冷泉元満

冷泉 元満(れいぜい もとみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。

 
冷泉元満
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文10年(1541年
死没慶長2年12月22日1598年1月29日
別名元光、渋川元満?、四郎(通称
墓所島根県仁多郡奥出雲町の青龍寺跡
官位民部少輔、民部大輔
主君大内義隆毛利元就輝元
氏族多々良姓大内流冷泉氏
父母父:冷泉隆豊、母:平賀弘保[1]
兄弟元豊元満
渋川義満
横田局
元珍(元祥)
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生涯

天文10年(1541年)、大内氏家臣の冷泉隆豊の子として誕生。

天文20年(1551年9月1日大寧寺の変において父・隆豊が大内義隆に最期まで付き従って戦死した。幼少であった元満と兄の五郎(後の冷泉元豊)は、共に叔父の吉安豊英に連れられて安芸国国人であった平賀氏の前当主・平賀弘保の許へと逃亡した。その後、弘治元年(1555年)から弘治3年(1557年)にかけて行われた毛利元就防長経略の際に、兄・元豊と共に毛利氏に仕えた。冷泉氏は代々水軍の将であったため、元満も毛利水軍の将として大友氏織田氏との戦いで活躍した。

兄・元豊は豊前国門司城代を務めたが、永禄5年(1562年10月13日大友氏の攻撃により豊前国柳浦において戦死した。元豊には男子がいなかったため、弟である元満が冷泉氏の家督と門司城代を継いだ。また、元満は九州探題家渋川氏の子孫である渋川義満の娘を正室として迎えている。一説ではこれは婿養子として渋川氏を継承するために行ったともいわれており、元満の「満」の字も義父・義満に由来するものと推測される(ただし前述の通り最終的には冷泉氏を継いでいる)。一方、「元」の字は毛利輝元より偏諱を与えられたものとされており、その場合、元満と名乗った時期は輝元が元服した永禄8年(1565年)以降ということになる。

天正17年(1589年)、毛利輝元の妾であった横田局を妻とする。この時、輝元は元満にではなく、横田局に長門国厚狭郡で100石を与えている[2]

天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、毛利輝元に従って朝鮮半島へ出兵した。帰国後の文禄3年(1594年)には出雲国仁多郡の亀嵩城主となる。

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役でも毛利秀元に従って朝鮮半島へ渡った。しかし、同年12月22日蔚山城の戦いにおいて軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000による急襲を受け、配下の将兵137人[3]や同じく毛利氏家臣である阿曽沼元秀都野家頼と共に戦死。享年58。元満や冷泉家臣の遺体は、元満の従兄弟で被官吉安満定が船に収容して日本に送った。吉安満定は再度蔚山城に入城し、翌12月23日の攻防戦で戦死した。

その後、嫡男・惣四郎元珍(元祥)が家督を継いだ。

脚注

参考文献

  • 萩藩閥閲録』巻72「冷泉勘右衛門」、巻102「冷泉五郎」