エイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリ(Aimée du Buc de Rivéry、1776年?(1763年?) - ?(1817年?))は、18世紀後半に生きたマルティニーク出身のフランス人女性で、オスマン帝国のスルタンの母后ナクシディル・スルタンと同一視されている人物。名前はエーメ、エメとも表記される。
フランス領西インド諸島マルティニーク島の名家の出身で、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトの最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの従妹にあたる。容姿については、混血の美人あるいは金髪の美人であった、とするものがある。
エイメの生い立ちに関する説は2つ存在する。
一般に知られている説のひとつによれば、エイメの生年は1776年である。彼女が14歳であった1790年、フランス本土へ留学するためにマルティニークの家族から離れて船旅に出た。しかし、彼女の乗った船は大西洋上で消息を絶ち、以後家族と連絡することも再会することもなかった、という。
もうひとつの説では、エイメは1763年の生まれで、従姉妹ジョゼフィーヌと同年の幼なじみであった、という。この説でも、やはり14歳のときフランスに渡り、8年間修道院で花嫁修業のための勉学に励んだ。しかし、マルティニークに帰るための船旅の途上、地中海上で消息を絶った、とされている。
多くの人々が信じているところによれば、消息を絶った彼女はオスマン帝国のハレムに献上され、のちの皇帝マフムト2世を生んだという。
諸書に記されたエイメの後半生は、おおよそ以下のようにまとめられる。
このエイメの物語は、欧米では19世紀後半以来、様々な本で取り上げられてほとんど定説のようにみなされており、今では本国トルコでも多くの人が事実であると考えている。日本でも、塩野七生のエッセイ「ハレムのフランス女」(『イタリア遺聞』所収)などで紹介されたことを通じて有名になった。
さらに諸書においては、エイメについて
といったエピソードが見られる。
このほか、彼女がハレムの間の闘争や政治闘争から自身や息子マフムトを如何に守り抜いたかについて、豊富なエピソードが残されている。
ハレムにおけるエイメの波乱に満ちた後半生を伝える様々なエピソードはあたかも史実であったかのように紹介されてきた。
しかし実際のところ、ナクシディルがジョゼフィーヌの従妹エイメであることや、彼女がハレムにおいて経験したドラマチックな事件を証拠付ける同時代の記録は存在しない。オスマン帝国のハレムには海賊によって捕らえられたイタリアやフランス出身の女性がいたことは間違いないが、個々の女性については記録が乏しく、たとえ母后まで上り詰めた女性であっても出自や本名すらほとんどわからないことが珍しくないのである。
さらにナクシディルとエイメを同一人物とするのに根本的な矛盾が存在する。エイメの伝記の多くはエイメの生年は1776年、船ごと消息を絶ったのは14歳のとき、すなわちフランス革命直後の混乱期である1790年としている。ところが、ナクシディルの息子であるマフムト2世の生年は1785年であり、年代に少なくとも5年のずれがある。
もっとも、塩野七生が紹介し、日本でよく知られている別の説では、エイメの生年は1763年である。もしこちらの説が正しいとすれば、彼女が行方を絶ったのは、マフムト2世の誕生より前ということになり、年代の矛盾は生じないといえる。
しかし、トルコ側における確実な記録の乏しさは如何ともしがたい問題である。たとえエイメがナクシディルであったとしても、少なくとも彼女がキリスト教徒として葬られたというエピソードは、現存するナクシディルの墓がイスラム風にモスクに存在している[1]事実と矛盾する。ましてやオスマン帝国の対西洋政策にナクシディルの意向が大きく関わったとする見解は史料的な裏付けを全く欠き、憶測の域をでるものではない。
ナクシディルとエイメのドラマチックな物語の間には、仮に幾分の史実が含まれていたとしても、同時に多くの伝説が含まれているのは間違いない。
なお、近年のトルコの報道によると、あるトルコの研究者は、ナクシディル・スルタンはコーカサス系の出自であるという説を唱えている[2]。