ちるシュートを武器に活躍した[11]。プロ入り当初は速球カーブを織り交ぜる投球スタイルだったが、杉下からの助言を受けてシュートを習得したことが飛躍につながった[2]。また奪三振は少なく、少ない球数で力よりも技で勝負する投手だった[19]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1954中日7200020----1.00011227.12413--21220872.250.99
1955321242265----.545577145.012333322754033251.551.08
1956433021872013----.6061090281.1222643251191060481.530.94
195729181041127----.632639161.012364234960042412.291.02
1958533821642413----.6491286329.224315931161470067591.611.02
1959121110051----.83327362.16631601310127213.001.32
1960452813301513----.536880216.2190155442850078692.861.13
1961西鉄151110024----.33322752.16121101161030233.911.38
196211200000--------8521.024320061013135.571.24
通算:9年2471527123148656----.60651691296.21076542972223587913583062.121.06
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 37 (1954年)[12]
  • 19 (1955年 - 1960年)[12]
  • 1 (1961年 - 1962年)[49]

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 坪内道則「むずかしさ実感した大矢根、小淵のトレード」『風雪の中の野球半世記』(第1版第1刷)ベースボール・マガジン社、1987年3月25日、172-173頁。ISBN 978-4583026268 
  • 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑【昭和11年→平成4年】』(第1刷発行)講談社(印刷所:廣済堂)、1993年8月1日。ISBN 978-4062061087 
  • 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』ベースボール・マガジン社〈スポーツシリーズNo.234〉、2005年6月1日、47頁。ISBN 978-4583613246  - 『B・B MOOK』350
  • 『完全保存版 日本プロ野球偉人伝 vol.4 (1956→58編) 球史を彩るスーパースターたちの伝説 西鉄黄金時代の44人』 4巻、ベースボール・マガジン社〈球史発掘シリーズ〉、2013年7月17日、58,76頁。ISBN 978-4583620107  - 『B・B MOOK』951
  • 中日ドラゴンズ、中日スポーツ(企画協力) 編『中日ドラゴンズ80年史』(初版第1刷)中日新聞社(発行者:白井文吾)、2016年3月18日。ISBN 978-4806207009 
  • 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ80年史 シリーズ3 1936-1973』ベースボール・マガジン社、2016年6月2日、44頁。ISBN 978-4583624440  - 『B・B MOOK』1310

関連項目

外部リンク