守衛 (帝国議会)

守衛(しゅえい)は、日本貴族院衆議院に置かれていた院中の取締り又は警務を担当していた職員(本稿では、「守衛長・守衛番長・守衛副長」についても記述する。)。日本国憲法施行後は、衛視と改称された。

終戦後の帝国議会守衛。

概要

守衛等は、守衛長(しゅえいちょう)、守衛番長(しゅえいばんちょう)又は守衛副長(しゅえいふくちょう)、守衛に区分されていた。また、守衛の中から守衛番長補(しゅえいばんちょうほ)又は守衛班長(しゅえいはんちょう)が選ばれていた。

守衛長・守衛番長・守衛副長

明治24年勅令第206号・第207号により、貴族院事務局官制及び衆議院事務局官制が改正され、貴族院事務局及び衆議院事務局に、守衛長各1人、守衛番長各3人が置かれた。当初はいずれも判任とされた。守衛は判任官待遇とされた[1]

守衛長は、守衛番長以下を部署し、院中の取締りに任ずるものとされた。守衛番長は、守衛長を助け、守衛を指揮し、守衛長に事故があるときはその職務を代理するものとされた。

大正5年の改正[2]では、守衛長を奏任として、また、その職務も、上官の指揮監督を承けて、守衛副長以下を部署し、警務を掌るものとされた。また、守衛番長が守衛副長に改められた。

大正9年には、守衛副長の定員を、各院、それぞれ専任2人とされた[3]。その後、衆議院守衛副長は昭和6年に専任4人に[4]、昭和11年に専任6人に増員された[5]

昭和12年には、各院の、守衛長の定員は専任2人と、守衛副長の定員は貴族院が専任5人、衆議院が専任7人とされ、職務も、守衛長は、上官の指揮監督を承けて、警務を掌り、守衛副長及び守衛を指揮監督するものとされた、守衛副長は、上官の指揮監督を承けて、警務に従い、守衛を指揮監督するものとされた[6]

守衛の定員等

守衛の定員は、頻繁に変更された。大正3年4月1日以降は、議会開期中に限り、増員することも認められるようになった。

守衛の定員は各院35人であったが[7]、明治43年に32人とされた[8]。もっとも、大正3年4月1日からは、議会開期中に限り、各院13人を増置することが認められた[9]。大正9年に、守衛の定員は、貴族院32人、衆議院38人とされ、議会開期中に限り、貴族院13人、衆議院15人を増置することが認められた[10]。また、守衛副長の定員も、2人ずつとされた[11]。大正10年には、議会開期中に限り、貴族院23人、衆議院25人を増置することが認められた[12]。大正12年に、守衛の定員は、貴族院31人、衆議院35人とされ、議会開期中に限り、貴族院22人、衆議院20人を増置することが認められた[13]。大正13年に、守衛の定員は、議会開期中に限り、貴族院52人、衆議院50人を増置することが認められた[14]。同年の改正により、守衛の定員は、貴族院36人、衆議院40人とされ、議会開期中に限り、貴族院37人、衆議院35人を増置することが認められた[15]。大正14年の改正により、守衛の定員は、貴族院専任40人、衆議院専任40人(衆議院は人数に変更はない。)とされ、議会開期中に限り、貴族院専任40人、衆議院専任60人を増置することが認められた[16]。昭和6年には、守衛の定員は、貴族院専任40人、衆議院専任45人とされ、議会開期中に限り、貴族院専任45人、衆議院専任65人を増置することが認められた[17]。昭和7年12月1日からは、守衛の定員は、貴族院専任48人、衆議院専任55人とされ、議会開期中に限り、貴族院専任53人、衆議院専任75人を増置することが認められた[18]。昭和11年の改正により、守衛の定員は、貴族院専任68人、衆議院専任79人とされ、議会開期中に限り、貴族院専任83人、衆議院専任115人を増置することが認められた[19]。昭和12年には、守衛の定員は、貴族院専任73人、衆議院専任97人とされ、議会開期中に限り、貴族院専任135人、衆議院専任143人を増置することが認められた[20]。昭和15年には、貴族院に、臨時守衛専任30人を置くことが認められた[21]

守衛の懲罰は、巡査懲罰例によるものとされた[22]。また、守衛の月俸は、明治30年は、1級15円で、級毎に1円ずつ減じてゆき、7級9円までであった[23]。明治40年4月1日からは、月俸12円以上20円以下とされる[24]など、複数回の改訂が行われた。

大正5年には、守衛番長補を守衛班長に改めた[25]

脚注

関連項目