松山重治

松山 重治(まつやま しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将三好氏織田氏の家臣。

 
松山重治
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没不明
別名通称:新介、新太郎
主君本願寺氏三好長慶織田信長
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略歴

の出身であり、当初は本願寺の番士だったが、その後、松永久秀及び三好長慶に仕えた。弁舌は爽やかであり、更に小皷、尺八、早歌などの芸能も巧みで座興を盛り上げたため、「堺の名物男」としてもてはやされたと伝わる[1]

永禄4年(1561年)11月の将軍地蔵山の戦いでは、家臣で「鎗中村」と称された中村新兵衛高続が、六角義賢の家臣・永原安芸守を討ち取っており[2]、永禄5年(1562年)5月の教興寺の戦いでは安宅冬康を補佐し、畠山高政の率いる根来寺衆と戦い勝利している。三好氏家中では約5千石を与えられて2千人の兵を率いており[3]、松永久秀、鳥養貞長、野間長久、野間康久と共に三好政権を代表する家臣の一人であった[4]

三好家の没落後は織田信長に仕え、天正10年(1582年)1月の高野山攻めに参加している[5]。この時、伊都郡内に多和城を築いた[6]。その後の消息は不明。

脚注

出典

関連項目