第9代ハミルトン公爵および第6代ブランドン公爵アーチボルド・ハミルトン(英語: Archibald Hamilton, 9th Duke of Hamilton and 6th Duke of Brandon、1740年7月15日 – 1819年2月16日)は、スコットランド出身の貴族、政治家。1768年から1772年1月まで庶民院議員を[1]、1799年から1802年までラナークシャー統監を務めた[2]。
第5代ハミルトン公爵および第2代ブランドン公爵ジェームズ・ハミルトンと3人目の妻アン(1771年3月9日没、旧姓スペンサー(Spencer)、エドワード・スペンサーの娘)の息子として、1740年7月15日に生まれた[3]。1744年2月13日に父方の祖母エリザベス(Elizabeth、1680年ごろ – 1744年2月13日、第5代ジェラード男爵ディグビー・ジェラードの娘)が死去すると、5代ジェラード男爵とその親族にあたる第2代マクルズフィールド伯爵チャールズ・ジェラードの遺産を継承した[1]。1753年よりイートン・カレッジで教育を受けた後、グランドツアーに出た[1]。
1768年イギリス総選挙でランカシャー選挙区(英語版)から出馬して、無投票で当選した[4]。議会では1769年2月にジョン・ウィルクスの議会追放に賛成票を投じたが、ウィルクスの追放により行われた補欠選挙の結果をめぐり、ウィルクスの対立候補ヘンリー・ローズ・ラットレル(英語版)の当選宣告について同年4月に採決が行われると、反対票を投じた[1]。議会では演説の記録がなく、1772年1月に議会を離れたが、その理由は知られていない[1]。また、1771年に母が死去すると、母方の祖父エドワード・スペンサーの遺産を継承した[1]。
1799年8月2日に異母兄ジェームズの息子ダグラスが死去すると、ハミルトン公爵位とブランドン公爵位を継承した[3]。同年11月30日にラナークシャー統監に任命されたが、1802年11月1日までに辞任して息子アレグザンダーに譲った[2]。さらに1806年11月には繰上勅書によりダットン男爵位を息子アレクサンダーに譲った[3]。
1819年2月16日にランカシャーのアシュトン・ホール(英語版)で死去、アレクサンダーが爵位を継承した[3]。
1765年5月25日、ハリエット・ステュアート(Harriet Stewart、1788年12月3日埋葬、第6代ギャロウェイ伯爵アレクサンダー・ステュアートの娘)と結婚[3]、2男3女をもうけた[5]。
第9代ハミルトン公爵は下記の優勝馬を所有した。
グレートブリテン議会(英語版) | ||
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先代 ストレンジ卿 ジェームズ・シャトルワース(英語版) | 庶民院議員(ランカシャー選挙区(英語版)選出) 1768年 – 1772年 同職:ストレンジ卿 1768年 – 1771年 セフトン伯爵 1771年 – 1772年 | 次代 セフトン伯爵 サー・トマス・エジャートン準男爵 |
名誉職 | ||
先代 第8代ハミルトン公爵 | ラナークシャー統監 1799年 – 1802年 | 次代 ダグラス侯爵 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 ダグラス・ハミルトン | ハミルトン公爵 1799年 – 1819年 | 次代 アレグザンダー・ハミルトン |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 ダグラス・ハミルトン | ブランドン公爵 1799年 – 1819年 | 次代 アレグザンダー・ハミルトン |
ダットン男爵 (繰上勅書により) 1799年 – 1806年 |