若狭忠清

若狭 忠清(わかさ ただきよ)は、鎌倉時代中期の武将[1]若狭忠季の子[1]。通称は四郎、法名は定連[1][2]

 
若狭忠清
時代鎌倉時代中期
生誕不明
死没不明
改名忠清→定連(法名)
別名通称:四郎
幕府鎌倉幕府
氏族若狭氏
父母父:若狭忠季
兄弟忠清、次郎兵衛
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略歴

承久の乱で戦死した父・忠季の跡を継ぎ、若狭国守護および同国遠敷三方両郡の総地頭などに任命され[1][2]、地頭領主制を推し進め、同国における若狭氏支配の基礎を築いた[1]。しかし、東寺領の太良荘では荘官の定宴や有力百姓と度々相論に至り、寛元元年(1243年)、地頭の非法を訴える百姓らと六波羅探題で対決したが、荘民側の全面勝訴の判決に基づき地頭代罷免の裁決を受けた[1][2]。また、宝治元年(1247年)には荘務権をめぐる預所代定宴との相論においても「地頭之違乱」とされ敗北し、太良荘の地頭支配は一旦挫折した[1]

脚注