山田潔

山田 潔(やまだ きよし、1921年1月16日 - 1984年6月15日)は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督

山田 潔
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地愛媛県松山市
生年月日1921年1月16日
没年月日 (1984-06-15) 1984年6月15日(63歳没)
身長
体重
165 cm
58 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り1938年
初出場1938年4月29日[1]
最終出場1956年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

来歴・人物

松山商業に在学中にチームは春・夏を通じて4度甲子園に出場し、1935年の夏に全国制覇を果たしている。この時、同期に中山正嘉筒井修筒井良武菅利雄千葉茂伊賀上潤伍といった、後にプロ野球で大いに活躍する選手達がいた。

1938年に甲子園優勝時の監督で松山商業の先輩でもあった森茂雄が監督を務めていたイーグルスに入団すると、新人ながら八番・遊撃手の定位置を掴む。その後、1942年に応召で退団するまで遊撃手のレギュラーを務めた。なお、1942年には安打数(50)の倍近いリーグトップの95四球を選び、これは1リーグ時代の最多記録となっている[2]。.162(リーグ31位)の低打率ながら、出塁率は.359に達している。

復員後、山田は野球をやめていたが、選手集めに苦しんでいた東京巨人軍の千葉茂の勧誘を受けてプロ野球に復帰する。1946年春に巨人は道後温泉でキャンプを張った際、戦後すぐの食糧難の中で松山出身の山田が地元の友人たちと話を付け食糧を調達したことから、選手たちは食事を気にせず練習に打ち込めたという[3]。巨人でも遊撃手の定位置を確保し一番または九番を打ったが、巨人を1年で退団。なお、この年の8月31日の対中部日本戦では、3打数0安打ながら4四球を含む5出塁で5得点という珍しい記録を残している[4]。翌1947年国民リーグ大塚アスレチックスに籍を置いて再び日本野球連盟から一旦離れ、同年秋季の国民リーグ最優秀選手に選ばれた。1948年松山商業の先輩である藤本定義が監督に就任した金星に入団して再度プロ野球界に復帰。チーム名が大映に変わってもそのままチームに残り、1956年限りで藤本定義の退任と同じくして、ユニホームを脱いだ。

引退後は大毎1958年 - 1959年二軍コーチ, 1960年 - 1962年一軍コーチ)、大洋1968年二軍コーチ, 1969年1972年一軍コーチ, 1970年 - 1971年二軍監督)、広島1973年一軍コーチ)で監督・コーチを歴任。選手達からは「お父さん」と呼ばれるほど愛され、名コーチとして手腕を振るった。

1984年(昭和59年)6月15日逝去。満63歳没。

選手としての特徴

打撃では打率に鑑みると然程ではなく、1938年春のシーズンの打率.107は、規定打席に到達した打者の打率としては歴代最低記録として残っている。その一方で選球眼は優れていたようで、1942年に記録した95四球はシーズン最多四球を記録しており、通算でも四球三振の倍を記録している。ちなみに通算のIsoD(出塁率-打率)は.128であり、4000打席以上の打者では王貞治(元巨人)に次ぐ2位の記録である[5]。シーズンのIsoDでも1942年に記録した.197は、規定打席に達した歴代の全選手の中で王の1974年に記録した.199に次ぐ2位の記録だった。

守備ではゴロさばきは地味だったが非常に確実であったという[6]。守備が優れていたため、引退まで遊撃手のレギュラーとして活躍した。1940年8月8日金鯱戦では、1試合16守備機会刺殺9個、補殺7個) の記録を作った[7][8]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1938イーグルス
黒鷲
大和
351231124120001242--0--11--05--.107.187.107.294
19383713010311150001583--4--21--213--.146.302.146.447
193975275214213262145182--5155--034--.150.323.210.534
1940943082502339100401111--6349--033--.156.294.160.454
1941752912362348830621011--2--52--115--.203.349.263.612
194297410309285050055916116--95--026--.162.359.178.537
1946巨人893652955056750731711910--60--018--.190.327.247.574
1948金星
大映
481201031418100193411--15--112--.175.286.184.470
19498931927145738429520257--40--130--.269.365.351.716
1950117525441601041831131348810--72--23810.236.346.297.643
19519239132244661500811912910--56--32010.205.328.252.580
195294339284336910128728928--45--2216.243.350.306.657
19531064133443066173192246111--57--13314.192.308.267.576
19548426421612417004816437138--2233.190.316.222.539
195511637131133671121851773915010288.215.324.273.597
19568620416913332103713201102311165.195.295.219.514
通算:15年13344848398044478911624897725111052107673921636556.198.326.245.572
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • イーグルスは、1940年途中に黒鷲(黒鷲軍)に、1942年に大和(大和軍)に球団名を変更
  • 金星(金星スターズ)は、1949年に大映(大映スターズ)に球団名を変更

記録

  • 通算1000試合出場、1953年8月12日 ※史上22人目

背番号

  • 15 (1938年 - 1942年)
  • 1 (1946年、1960年 - 1961年)
  • 15 (1947年)
  • 10 (1948年)
  • 9 (1949年 - 1957年途中)
  • 42 (1957年途中)
  • 63 (1958年 - 1959年)
  • 51 (1962年)
  • 72 (1968年 - 1972年)
  • 64 (1973年)

脚注

参考文献

関連項目