畠山秋高

畠山昭高から転送)

畠山 秋高(はたけやま あきたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名河内国半国及び紀伊国守護。「昭高」として知られているが、確認できる自署は「秋高」のみである[5]。初名は、政頼(まさより)。

 
畠山 秋高
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文14年(1545年
死没元亀4年6月25日1573年7月23日
改名政頼→秋高
別名昭高、通称:次郎四郎[1]
戒名釈迦寺殿高源道有[2]、または高源道看釈迦寺[3]
墓所真観寺大阪府八尾市[3]
官位左衛門督[4]
幕府室町幕府 河内半国・紀伊守護
主君足利義昭
氏族畠山氏(畠山尾州家)
父母父:畠山政国、母:不明
兄弟高政政尚秋高[2]
斎藤道三
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生涯

天文14年(1545年)、畠山尾州家の惣領名代[6]畠山政国の子として生まれる[2][3][注釈 1]

永禄3年(1560年)、兄・高政が当主を務める畠山氏は、三好長慶との戦いで居城の高屋城を奪われ、永禄5年(1562年)に一時取り戻すも、再び敗れて[8]、河内から紀伊に没落していた[9]

永禄8年(1565年)、室町幕府の第13代将軍足利義輝三好三人衆らに永禄の変で殺されると、当時政頼と名乗っていた秋高は兄・高政から家督を譲られた[10]。秋高は義輝の弟の一乗院覚慶を支持し、足利義秋と名乗った覚慶から偏諱を受け、政頼から秋高に名を改めた[5]。覚慶は永禄9年(1566年)2月17日に還俗して足利義秋と名乗り、永禄11年(1568年)4月15日に元服して義昭に改名しているため、この間のこととみられる[5]。また、左衛門督の官途名もこの頃義秋から賜ったと考えられる[11]

永禄11年(1568年)、足利義昭が織田信長と共に上洛してくると、秋高は河内半国を安堵され、高屋城に復帰した[12]。この時正式に家督を認められ、河内半国と紀伊の守護に補任されたものとみられる[13]。河内の残る半国は三好義継に安堵された[14][注釈 2]

元亀2年(1571年)5月、秋高や義昭直臣の和田惟政と結んで敵対したとして、松永久通安見右近を自害させ、右近の居城の交野城を攻めた[15]。これに呼応した三好義継・三好三人衆により、秋高の守る高屋城も攻められた[15]

元亀3年(1572年)閏1月4日、河内守護代遊佐信教が秋高を殺害しようとしたとの噂が流れた(『多聞院日記』)[16]

元亀4年(1573年)、足利義昭と信長の対立が激化すると[17]、同年4月時点で秋高・信教共に義昭方に付いており(『顕如上人御書札案留』)[18]、秋高の内衆の多くも義昭派だった[19]。しかし、秋高は信長の威勢に怯み信長派に鞍替えしたともみられ、同年6月25日、信教により殺害された[20][注釈 3]

天正3年(1575年)の高屋城の戦いの後、河内は信長に下った三好康長若江三人衆に統治され[22]、畠山氏の旧臣の多くも信長に仕えた[23]。畠山氏の家督は兄・畠山政尚の子の畠山貞政に継承され[2][3]、紀伊国有田郡において命脈を保ち[2][3][24]江戸時代にも高家として存続した[3][24]

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』平凡社〈中世から近世へ〉、2018年。ISBN 978-4-582-47739-9 
  • 小谷利明; 弓倉弘年 編『南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆』戎光祥出版〈戎光祥中世史論集 第5集〉、2017年。ISBN 978-4-86403-267-4 
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-01457-1 
  • 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。ISBN 4-7924-0616-1 

関連項目

外部リンク

先代
畠山高政
河内畠山氏(尾州家)
畠山秋高
次代
畠山貞政