ジェノサイド
ジェノサイド(英: genocide)は、政治共同体あるいは民族もしくは人種集団を計画的に破壊することである[1]。ジェノサイド条約第2条によれば、政治共同体の、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為のこと[2]。集団殺害(しゅうだんさつがい)、大量虐殺(たいりょうぎゃくさつ)[1][2]。
定義と由来
genocide はギリシャ語の γένος(種族:英語の接頭辞でgenos)とラテン語 -caedes(殺害:英語の接尾辞でcide)の合成語であり[1]、ユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキンにより『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治』(1944年)の中で、政治共同体もしくは民族集団の消滅を目的とした、大量殺人だけではない複合的な計画を表すために用いられた造語である[1][3][4]。
ジェノサイドの防止と処罰を規定したジェノサイド条約第2条では、ジェノサイドとは、政治共同体または、人種的、民族的、宗教的集団を、全部または一部破壊する意図をもって行われた、次のような行為のいずれをも意味すると説明される。
- 集団の構成員を殺害すること。
- 集団の構成員に対して重大な肉体的または精神的な害を引き起こすこと。
- 集団の全体もしくは一部に身体的破壊をもたらすように計算された生活状態を、故意に集団に強いること。
- 集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること。
- 集団の児童を他の集団に強制的に移譲すること。
日本語では「集団殺害」や「大量虐殺」と訳されることが多いが、上記の通りジェノサイドには対象の殺害が伴わない場合もある。また、大量虐殺であっても、民族・人種抹殺の目的を伴わない場合はジェノサイドに当らない。
ラファエル・レムキンによる発案
レムキンは、ドイツの大学で言語学を学習していた頃、アルメニア人虐殺の生存者でベルリンでタラート・パシャを暗殺したソゴモン・テフリリアンの裁判に関心を持ち、法学を学習し始め、1929年に学位を取得した[3]。
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。レムキンはこれを逃れ、その後スウェーデンを経て渡米しのデューク大学に赴く。1944年に連合国側であったアメリカで、カーネギー国際平和財団から『Axis Rule in Occupied Europe(占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治)』を刊行。同書のなかで、「国民的集団の絶滅を目指し、当該集団にとって必要不可欠な生活基盤の破壊を目的とする様々な行動を統括する計画」を指す言葉として、「ジェノサイド」(genocide)という新しい言葉を造語した[5]。
なお、レムキンが「ジェノサイド」という言葉を思いついたのは1941年8月、ウィンストン・チャーチル英首相のBBCラジオ放送演説における「我々は名前の無い犯罪に直面している」という言葉によるという[6][7]。彼自身の家族や親族も49人がナチスによって殺害されたという。のちに、1945年のニュルンベルク裁判の検察側最終論告において主任検事ベンジャミン・フェレンツによって、「ジェノサイド」が初めて使用された[8]。
なお、ホロコースト否定論者のジェームス・J・マーティンらは、レムキンがカーネギー国際平和財団から出版したことや、ルーズベルト大統領政権で外国経済行政の主席研究員をつとめており、敵国押収財産の配分と実務処理を担当していたことなどから、ユダヤ・ロビーとの関連性を主張している[9][10]。
ジェノサイド条約
ジェノサイド条約における禁止行為
国際連合で採択された(1948年)ジェノサイド条約(集団抹殺犯罪の防止及び処罰に関する条約、Genocide Convention)の第2条では、政治共同体的、人種的、民族的または宗教的集団を全部または一部破壊する意図をもって行われた、次のような行為のいずれをも意味すると説明されている(カッコ内は条約で明言されていない具体例についての通説)。
- 集団の構成員を殺すこと
- 集団の構成員に対して重大な肉体的または精神的な害を引き起こすこと
- (拷問、強姦、薬物その他重大な身体や精神への侵害を含む)
- 集団の全体もしくは一部に身体的破壊をもたらすように計算された生活状態を、故意に集団に強いること
- (医療を含む生存手段や物資に対する簒奪・制限を含み、強制収容・移住・隔離などをその手段とした場合も含む)
- 集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること
- (結婚・出産・妊娠などの生殖の強制的な制限を含み、強制収容・移住・隔離などをその手段とした場合も含む)
- 集団の児童を他の集団に強制的に移譲すること
- (男児に新たな集団で一般的な名前・宗教に改名・改宗させた上で、労働力もしくは兵士として用いる。女児を動産として用いる。)
同条約第3条により、次の行為は集団殺害罪として処罰される。
- 集団殺害(ジェノサイド)
- 集団殺害を犯すための共同謀議
- 集団殺害を犯すことの直接且つ公然の教唆
- 集団殺害の未遂
- 集団殺害の共犯
旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所規程第4条2項並びに、国際刑事裁判所規程第6条には、ジェノサイド条約第2条と同様の規定があり、「集団殺害」について定義されている。
人道に対する罪との違い
1996年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」判決
国際司法裁判所は、1996年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」(ボスニア・ヘルツェゴビナ対ユーゴスラビア)(管轄権)判決において、ジェノサイド条約によって承認された権利と義務が、ジェノサイド条約という枠組みを超えて、対世的な(erga omnes)権利と義務であると認定した[11]。
2006年の「コンゴ民主共和国領における武力行動事件」判決
かつ、同裁判所は、2006年の「コンゴ民主共和国領における武力行動事件」(2002年新提訴、コンゴ民主共和国対ルワンダ)判決において、ジェノサイドの禁止がjus cogensの性質を有すると認定した[12]。
事例
以下、国際連合または一部の国にジェノサイドと認められている事例を概説する。ジェノサイドであるかどうか当事国の間で議論となっている事例、また国際世論において大まかにジェノサイドであると見なされているものもある。
政治学者の添谷育志は「ジェノサイド概念を超歴史的に適用することは、歴史責任問題を無限に拡大することになりかねない。」と指摘している[13]。
条約上の集団殺害罪に該当するもの。なお、民族浄化の項目も参照のこと。国連でジェノサイドに該当すると認定された行為は意外と少ない。例として以下のものが挙げられる。
オーストラリアのアボリジニ強制同化政策
18世紀以降のオーストラリアにおけるアボリジニ(先住民)の強制同化政策。オーストラリア連邦議会の調査書でこれが条約によって規定されるジェノサイドに該当するとの見解が出されたが、政府はこれに反発している。
アルメニア人虐殺
19世紀末から20世紀初頭にかけてのオスマン帝国のアルメニア人虐殺。アメリカ合衆国政府がジェノサイドと認定しトルコ政府はこの見解に反発しているが、国際的には論争が続いている。
ウクライナのホロドモール
1930年代のウクライナでのホロドモール。ソビエト連邦による人為的な飢餓と弾圧により多くの人々が死亡した。国際連合および欧州議会では人道に対する罪として認定された[14][15]。
ナチスのホロコースト
1933年のナチ党の権力掌握から1945年のナチス・ドイツ崩壊までの間に発生した、ナチスによるユダヤ人などに対するホロコースト。「ジェノサイド」の用語はナチスによる大量虐殺を説明する用語として造られ、ニュルンベルク裁判の起訴状に使用された[16]。
広島・長崎への原爆投下
ノーム・チョムスキーは「歴史上で最も酷い犯罪だ」と発言し、マイケル・シャーマーは、広島と長崎への原爆投下が「非道徳的、違法、人類に対する罪でさえある」と主張する議論を取り上げている。
カンボジアの特別法廷
ポル・ポト、タ・モク、その他の指導者が率いるクメール・ルージュは、カンボジア大虐殺を引き起こした。犠牲者の総数は、1975年から1979年の間に、奴隷労働による死亡者を含めて170万人と推定されている[17]。
2003年6月6日、カンボジア政府と国際連合は、クメールルージュの最高幹部が犯した犯罪を裁く特別法廷 (ECCC) をカンボジア裁判所に設置することに合意[18]、裁判官は2006年7月初旬に宣誓を行った[19][20][21]。
大量虐殺の容疑は、カンボジアのベトナム人とチャム族の少数民族の殺害に関連しており、数万人、おそらくそれ以上の犠牲者がいると推定されている[22][23]。
一部の国際法学者とカンボジア政府の間で、法廷で裁判にかけるべき人々について意見の相違があった。
ユーゴスラビア紛争における民族浄化
1990年代から2000年代までの旧ユーゴスラビアにおけるユーゴスラビア紛争。特にボスニア内戦時の民族浄化。国際司法裁判所は、1995年7月13日より始まったVRS(ボスニアのセルビア人武装勢力)によるスレブレニツァにおける虐殺(スレブレニツァの虐殺)をジェノサイド条約2条上の集団殺害と認定した[24]。
ルワンダの虐殺
1994年春にルワンダで行われた虐殺。進行している虐殺がジェノサイドであると判断される場合は条約調印国全部に介入義務が生じるため、介入を避けようとしたアメリカほか調印国の抵抗により国連でその認定が遅れ、その際にジェノサイド的行為(act of genocide)が行われていると見解を発表するにとどまった。虐殺終了後に事後的にジェノサイドであると認定された。(ルワンダ紛争、ルワンダ国際戦犯法廷参照)
ダルフール紛争における集団虐殺
2003年以降のダルフール紛争における集団虐殺。ジェノサイドであるとの正式な認定が国連で行われていないために強制的な介入は行われていない。
中国の少数民族政策
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新疆ウイグル自治区ロプ県の強制労働施設に収容されている少数民族ウイグル族の男性達 |
中華人民共和国による複数の少数民族に対する政策。アメリカ合衆国政府などがジェノサイドと批判し、中国政府は虚偽と反発している。
2008年のチベット騒乱時に、ダライ・ラマ14世は中華人民共和国によるチベットでのデモ活動の鎮圧などを「文化的虐殺」と非難した。
2019年頃より、新疆ウイグル自治区でイスラム教徒であるウイグル人が累計100万人が中国政府により「再教育施設」と呼ばれる施設に収容され、洗脳、虐待、強制不妊などが行われていると報道された[25][26][27][28]。2021年1月、アメリカのドナルド・トランプ大統領政権は、中国政府による新疆ウイグル自治区での少数民族ウイグル人虐殺を、国際条約上の民族大量虐殺である「集団殺害(ジェノサイド)」であり、かつ「人道に対する罪」に認定したと発表した[29][30][31]。2021年、バイデン政権もこの決定を引き継ぐと発表した[32]。2021年1月20日、在米の中国大使館がTwitter上で「過激主義を根絶する過程で、新疆のウイグル人の女性たちの心は解放された」、「彼女らはもはや子作りの機械ではなくなった」など書き込んだことで、アカウントを一時凍結された[33]。2021年1月26日、日本の外務省担当者は自民党外交部会で、この件について「中国のウイグル弾圧をジェノサイドとは認めていない」という認識を示した[34]。
また1960年代から1970年代の中華人民共和国による内モンゴル人民革命党粛清事件を、楊海英は「ジェノサイド」と主張している[35]。
その他の事例
ここまでに挙げた「ジェノサイド」は、要件を人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為としている。これに対して、存在に対する抹消行為という意味での比喩的な意味(用法)として、以下のような文脈で用いられることがある。
脚注
注釈
出典
参考文献
- スプリンガー, ジェーン 著、築地誠子 訳『1冊で知るジェノサイド』石田勇治解説、原書房、2010年。ISBN 9784562045235。
- 添谷育志「大量虐殺の語源学―あるいは「命名の政治学」」『明治学院大学法学研究』第90巻、明治学院大学法学会、2011年1月、23-108頁、ISSN 13494074、NAID 120005354966。