松平康尚

松平 康尚(まつだいら やすなお)は、江戸時代前期の大名下野国那須藩主、伊勢国長島藩の初代藩主官位従五位下佐渡守

 
松平 康尚
時代江戸時代前期
生誕元和9年6月3日1623年6月30日
死没元禄9年2月7日1696年3月10日
改名数馬(幼名)、康尚、全入(法号)
戒名少林院殿教外全入大居士
墓所東京都文京区小日向の徳雲寺
官位従五位下佐渡守
幕府江戸幕府
主君徳川家光家綱綱吉
下野那須藩主→伊勢長島藩
氏族久松松平家康元
父母松平忠良:不詳
兄弟忠利梅渓院憲良康尚、金田房能室、久姫、佐久間勝友正室、土屋某室
正室永井尚政の娘
忠充、良重、榊原良兼、定員、某、松平綱近正室、植村政行室、酒井忠垠正室ら
テンプレートを表示

生涯

元和9年(1623年)6月3日、美濃国大垣藩主・松平忠良の三男として大垣で誕生。父の死後、家督は兄の憲良が継いだが、信濃国小諸藩に移封となり、康尚もそれに従った。ところが正保4年(1647年)8月、憲良は継嗣なくして死去し、小諸藩松平家は無嗣子であるとして改易された。

しかし小諸藩松平家は家康異父弟の名家であったことから、慶安元年(1648年)閏5月に康尚が1万石の那須藩主として家督を継ぐことを許された。慶安2年(1649年)2月28日には伊勢長島藩へ移封された。

藩政においては慶安3年(1650年)9月2日に大風雨で100人以上の死者を出し、延宝3年(1675年)には年貢を重くしすぎたために百姓によって幕府に訴えられたり、天和元年(1681年)にも洪水で大被害を受けたりなど、多難を極めた。このため、耕地地割制度を導入するなどして藩政の再建を目指した。

貞享2年(1685年)10月7日、次男・忠充に家督を譲って隠居し、後に全入と号した。元禄9年(1696年)2月7日に死去した。享年74。


系譜

  • 父:松平忠良(1582-1624)
  • 母:不詳
  • 正室:永井尚政
  • 側室:朝山氏
  • 生母不明の子女
    • 次男:松平忠充(1651-1730)
    • 三男:松平良重
    • 四男:榊原良兼 - 越後高田藩榊原家の家老上席家で、18歳で早世した榊原直久の養子となった。直久も養子であり実父は松平康久である。尾張徳川家家臣の康久は康尚の父の弟である。
    • 六男:某
    • 女子:松平綱近正室
    • 女子:植村政行室
    • 女子:酒井忠垠正室