第2回衆議院議員総選挙

1892年に行われた日本の衆議院選挙

第2回衆議院議員総選挙(だい2かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1892年明治25年)2月15日日本で行われた帝国議会衆議院議員総選挙である。

 日本の旗 第2回衆議院議員総選挙 国会議事堂
内閣第1次松方内閣
解散日1891年(明治24年)12月25日
公示日1892年(明治25年)1月12日
投票日1892年(明治25年)2月15日
選挙制度小選挙区制
改選数300(増減なし
議席内訳

選挙後の党派別議席数
有権者直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性日本国民
有権者数43万4594人
投票率91.59%(減少2.14%)
各党別勢力
党順第1党第2党第3党
画像
党色
党名立憲自由党中央交渉会立憲改進党
党首板垣退助(不明)大隈重信
前回選挙130新党41
選挙前議席924643
獲得議席948138
増減2355
党順第4党第5党
画像
党色
党名独立俱楽部近畿倶楽部
党首(不明)(不明)
前回選挙新党新党
選挙前議席207
獲得議席3112
増減115
 < 1890年1894年3月 > 

概要

前史

1890年(明治23年)11月29日第1回帝国議会が召集された。藩閥による政府(第1次山縣内閣)と「民力休養」を掲げる民党が対立を続けたものの、双方とも相手の出方を窺ったこと、政府が内外に対する面目から議会開設早々の衆議院解散を望まず、かつ民党のうち自由党土佐派を一時切り崩したことから、政府はかろうじて閉会(1891年3月8日)まで持ちこたえた。

だが、次の第1次松方内閣で迎えた第2回議会(1891年11月26日開会)は、第1回議会のように衆議院解散を選択しえない状況ではなくなり、かつ民党も薩長出身の閣僚が過半数を切っていた松方内閣を弱体とみて政府批判を行った。12月20日樺山資紀海相によるいわゆる「蛮勇演説」で一気に緊張感を増した衆議院に対して、松方内閣は25日に初めての衆議院解散に踏み切った。

選挙干渉

この選挙では内務省品川弥二郎内相白根専一次官)による選挙干渉によって死者まで出したことで知られているが、実際には複雑な経過を辿っている。

明治天皇は解散前から難航する議会運営に懸念を強めていた。12月26日に、徳大寺実則侍従長伊藤博文に天皇が「同一の議員を再選致候而は幾度も解散不祥の結果を生すへくやと深御憂慮被遊」と、来る選挙で同じ議員が再選されると解散の連続になることを憂慮していると伝えた[1]。さらに28日松方正義首相から品川弥二郎内相に宛てた手紙によると、天皇に改選の手続きを奏上した際に、天皇から「精々今般之選挙尽力相成、良結果に至り候様再三御沙汰拝承仕候」と、この選挙一回で尽力して良い結果を出すように言われたことを伝えた。良い結果とは「同一の議員」ではない新たな勢力が多数派となること、つまり立憲自由党立憲改進党以外の議員が多数派となることであった。そして、選挙の見込みを品川から報告すると奏上したので、「近日中御参朝之上細事御奏上」することを指示した[1]。それを受けた品川は、それまで2回3回の解散は望まないが覚悟していたが、態度を変え度々天皇に報告に行っている。天皇は品川からの報告だけでなく、知事から侍従を通じて詳細な状況報告を上げさせた。そして、松方首相自身も「大奮発」し、仮面を脱して「政府党」を活動させる意向をしめし[2]、極秘に側近の九鬼隆一帝室博物館館長を各地に派遣して独自の選挙工作を行わせ[3]、また、吏党候補の擁立と支援を行った。

天皇の意向が示された後、松方と品川は相次いで府県知事に内諭を出して、中正の人物を当選させることを指示した。直後に松方・品川・白根に加えて平山成信内閣書記官長小松原英太郎警保局長大浦兼武警保局主事らによる選対本部が極秘に組織されて、政府系候補への選挙支援策が協議された。また、首相に対して金子堅太郎佐藤暢から選挙対策案が献言され、内容として藩閥全体で対応すべきという金子案と内務省主導で行う佐藤案という特徴がある[4]。これまで、実力行使を含めた選挙干渉を指示した命令類が発見されていないこと、逆に複数の知事から政府に対して民党進出を阻止するために警察力の行使を求める意見が寄せられていることから、選挙干渉の発案が内務省側なのか、府県知事側の突き上げなのかについては明らかではないといわれてきた[3]。ただし、天皇の意向が首相・内相に伝わり、一回の選挙で良い結果を出すことを求められていることから、方法を問わず良い結果を出すことを政府の至上命題としたという説が成り立つ(系統的指令説)[5]

官民の衝突、死傷者、候補者逮捕未遂

各地で民党候補及び支持者と警察との衝突が発生し、自由党が強い高知県で政府公式発表で死者10名・負傷者66名という流血の惨事が発生した他、全国で25名の死者を出した。

大規模な死傷者が出た府県の知事には薩摩藩あるいは隣国でつながりが深い肥後藩出身者が多く、薩摩出身の松方首相を支持し、地元県会では民党議員と激しく対立していた。こうした地元の事情が実力行使を伴う干渉を引き起こす一因となった。ただし、知事の出身などの属性では説明がつかないという批判もある[6]。実際、高知県の調所広丈知事は「暴走」した知事として描かれてきたが、実際には「難治県」高知に手を焼き、何度も首相に任地替えを懇願していたし、佐賀県の樺山資雄知事も内閣交代後ではあるが、選挙干渉には批判的だったことを内相に伝えている[7]

高知と佐賀では死傷者が多く出ただけでなく、警察が林有造高知2区)と松田正久佐賀1区)という自由党有力議員に対して投票日以降も逮捕を狙った[8]。二人とも難を逃れて無事であったが、これは投票日後の逮捕によって、当選した場合でも議会に出席できないことを狙ったものであり、第1議会で森時之助不逮捕特権を適用されず一度も出席することなく辞職した前例を踏まえたものであった。しかも、佐賀では内務省の大浦兼武が、文部大臣大木喬任の意を受けて選挙工作に従事していた司法人脈の中村純九郎古賀廉造を通して佐賀出身の高木秀臣東京控訴院検事長に松田拘引を働きかけた[9]。結局、司法省が干渉に消極的で拘引は認められなかった。

開票不正

流血の事態が目につくが、高知と富山では開票所を管理する選挙長(知事任命の郡長)が不正な開票を行ったため当選訴訟が提起され、最終的に当選者が逆転した。高知2区(定員2名、2名連記投票)では自由党前議員片岡健吉(779票)と林有造(773票)が片岡直温(854票)と安岡雄吉(844票)に敗れた。しかし、選挙長が自由党支持者が投票したはずの票を読み上げなかったため、不審に思った者が投票現物と明細書の閲覧を求めた。明細書のみ閲覧が許された。投票現物の証拠保全の請求も行ったが、却下され、当選訴訟中に投票現物は紛失したと報告された。訴訟では1審・大阪控訴院判決は証拠不十分で敗訴したが、上告審・大審院判決は投票箱の錠が破損していたことを重く見て1審判決を破棄して名古屋控訴院に差し戻した。全有権者調査によって片岡(健)・林が片岡(直)・安岡を上回ったため勝訴し、最終審・大審院判決で確定した[10]。同様に富山4区では、改進党前議員島田孝之(1300票)が武部其文(1341票)に敗れたが、選挙長が島田票を大量に無効判定したため、当選訴訟となり、投票現物の確認により無効票のうち69票が島田票と認定され、勝訴した[11]。2件とも選挙管理者によって選挙結果のねつ造がなされたのである。

干渉への反発

だが、こうした選挙干渉は閣内の反感を招いた。陸奥宗光農商務相は自由党幹部の星亨高島鞆之助陸相は同じく同党幹部の新井章吾の後見人を自負して選挙干渉の資金をこれらの候補に渡して支援し、品川や白根らが抗議するとこれに反発した。内務省が1月5日に発行された自由党機関誌『党報』号外の内容を官吏侮辱罪に充てて総理である板垣退助を発行責任者として逮捕しようとした際には尾崎三良法制局長官田中不二麿司法相が反発して断念に追い込まれた(板垣は伯爵であるため、司法大臣が天皇に奏上して許可を得ない限りは処分できなかった)。また、投票日間近の2月9日には、石川県の候補に関して板垣退助と大隈重信が連名で推薦広告を出したことに対して集会及政社法違反で関係者42名を取り調べた。その中には候補者も含まれており、13日から予審で呼び出され、選挙運動の機会を失った。例えば、東京2区の改進党肥塚龍は14日に召喚され、選挙は6票差で敗れた。これについても尾崎三良は田中司法大臣に中止を求めた。結局4月に証拠不十分で全員免訴となった[12]

選挙結果とその後の政局

選挙終了後、閣僚や白根専一ら内務省幹部は味方の勝利と喜んだ。これは内務省作成の候補者名簿から見て、当選者が「過激派」(民党)130人に対して「着実派」(吏党)168人となったためであった。しかし、着実派に数えた独立倶楽部は、陸奥宗光農商務大臣の指導の下、民党に近い議員11人と吏党に近い議員16人に分裂してしまった。民党所属議員でも穏健派を「着実派」に数えていたが、第3議会では民党に近い姿勢をとる議員が続出し、政府の多数派工作は失敗した。壮士による議員への暴行も発生し、また、買収工作の一端が稲垣示(富山3区)によって議場で暴露される事態にも発展した[13]

吏党は、本来は「親政府」というよりは「反民党」集団であり(実際に「吏党」という言葉を用いていたのは新聞や民党及びその支持者であり、政府や当事者たちは「温和派」という表現を主として用いていた)、その考えも国粋主義者からリベラルまで、あるいは超然主義者から政党主義者まで幅が広かった。伊藤博文はこうした温和派(吏党)勢力を総結集した新党を結成しようとしたが、政党そのものに不信感を持つ明治天皇山縣有朋、政治の主導権を伊藤に奪われることを恐れた松方首相が反対し、元勲会議においても「松方内閣支持、伊藤新党反対」の合意を取り付けて伊藤を新党結成断念に追い込んだ(3月11日枢密院議長辞表撤回)。藩閥最大の実力者・伊藤の政治的孤立を招いた事で松方は政権運営に自信を深めたが、干渉の責任者とされた品川内相と伊藤側近とされた陸奥農商相が辞表を提出した。

貴族院は衆議院に先立って政府の選挙干渉を批判する決議を採択した。衆議院でも民党が、官吏が職権を乱用して選挙に干渉した責任を問う「選挙干渉ニ関スル上奏案」を提出(5月12日)するが、事態を予期していた政府は多数派工作を行い、143対146で辛くも否決される。しかし、2日後に提出された、文言を穏健にし、上奏ではない形に改めた「選挙干渉ニ関スル決議案」は、賛同者が増え、しかも予期していなかった政府は引き締めを図れず吏党議員の欠席が目立ち、154対111で通過してしまった。こうした事態を受けて品川の後任となった副島種臣は白根以下の内務省幹部や地方知事らの更迭を行って事態の打開を図ろうとするが、白根らによる「副島降ろし」が功を奏して6月8日には副島が辞任に追い込まれた。その後、松方首相が一時内相を兼務した後に河野敏鎌が後任内相となるが、河野は7月15日に松方首相に迫って白根更迭を強行し、20日には安場ら品川・白根を支持した知事も更迭した。これに対して薩摩藩出身の高島陸相・樺山海相は「薩摩閥の切捨て」と解釈して7月27日に明治天皇に辞表を提出、これによって閣僚統制の自信を失った松方は内閣総辞職を決断することになった。

選挙データ

内閣

解散日

投票日

改選数

  • 300
    • 1人区(単記投票):214
    • 2人区(連記投票):043

選挙制度

投票方法
記名投票(選挙人は氏名と住所の記載、および、印鑑による押印が必要)
実施地域
45府県(北海道沖縄県小笠原諸島を除く[14]
選挙権
直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性。
下記の者は権利の適用除外とされた。
  • 華族・軍人の当主。
被選挙権
直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性。
下記の者は権利の適用除外とされた。
  • 皇族華族の当主。
  • 軍人、裁判官、会計検査官、収税官、警察官、管轄内の府県郡役人、担当選挙区の選挙管理担当市町村役人、神官、僧侶、教師。
  • 瘋癲白痴、身代限(破産者)、禁錮刑・賭博犯で満期または赦免後3年以内、選挙犯罪による権利停止者、刑事事件で逮捕・拘留された者。
有権者数[15]
434,594

選挙活動

  • 立候補者数:900(立候補制度なし)

選挙結果

党派別獲得議席

e • d  第2回衆議院議員総選挙1892年(明治25年)2月15日施行
党派議席数増減得票数得票率公示前
吏党124 04084
中央交渉会81 0792
独立倶楽部31 00526
近畿倶楽部12 0057
民党132 039171
立憲自由党94 036130
立憲改進党38 00341
無所属44 00145
無所属44 00145
総計300 100.0%300
有効投票数(有効率)---
無効票・白票数(無効率)---
投票者数(投票率)--398,03691.59%-
棄権者数(棄権率)--36,5588.41%-
有権者数--434,594100.0%-
出典:議会制度百年史、総務省統計局

議員

当選者

 中央交渉会   独立倶楽部   近畿倶楽部   自由党   立憲改進党   無所属 

青森県1区工藤卓爾工藤行幹2区榊喜洋芽3区菊池九郎
岩手県1区上田農夫2区阿部浩3区佐藤昌蔵4区大内貞太郎5区達谷窟信敬
宮城県1区村松亀一郎2区武者伝二郎3区藤沢幾之輔4区千葉胤昌5区斎藤善右衛門
秋田県1区二田是儀2区荒谷桂吉3区野出鋿三郎4区斎藤勘七武石敬治
山形県1区宮城浩蔵佐藤里治2区五十嵐力助3区本間耕曹斎藤良輔
4区松沢光憲
福島県1区小笠原貞信2区安部井磐根3区河野広中鈴木万次郎
4区柴四朗山口千代作5区愛沢寧堅
茨城県1区関信之介関戸覚蔵2区野口勝一立川興3区飯村丈三郎
4区森隆介5区色川三郎兵衛6区斎藤斐
栃木県1区星亨2区新井章吾岩崎万次郎3区田中正造4区塩田奥造
群馬県1区竹内鼎三2区金井貢3区中島祐八4区矢島八郎5区湯浅治郎
埼玉県1区加藤政之助2区高田早苗福田久松3区野口褧新井啓一郎
4区斎藤珪次湯本義憲5区原善三郎
千葉県1区千葉禎太郎2区小倉良則狩野揆一郎3区大須賀庸之助4区西村甚右衛門
5区伊藤徳太郎6区高梨正助7区高橋与市8区加藤淳造
神奈川県1区島田三郎2区山田泰造3区石坂昌孝瀬戸岡為一郎4区山田東次
5区山田嘉穀6区福井直吉
山梨県1区浅尾長慶2区薬袋義一3区加賀美嘉兵衛
東京府1区黒田綱彦2区渡辺洪基3区中沢彦吉4区藤田茂吉5区太田実
6区高梨哲四郎7区角田真平8区津田真道9区鳩山和夫10区北岡文兵衛
11区浅香克孝12区平林九兵衛
新潟県1区小柳卯三郎2区丹後直平加藤勝弥3区佐々木松坪4区西潟為蔵
5区長谷川泰波多野伝三郎6区松村文次郎7区本山健治目黒徳松
8区室孝次郎鈴木昌司9区鵜飼郁次郎
富山県1区岩城隆常原弘三2区谷順平3区稲垣示4区武部其文
石川県1区大垣兵次神保小太郎2区新田甚左衛門3区由雄与三平橋本次六
4区百万梅治
福井県1区加藤与次兵衛2区杉田定一3区岡研磨4区藤田孫平
長野県1区小坂善之助2区丸山名政3区佐藤八郎右衛門4区窪田畔夫金井清志
5区立川雲平6区中村弥六7区伊藤大八
岐阜県1区大野亀三郎2区小原適3区原亮三郎4区高木郁助5区長尾四郎右衛門
6区熊谷孫六郎7区船坂与兵衛
静岡県1区井上彦左衛門2区影山秀樹3区広住久道4区丸尾文六5区足立孫六
6区松島廉作7区江原素六田中鳥雄
愛知県1区青山朗2区永井松右衛門3区横井善三郎4区片野東四郎5区森東一郎
6区加藤政一7区天埜伊左衛門8区早川龍介9区今井磯一郎10区加藤六蔵
11区鈴木麟三
三重県1区牛場卓蔵2区伊東祐賢3区天春文衛4区伊藤謙吉
5区角利助尾崎行雄6区立入奇一
滋賀県1区川島宇一郎2区林田騰九郎3区中小路与平治大東義徹4区江竜清雄
京都府1区坂本則美2区竹村藤兵衛3区正木安左衛門4区西川義延
5区田中源太郎石原半右衛門6区神鞭知常
大阪府1区粟谷品三2区外山脩造3区浮田桂造4区村山龍平橋本善右衛門
5区高井幸三6区俣野景孝7区東尾平太郎8区児山陶9区佐々木政乂
兵庫県1区村野山人2区渡辺徹3区田艇吉4区石田貫之助5区魚住逸治
6区高瀬藤次郎7区内藤利八8区後藤敬改野耕三
9区岡精逸佐藤文兵衛10区佐野助作
奈良県1区玉田金三郎2区植田理太郎植田清一郎3区森本藤吉
和歌山県1区岡崎邦輔関直彦2区児玉仲児3区塩路彦右衛門山本登
鳥取県1区木下荘平2区若原観瑞3区渡部芳造
島根県1区岡崎運兵衛2区佐々木善右衛門3区木佐徳三郎4区清水文二郎5区佐々田懋
6区吉岡倭文麿
岡山県1区坪田繁小林樟雄2区西毅一3区犬養毅4区坂田丈平
5区渡辺磊三6区立石岐7区加藤平四郎
広島県1区平山靖彦渡辺又三郎2区八田謹二郎3区前田篤之助4区和田彦次郎
5区黒川修三6区松浦唯次郎7区長井松太郎8区倉田準五郎9区井上角五郎
山口県1区古谷新作木梨信一2区堅田少輔3区大岡育造
4区曽禰荒助武弘宜路5区水落簡
徳島県1区椎野伝治郎2区守野為五郎3区川真田徳三郎4区橋本久太郎5区曽我部道夫
香川県1区中野武営2区小西甚之助3区都崎秀太郎4区三崎亀之助5区石井定彦
愛媛県1区藤野政高小林信近2区高須峯造3区有友正親4区鈴木重遠
5区牧野純蔵6区堀部彦次郎
高知県1区武市安哉2区片岡直温安岡雄吉3区植木志澄
福岡県1区津田守彦2区小野隆助香月恕経3区郡保宗4区佐々木正蔵
5区中村彦次6区岡田孤鹿7区堤猷久8区末松謙澄
佐賀県1区坂元規貞牛島秀一郎2区川原茂輔3区五十村良行
長崎県1区松田源五郎稲田又左衛門2区朝長慎三3区牧朴真4区立石寛司
5区大坪利晋6区川本達
熊本県1区佐々友房有吉平吉2区古荘嘉門3区長野一誠紫藤寛治
4区嘉悦信之5区山田武甫6区小崎義明
大分県1区小野吉彦2区箕浦勝人3区朝倉親為4区広瀬貞文5区安東九華
6区是恒真楫
宮崎県1区川越進2区肥田景之3区小林乾一郎
鹿児島県1区厚地政敏2区折田兼至3区長谷場純孝4区柏田盛文5区河島醇
6区篠田政龍7区大島信

補欠・更正当選者

現職議員が死去あるいは辞職した場合、補欠選挙が実施される。複数の選挙区で当選した人物が辞退した選挙区では再選挙が行われる。当選訴訟によって当選無効となった場合、裁判所の判決にもとづいて当選者が変更される。これを「更正」という。ただし、失格となった当選者も更正までは正当な当選者として議席を有するため選挙時の当選者として扱われる。『議会制度七十年史』、『議会制度百年史』などの文献では、その区分が不明確であり、また誤りが散見されるため注意を要する。[16]

月日選挙区選出当選者所属党派欠員所属党派欠員事由
18924.16大分6区補欠選挙元田肇中央交渉会是恒真楫中央交渉会1892.3.13死去
9.17東京4区補欠選挙楠本正隆藤田茂吉改進党1892.8.19死去
9.18広島7区補欠選挙前田莞爾長井松太郎中央交渉会1892.8.10死去
9.22広島1区補欠選挙藤田高之平山靖彦中央交渉会1892.9.1辞職
9.25愛知6区補欠選挙加藤喜右衛門加藤政一1892.9.1辞職
10.15岩手1区更正谷河尚忠上田農夫1892.10.4当選無効
10.20石川2区補欠選挙杉村寛正新田甚左衛門1892.9.29辞職
11.19群馬5区補欠選挙宮口二郎湯浅治郎1892.10.31辞職
12.15広島2区補欠選挙小田貫一八田謹二郎1892.11.18辞職
12.26兵庫2区補欠選挙奥野小四郎渡辺徹1892.12.2辞職
18933.12山形1区補欠選挙重野謙次郎宮城浩蔵1893.2.14死去
3.25熊本5区補欠選挙嘉悦氏房山田武甫1893.2.25死去
4.3千葉2区補欠選挙秋元三左衛門狩野揆一郎1893.3.5死去
4.6三重4区補欠選挙栗原亮一伊藤謙吉1893.3.14辞職
5.25高知1区補欠選挙小松三省武市安哉1893.5.1辞職
6.14富山4区更正島田孝之武部其文1893.5.17当選無効
7.6鹿児島6区補欠選挙蒲生仙篠田政龍1893.5.31死去
8.5高知2区更正林有造片岡直温1893.6.9当選無効
8.7更正片岡健吉安岡雄吉1893.6.9当選無効
8.5秋田4区補欠選挙坂本理一郎斎藤勘七1893.7.12辞職
8.14徳島5区補欠選挙阿部興人曽我部道夫1893.7.22辞職
9.20山口4区補欠選挙小倉甚吉曽禰荒助1893.8.31辞職
11.4宮城5区補欠選挙首藤陸三斎藤善右衛門1893.10.12辞職
11.12富山1区補欠選挙関野善次郎岩城隆常1893.10.18死去
12.22山形4区補欠選挙小磯忠之輔松沢光憲1893.11.29辞職

初当選

計53名
中央交渉会
12名

 

 

独立倶楽部
3名
立憲自由党
21名
立憲改進党
8名

 

 

 

無所属
9名

 

 

 

引退・不出馬

計16名
立憲自由党
5名
大成会
5名
無所属
8名

 

 

 

落選

計28名
中央交渉会
1名
立憲自由党
14名

 

 

立憲改進党
7名

 

 

 

無所属
7名

 

 

 

脚注

注釈

出典

関連項目

参考文献

  • 末木孝典「第2回衆議院議員選挙の結果と議会運営 選挙干渉の有効性分析」『選挙研究』第26巻、日本選挙学会、2010年、120-130頁、doi:10.14854/jaes.26.2_120a2019年11月19日閲覧 
  • 衆議院事務局編『総選挙衆議院議員当選回数調 - 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』(吉川弘文館 1992年 ISBN 4642036326
  • 末木孝典『選挙干渉と立憲政治』(慶應義塾大学出版会 2018年 ISBN 4766425308
  • 大津淳一郎『大日本憲政史』
  • 川田瑞穂『片岡健吉先生伝』
  • 笹川多門『松田正久稿』
  • 高知県『高知県史』
  • 佐賀県『佐賀県史』

外部リンク