ジャンルカ・パリュウカ

イタリアのサッカー選手 (1966 - )

ジャンルカ・パリュウカGianluca Pagliuca, 1966年12月18日 - )は、イタリアエミリア=ロマーニャ州ボローニャ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはゴールキーパー。2020年にサミール・ハンダノヴィッチに並ばれるまで、セリエAのPKストップ数、単独最多記録保持者であった(24回)[4]

ジャンルカ・パリュウカ
名前
ラテン文字Gianluca PAGLIUCA
基本情報
国籍イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1966-12-18) 1966年12月18日(57歳)
出身地ボローニャ
身長190cm
体重94kg
選手情報
ポジションGK
利き足左足
ユース
1984-1986ボローニャ
クラブ1
クラブ出場(得点)
1987-1994イタリアの旗 サンプドリア 198 (0)
1994-1999イタリアの旗 インテル・ミラノ 165 (0)
1999-2006イタリアの旗 ボローニャ 248 (0)
2006-2007イタリアの旗 アスコリ 23 (0)
代表歴
1991-1998[3]イタリアの旗 イタリア39 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2012年4月8日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クラブ経歴

子供の頃は、GKとしてだけでなく、FWとしてもプレーしていた[5]。初めてサッカーを本格的に始めた、チェレトレーゼでは、主にMFやFWとしてプレー、GKをやることは殆ど無かった[5]。しかし、12歳から13歳の頃から、GKとしてプレーするようになった[5]。1982年にボローニャFCのユースへと移籍[5]

1986-87シーズン、UCサンプドリアのプリマベーラへと貸し出され、トルネオ・ディ・ヴィアレッジョに出場し、大会最優秀GKに選出された[5]。その活躍により、サンプドリアがそのまま買い取り、移籍することとなった[5]。1987-88シーズン、9月6日、コッパ・イタリアの試合でプロデビューを果たし、1988年5月8日、ピサとの対戦でセリエAの舞台にデビューした[5]。以降、シーズン終盤ではあったが、スタメン起用され、初タイトルとなるコッパ・イタリアを獲得した[5]。1990-91シーズン、5月5日、優勝を争っていた、インテルとの直接対対決では、ローター・マテウスのPKをストップし、勝ち点1獲得に成功するなど、クラブとして初のリーグ優勝に貢献した[5]。翌1991-92シーズン、チャンピオンズカップ決勝の進出にも貢献、決勝のFCバルセロナ戦でも、いくつかの好セーブを見せたが[6]、延長でロナルド・クーマンに直接FKを決められ、チームは0-1と破れた。その後も1993-94シーズンのコッパ・イタリアでは、ASローマ戦など、決勝までの対戦で5本のPKを止め、優勝に貢献した[5]

1994-95シーズンにゼンガリカルド・フェッリのトレードで[5][7]インテルに移籍した。1994-95シーズンから1997-98シーズンまでの4シーズン連続でリーグ戦全試合出場を達成し、1997-98シーズンにはUEFAカップ優勝に貢献した。

1999年、新監督にマルチェロ・リッピの就任が決まると、ペルッツィの獲得が決まり、古巣のボローニャへと複帰、7シーズンプレーした[5]2006年9月17日FCメッシーナ戦で通算出場記録を571とし、ディノ・ゾフの持つ当時のセリエAゴールキーパー最多出場試合記録を更新した。

引退後は、スカイスポーツで解説者として働いていたが、コーチングライセンスを取得し、ボローニャユースのGKコーチを経て、プリマベーラのGKなどを務めている[5]

代表経歴

イタリア代表としてはワールドカップ・イタリア大会の代表に選出されるも、第3GKの立場で、出場は無かった[5]1991年6月16日ソビエト連邦戦で代表デビューを飾った。その後、アリゴ・サッキが代表監督に就任すると、ルカ・マルケジャーニと激しいポジション争いを繰り広げた[5]1994年ワールドカップ・アメリカ大会にレギュラーとして出場、ノルウェー戦ではペナルティエリア外に飛び出し、ハンドを犯して退場となった[8]。出場停止明けても、正GKとして起用され、決勝に進出、決勝のブラジルのPK戦では、マルシオ・サントスのシュートをセーブしたが、及ばず、準優勝に終わった[5]。しかし、大会後の1995年頃からは代表を外された[5]

さらに1998年ワールドカップ・フランス大会にも出場、大会数日前のペルッツィの怪我により、正ゴールキーパーとしてプレーした[5]。決勝トーナメント1回戦のノルウェー戦では、キャリアの中で最高のセーブの一つに数えられる、トーレ・アンドレ・フローの決定機を阻止するセーブを見せた[5]。準々決勝のフランス戦では延長PK戦でリザラスのPKを止めたが、チームは敗れた[9]

1988年、ソウル五輪、オーバーエイジ枠で、1996年のアトランタ五輪にも出場した。

プレースタイル

1990年代イタリアを代表するゴールキーパー。抜群の反射神経を持ちハイボール処理に能力を発揮していた[10][11][12]。また、的確なポジショニングによる一対一の対応、ディフェンダーへのコーチングも巧く、常に大声を張り上げチームを鼓舞した[13]

その他

自信家で、1995-96シーズン頃のセリエAで自身が最高のGKであると豪語した一方、世界最高のGKはピーター・シュマイケル、好きなGKとしてイングランドのシーマンを挙げている[14]

1966年の12月、ボローニャの同じ病院の隣の部屋で、スキー選手となったアルベルト・トンバがパリュウカの数時間後に誕生、成人後には体格も似ていたことから、双子と呼ばれることもあった[5]

受賞歴

個人賞

  • グリエン・ドーロ : 1996-97, 2004-05

クラブ

代表

出典

外部リンク


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