小笠原長朝

戦国時代の武将。府中小笠原氏14代。従五位下、民部大輔、大膳大夫、信濃守。

小笠原 長朝(おがさわら ながとも)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原清宗の子。

 
小笠原長朝
時代戦国時代
生誕嘉吉3年11月4日1443年11月25日
死没文亀元年8月12日1501年9月24日[1]
別名豊若丸、又次郎
官位従五位下[1]民部大輔[1]大膳大夫[1]信濃守[1]
氏族府中小笠原氏
父母父:小笠原清宗[1]、母:武田信昌の娘
養父:小笠原政秀
貞朝[1]
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概要

宝徳元年(1449年)11月に元服、民部大輔、大膳大夫、信濃守に任じられる。文明5年(1473年)、室町幕府9代将軍足利義尚就任後初の参内に供奉し、花の御所犬追物を興行した際に奉行を務めた。文明10年(1478年)、父の死去に伴い家督を相続する。応仁の乱では西軍に与し、東軍方の伊那小笠原氏や諏訪大社上社に対抗した。

文明12年(1480年)には諏訪大社下社の金刺氏と結んで仁科盛直を穂高川で破るが(穂高合戦)、翌13年(1481年)に仁科氏が頼った諏訪氏に敗れた。また長享2年(1488年)に鈴岡小笠原家の小笠原政秀井川館を陥落させられ、更級郡牧之島城に逃れたが、筑摩郡の国衆が鈴岡家の府中支配を支持せず、延徳2年(1490年)以後、信濃守護に補任された政秀の養子となることで和睦した。

明応元年(1492年)、10代将軍足利義稙の命により六角高頼征討(長享・延徳の乱)に出兵した。明応2年(1493年)、政秀が松尾家の小笠原定基に暗殺されると、孫の小笠原長棟の代まで対立した。文亀元年(1501年)没、享年59[1]。法名は徹叟正源。

脚注

参考文献

  • 『笠系大成』
  • 寛政重修諸家譜 巻第188』
  • 今井尭「小笠原系図」『日本史総覧』 3(中世 2)、新人物往来社、1984年。 NCID BN00172373 
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