屋嶋城

香川県高松市の屋島に築かれた、日本の古代山城

屋嶋城(やしまじょう[注 1]/やしまのき、屋島城)は、香川県高松市屋島にあった日本古代山城伊予総領(伊予など複数の国を管轄した軍政官)の管轄下で築かれたとされている[1]

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屋嶋城
香川県
 城外の城壁の北側より南側を望む
 城外の城壁の北側より南側を望む
城郭構造古代山城(朝鮮式山城)
築城主大和朝廷
築城年天智天皇6年(667年)
廃城年不明
遺構城門・石塁・土塁・水門跡・貯水池
指定文化財国の史跡・天然記念物「屋島」に包含
再建造物城門遺構を復元
位置北緯34度21分14.76秒 東経134度6分19.21秒 / 北緯34.3541000度 東経134.1053361度 / 34.3541000; 134.1053361 東経134度6分19.21秒 / 北緯34.3541000度 東経134.1053361度 / 34.3541000; 134.1053361
地図
屋嶋城の位置(高松市内)
屋嶋城
屋嶋城
屋嶋城の位置(香川県内)
屋嶋城
屋嶋城
屋嶋城の位置(日本内)
屋嶋城
屋嶋城
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城跡は、1934年(昭和9年)11月10日、国の史跡天然記念物に指定された「屋島」の指定範囲に包含される[2][3][4]。屋嶋城敷地跡には四国遍路84番札所の屋島寺がある。

概要

白村江の戦い新羅連合軍に敗れた大和朝廷は、日本の防衛のために、対馬畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている。瀬戸内海に築かれた古代の屋嶋城は、667年天智天皇6年)、高安城金田城とともに築かれた[5][6][7]。また、屋嶋城は、政権基盤の宮都を守る高安城、国土領域を守る最前線の金田城とともに、瀬戸内海の制海権を守る重要なポイントとされている[8]

屋島は江戸時代までは陸から離れたであったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ、陸続きになった。全体の大きさは南北5キロメートル・東西3キロメートル、南嶺の標高は292.0 m・北嶺の標高は282 m、山頂は平坦で、端部は急崖で囲まれた台地の地形で、南嶺と北嶺は細い尾根で接続されている[9]

屋嶋城は、南北嶺の山上全域が城跡とされている[注 2][10]。山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれている[11]。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサの地勢[12]を有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造[注 3]城門の存在が判明したのは国内初のことであった[13][14][注 4][15]。この懸門の存在は、大野城基肄城と同様に屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える[16]

浦生の石塁(石塁の上部)

浦生(うろ)集落の砂浜が広がる海岸から谷筋を登れば山上に通じた道があり、標高100メートルの山中に谷を塞いだ、長さ約47 m×基底部幅約9 m石塁と台状遺構(物見台)[注 5]がある。この遺構は大正時代に発見され、山上の石塁が発見されるまでは[17][18]、屋嶋城の唯一の遺構であった[19]。山上の城は断崖を利用して城壁は築かれなかったとされ[20]、山上に遺構が見当たらない[21]。また、考古学の視点では未実証で、多くの研究者が実態の不明な山城に位置づけていた[22]2009年の調査で、7世紀後半代の城跡遺構であることが判明した[23][24]

屋嶋城は二重防御の城である[15] 。浦生地区の遺構は、進入路を塞いだ遮断城で、大野城水城・鬼ノ城と水城状遺構と同類とされている[25]

城門は懸門構造に加え、城内側は甕城(おうじょう)であり[注 6]、通路は北側に直角に曲がる。門道は階段状で、城内から城外に向かって暗渠の排水路が設置され、通路の両側の柱穴の検出により建造物(門扉)の存在が実証された[26]

城門遺構の全長45 m×高さ6 m石塁などが復元された。城門は幅5.4 m×奥行10 m、入口の高さ2.5 m(段差)である。城門の南側は、内托式[注 7]の城壁で、高さ6 mの城壁がある。城門の北側は、夾築式[注 8]の城壁で、北端は断崖に接続され、長さ10 m×高さ5 m×幅10 mである[27]。城門遺構の見学路などが整備され、2016年3月19日、一般公開となる[28]

南嶺山上の北斜面土塁は、斜面を利用し、幅約2 m×長さ約200 m×高さ約2 mの石積みの背面に盛り土をした、内托式の土塁である[29]

北方海上で屋島を遠望

山上からは、西方約28キロメートルの香川県の五色台と岡山県の鷲羽山に挟まれた、備讃瀬戸の海路が遠望できる。また、讃岐城山城(さぬききやまじょう)[注 9]鬼ノ城(きのじょう)[注 10]も視野に入る[30]

島内には、北端に長崎鼻(ながさきのはな)古墳[注 11]、北嶺山上に千間堂(せんげんどう)跡[注 12]、東岸の入江(屋島湾)一帯は源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島古戦場、北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などがある[31]

四国にある古代山城は、屋嶋城讃岐城山城永納山城(えいのうざんじょう)の三城である[1]

屋嶋城の城門遺構は、瀬戸内海国立公園に指定された屋島(屋島園地)に所在する[32][33]

関連の歴史

日本書紀』には 、「大和国高安城讃岐国屋嶋城(やしまのき)・対馬国金田城を築く」と、記載されている[注 13][21]

日本書紀に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

調査・研究

遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。

  • 浦生地区の城跡は、1917年(大正6年)、関野貞が踏査研究で発見した遺構である[34]1980年(昭和55年)、浦生地区の遺構の発掘調査が行われたが、遺構の年代を決定できず、未確定遺構とされた[35]。しかし、2009年(平成21年)の発掘調査で、築城年代を示す土器(須恵器平瓶)が発掘され、城跡遺構であることが判明した[24]
  • 屋島の地形から、浦生集落と南方の中筋集落の谷部からの進攻が考えられる。塁壁を設けて防禦線を確保するならば、この二か所に築かれるべきだろうと推論する[注 14][36]
  • 「讃吉國山田郡屋嶋城」と、評名(郡名)を記載しているのは、讃岐国内におけるもう一城の存在を暗示している。もう一城とは、讃岐城山城であると論考する[37]
  • 中国桓仁県五女山城は日本の屋島を大きくした形であって、どちらも利用した地形がたまたま同じような形というだけで、前者は高句麗でも唯一の、屋島城も日本では唯一の、それぞれ例外的なものであると論考する[38]
  • 南嶺山上の北斜面土塁は、1984年(昭和59年)、村田修三が踏査研究で発見した遺構である[39]。しかし、城門遺構の石塁が発見されるまでは山上に遺構が見当たらず[21]、考古学の視点では実体の無い幻の城の状況であった[11]1998年(平成10年)、高松市民の平岡岩夫による南嶺山上の石塁の発見を契機に[40][41]城門跡と築城年代を示す土器が発掘され、山上の城の存在が明確になった[15]
  • 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[42]
  • 1898年(明治31年)、高良山列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 15]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある屋嶋城などは、「朝鮮式山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 16]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[43]

現地情報

  • 山上の遊歩道の要所に「瀬戸内海国立公園 屋島案内図」の説明板や案内標示がある。山上の駐車場から徒歩15分ほどの場所に、城門遺構の見学路が整備されている。終日、無料公開であるが、夜間の照明は無い。山上の駐車場へは屋島スカイウェイが通じている。屋島登山を兼ねる場合は歩行者専用の屋島登山道(参道・遍路道・四国のみち・県道)を登ることになる。屋島登山道の中腹から城門遺構に通じる道が整備されているが、急勾配で階段の多い狭い山道である。城門遺構は、コンピューターグラフィックスで復元された城門などを、スマートホンタブレット端末で見ることができる機能が付与されている[28]
  • 城門遺構以外の山上地区・浦生地区の遺構は未整備であるが、学術調査は継続されている[10]

ギャラリー

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
  • 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 第136号(西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
  • 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10712-8
  • 小島憲之 他 校注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年。ISBN 4-09-658004-X。        
  • 齋藤慎一・向井一雄 著『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年。ISBN 978-4-642-08303-4
  • 向井一雄 著『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-642-05840-7

関連項目

外部リンク