黒田利則

戦国時代から江戸時代前期の武将。黒田氏の家臣。黒田職隆の三男。母は神吉頼氏の娘(-1582.3.13、継室)。修理亮

黒田 利則(くろだ としのり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将黒田氏の家臣で、黒田二十四騎黒田八虎の一人。

 
黒田利則
修理亮利則(福岡市博物館蔵)
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕永禄4年3月4日1561年3月19日
死没慶長17年3月5日1612年4月5日
改名甚吉(幼名)、利則
別名四郎太(通称)、長基、養心(号)
諡号養翁
戒名宗源院
官位修理亮
主君豊臣秀吉豊臣秀長黒田孝高
氏族小寺氏黒田氏
父母父:黒田職隆、母:神吉頼氏の娘
兄弟孝高、利高利則直之
間島氏常の娘
正喜、正興
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生涯

永禄4年(1561年)3月4日、黒田職隆の三男として播磨国姫路で生まれる[1]。異母兄に黒田孝高(如水)などがいる。

天正5年(1577年)より羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦する。功名を立て、その後は羽柴秀長に転仕する。

天正15年(1587年)、九州平定に秀長軍として従軍。この頃、周防国山口でキリシタンの洗礼を受ける。兄・孝高が豊前国を拝領すると黒田家臣となり、2,000石を支給される[1]文禄元年(1592年)の文禄の役では侍大将として従軍。一旦帰国後に養心と号している。慶長の役の際にも旗本備として参加している。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、豊前国中津城の守備に当たる[1]。その後、甥の黒田長政福岡藩主になると、1万2,000石に加増され、宗像郡津屋崎に置かれた[1]。また、兄・孝高の死後、孝高の肖像画を崇福寺に奉納した。

慶長17年(1612年)3月5日に死去した[1]享年52。法名は宗源院殿華翁養心大居士[1]那珂郡市ノ瀬村の山上に葬られた[1]

家族

嫡男長利は、慶長18年(1613年)8月、19歳で死去。その子である孫一も、同月3歳で亡くなったため、断絶した[1]

脚注

出典

参考文献

  • 家臣人名事典編纂委員会(編)『三百藩家臣人名事典 第7巻』新人物往来社、1989年5月。ISBN 4404016077 
  • 本山一城『黒田官兵衛と二十四騎』宮帯出版社、2014年、112-115頁