田屋明政

田屋 明政(たや あきまさ、生没年不詳)は、戦国時代武将浅井亮政の婿養子。

 
田屋 明政
時代戦国時代
生誕不明
死没不明
改名田屋明政→浅井明政→田屋明政
別名新三郎(通称)
官位石見守[1]
主君浅井亮政
氏族田屋氏→浅井氏→田屋氏
父母義父:浅井亮政、義母:浅井蔵屋
正室:鶴千代浅井亮政娘)
海津局浅井政高室)、饗庭局
近江局
養子:浅井政高
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略歴

浅井氏の一族で北近江高島郡海津に本拠を置く田屋氏の生まれ[2]

浅井氏当主・亮政は浅井氏の庶家の出身で、惣領・直政の娘・蔵屋の婿となって家督を継いだ。だが、亮政と蔵屋の嫡男・新四郎政弘は早世したため、嫡女・鶴千代の婿となった明政が亮政の後継者となるはずだった[3]

浅井家に入った明政は養父亮政の通称を受け継ぎ、「新三郎」を名乗った。さらに、天文3年(1534年)に亮政が主君の京極高清高延父子を招いて饗応した際には、三献と九献に高清へ太刀2腰と馬1匹を献上しており、義弟猿夜叉(のちの久政)が十一献に太刀1腰を献上したことと比較しても、明政が亮政の後継者としての扱いを受けていたことが分かる(『天文三年浅井備前守宿所饗応記』)[4]

天文11年(1542年)1月6日、亮政が死去。同年3月4日に本願寺が亮政の香奠を贈った際の宛先は新三郎、すなわち明政となっている(『天文日記』)[5][4]

だが家督を継承したのは明政ではなく、側室所生の久政だった[6]。このとき久政と明政の間で家督争いが発生したかは明らかでない。亮政が言い置いたから、蔵屋・鶴千代と久政母との関係が良好だったから[7]、あるいは六角定頼の影響があったから[8]内紛に発展しなかったとも言われているが、高橋昌明は当人らが納得したとしても互いの派閥間で内紛・暗闘が続いたのではないかとしている[6]

その後は小谷城で久政を補佐し、「大殿」と呼ばれたとされる[9]

脚注

参考文献

  • 小和田, 哲男『近江浅井氏の研究』清文堂、2005年4月20日。ISBN 4-7924-0579-3 
  • 黒田, 惟信 編『東浅井郡志』 2巻、滋賀県東浅井郡教育会、1927年11月28日。doi:10.11501/1242715 
  • 宮島, 敬一 著、日本歴史学会 編『浅井氏三代』吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、2008年2月1日。ISBN 978-4-642-05244-3