裴鉶

晩唐の官僚、作家

裴 鉶(はい けい)は、晩唐の官僚、作家。生歿年は不明であるが、大略大中から光啓文徳)に掛けての懿宗僖宗の頃(基督教暦859年から888年。下皆效此)の活動が伝えられている。伝奇小説集『伝奇(中国語版)』三巻の撰者で[1][2]谷神子(こくしんし)と号した。

懿宗の咸通5年(864年)から9年に掛けて、高駢(こうべん)が静海軍節度使中国語版であった時に高の掌書記として仕えて侍御史、内供奉の官を加えられる[3]。この間道教信奉者であった高駢[4]神仙の話を好んだ為に『伝奇』を著して勧めたといい[5]、現伝するその諸則を通じても道教的要素が強い点は認められ[6]、裴が洪州の鍾陵(しょうりょう。現中華人民共和国江西省南昌市)の山中で道教の修行に励んだとの伝もある[7]ので同じく道教を信奉していたものと思われる[8]一方、或いは高に迎合しただけであった可能性もある[9]

僖宗乾符5年(878年)、御史大夫を授かって成都軍節度使中国語版の副使となる[10]。乾符2年から5年迄は高が剣南西川節度使中国語版兼成都尹(成都府府尹)であったので、裴の節度副使赴任は高が成都を去った後の事と思われ、また、こうした官職は同代伝奇作家に比べると官僚として出世した方であり、その背景に高の推挽があったものと考えられる[11]。以後の経歴を伝える記録は残されていないが、光啓3年(887年)に高が弑され幕下の吏も悉く誅された際には高と距離を置いて難を逃れたようである[12]

作品には『伝奇』の他に、『全唐詩』巻597に収める文翁石室中国語版に題した七言律詩1首[13]、『全唐文』巻805に収める「天威径新鑿海派碑」1篇[14]が残され、また、谷神子名義で『道生(士)旨』1巻を著している[15]

注・出典

参考文献

関連項目

  • 黒衣の刺客……裴鉶の伝奇小説『聶隱娘』の映画化作品。