簡朗山

簡 朗山(かん ろうざん)こと緑野 竹二郎(みどりの たけじろう、1872年5月15日 - 1954年5月23日[1][2])は、日本統治時代の台湾政治家実業家貴族院朝鮮・台湾勅選議員[3]

生涯

本籍地は台湾新竹州桃園郡桃園街(現・桃園市桃園区[2]漢文私塾で教育を受けた後、1894年に桃園街庄約束処副長となり、1896年に憲兵屯所嘱託、桃仔園街庄公所長、1898年に台北県第二区庄長、1899年保甲局長、1901年に台北県第一区街長(兼任)、1903年桃園庁第一区庄長、1905年に南崁区長、1909年に埔仔区長、1913年に竹囲区長(兼任)、1920年に桃園街長、1921年に新竹州協議会員、1923年台湾総督府評議会員を歴任し、1928年の桃園街長の任期満了をもって政界を一旦引退した。1945年4月からは貴族院朝鮮・台湾勅選議員を務めた[2][3][4]

実業家としては1903年に現地の有志と共に桃崁軽便鉄道を設立し、1912年に同会社が桃園軽便鉄道に改名した後は監査役を務め、1920年に桃園軌道に再改名した後は専務取締役取締役社長を歴任した。他には1919年に日本拓殖株式会社の監査役、1920年に台湾合同電気株式会社の取締役、1923年に中興産業株式会社の社長をそれぞれ務めた[2]

賞勲

脚注