戸田宣光

戸田 宜光(とだ よしみつ)は、戦国時代後期の武将。三河国渥美郡国人戸田氏の14代当主。

 
戸田 宜光
時代戦国時代後期
生誕不明
死没永禄11年1月25日1568年3月3日[1]
別名甚五郎[2][3]
戒名高徳院惟声全香[1]
墓所全久院[1][3]
官位丹波守[2][3]
主君今川義元氏真徳川家康
氏族戸田氏
父母父:戸田宗光[3]
母:輪庭祐法[注釈 1][2]
兄弟尭光、宜光真喜姫、政直、重真[3]
玉晧院珠峰総球[注釈 2]
重貞忠重[5]
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生涯

戸田氏は戦国時代に渥美半島で勢力を持った有力な国人で、父の宗光田原城主を務めた。姉妹の真喜姫岡崎城松平広忠に嫁ぐなど、三河を席巻した松平氏に属したこともあったが、やがて三河に伸長してきた駿河国戦国大名今川氏に服属した。宜光は当初宝飯郡牛窪郷鍛冶村[注釈 3]に住んだが、天文10年(1541年)に南進して二連木城に移ったのだという[2][3]

弘治2年(1556年奥平貞勝が今川氏に背くと、奥平氏支城の雨山城攻略に加わる。その後、二連木城を嫡男の重貞に譲って隠居し、全香と号して渥美郡岩崎に住む。永禄元年(1558年)菩提寺の全久院に寄進し、諸役免除等の特権を与える。永禄4年(1561年野田城主の菅沼定盈が今川氏に背いて松平元康(徳川家康)に属すと、吉田城将の大原資良に従って野田城攻撃に加わったが、後に西郷氏とともに和睦の仲介を行って野田城を開城に導いた。

永禄7年(1564年)吉田城に人質として置かれていた妻が重貞の手によって救出され、宜光は重貞・忠重の二子とともに徳川氏の麾下に加わった。同年、重貞は吉田城の戦いで戦死し、3年後の永禄10年(1567年)には忠重も死去したが、家康は忠重の遺児・虎千代に戸田氏の家督継承を認め、子孫は戸田松平家として繁栄した。永禄11年(1568年)に岩崎、あるいは二連木で死去[6][7][5]

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 河内八郎 著「戸田氏」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 10巻、吉川弘文館、1989年。ISBN 978-4-642-00510-4 
  • 飯沼源次郎 編『松本六万石史料』 中巻、明盛村、1925年。 
  • 寛政重修諸家譜』 14巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0218-5