新堀俊明
新堀 俊明(しんぼり としあき、1934年(昭和9年)2月17日[1] - 2018年(平成30年)3月18日[2])は、日本のアナウンサー、ニュースキャスター、ジャーナリスト。TBS解説委員、日本大学芸術学部放送学科教授。
しんぼり としあき 新堀 俊明 | |
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生誕 | 1934年2月17日 東京府東京市牛込区 |
死没 | 2018年3月18日(84歳没) |
死因 | 肺炎 |
国籍 | ![]() |
出身校 | 早稲田大学第一文学部 |
職業 | アナウンサー、ニュースキャスター、ジャーナリスト |
来歴・人物
東京府東京市牛込区生まれ[3]。早稲田大学第一文学部卒業[4]。
1959年(昭和34年)4月、TBSにアナウンサー6期生として入社(同期にはアナウンサーの池田孝一郎、石井智、川野昌宏、里見恭夫、土屋統督、藤田和弘、料治直矢、相場君子、今井とも子、加藤かな子、加藤珪子、土井誉子、蛭田玲子がいる)[5][6]。
主にニュース、報道番組、ナレーターを担い[7][8]、1963年11月報道局ニュース部、1965年12月ニュース取材部、1967年10月ラジオニュース部兼テレビニュース部、1967年11月ラジオニュース部兼アナウンサー研修室付、1970年4月テレビ本部報道局テレビニュース部兼解説室委員に在籍し[8][9]、報道記者として総理官邸、自民党、大蔵省(現・財務省)、通産省(現・経産省)、経済企画庁(現・内閣府)、科学技術庁(現・文部科学省)、財界などを担当[10]。『JNNニュースデスク』→『JNNニュースコープ』のキャスター、解説委員として『サンデーモーニング』の初代レギュラーコメンテーターを務めた[2][11][12]。
報道記者時代には、ベトナム戦争後のハノイを西側ジャーナリストとして初めて取材し、その傷跡を克明にレポートした。この時、取材を共にしていたのが、後に日本人初の宇宙飛行関係者(宇宙飛行士)となった秋山豊寛である。[要出典]
『ニュースコープ』を担当していた頃の『すばらしき仲間』(1983年10月16日放送分)では、当時夕方のワイドニュースを担当していた民放3局の看板ニュースキャスター(日本テレビの小林完吾、フジテレビの山川千秋、テレビ朝日の小松錬平)を招き、「勢ぞろい!!キャスター裏話」と題して局の垣根を越えた座談会を企画した。新堀の司会のもと、当時話題になっていたロッキード事件の判決報道や読み手としての秘めたる思いを語り合った[注釈 1]。
1992年(平成4年)3月にTBSを退社し[7][8]、日本大学芸術学部放送学科教授に就任した(退職後は同大学非常勤講師)。
2018年3月18日、肺炎のため死去。84歳没[2][11][12]。3月23日の通夜と3月24日の葬儀・告別式はいずれも新堀の遺言により、家族葬にて営まれた[14]。このニュースは3月25日の放送の『サンデーモーニング』にて報じられた[2][11][12]。
親族
練り物製造・販売の佃權は、妻・八重の実家であり、八重は奥多摩地区を中心に民俗調査をしていた。
佃權社長を務めた金子喬一は義弟[15]、その後を継いだ金子久利は甥。
出演番組
ビブリオグラフィ
著書
- 『信頼される伝え手めざすアナウンサー』あいうえお館、1985年。
- 『白櫻 新堀八重遺稿集』図書印刷、1998年。
監修
- 『5つの話で国際問題がわかる』同文書院、1994年。ISBN 978-4810372113。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年。
- 小林完吾『この愛、こだまして すべてのいのちに優しさを』廣済堂出版、1992年9月15日。ISBN 4-331-50374-7。
- 東京放送 編『TBS50年史』東京放送、2002年1月。