秦泉寺豊後

秦泉寺 豊後(じんぜんじ ぶんご)は、戦国時代武将長宗我部氏の家臣。名は泰惟と伝わる[1]

 
秦泉寺 豊後
時代戦国時代
生誕不明
死没不明
別名泰惟、豊後守
主君長宗我部元親
氏族秦泉寺氏
父母父:秦泉寺掃部
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略歴

秦泉寺氏は土佐国の小豪族。戦国期は本山氏の傘下にあったが、豊後の父・掃部の代に長宗我部国親に降伏し配下となっていた。

秦泉寺掃部の子として誕生。国親の嫡男・長宗我部元親兵法を教え、元親の初陣である永禄3年(1560年)の長浜の戦いの際、槍の使い方を教えたと伝わる。

その後、秦泉寺の農民と土佐郡一宮の郷民との間に争いが起こり、一宮の郷民が殺されてしまう。一宮の神職は農民の引き渡しを求めたが、掃部はこれを拒否したため元親は怒り、元親の命令を受けた中島親吉に父子共に誅された[2]

脚注