サッカーブラジル代表

ブラジルの男子サッカーナショナルチーム

サッカーブラジル代表(サッカーブラジルだいひょう、: Seleção Brasileira de Futebol[注釈 1])は、ブラジルサッカー連盟(CBF)によって構成されるブラジルサッカーナショナルチーム

サッカーブラジル代表
国または地域ブラジルの旗 ブラジル
協会ブラジルサッカー連盟
FIFAコードBRA
愛称Seleção (セレソン)
Canarinho (小さなカナリア)
Verde-Amarela (緑と黄色)
監督ブラジルの旗 フェルナンド・ジニス英語版
最多出場選手カフー(142試合)
最多得点選手ネイマール(79得点)
ホームカラー
アウェイカラー
初の国際試合
 アルゼンチン 3-0  ブラジル
ブエノスアイレス, 1914年9月20日)
最大差勝利試合
 ブラジル 10-1  ボリビア
サンパウロ, 1949年4月10日)
 ブラジル 9-0  コロンビア
リマ, 1957年3月24日)
最大差敗戦試合
 ウルグアイ 6-0  ブラジル
ビニャ・デル・マール, 1920年9月18日)
 ブラジル 1-7  ドイツ
ベロオリゾンテ, 2014年7月8日)
FIFAワールドカップ
出場回数22回(初出場は1930
最高成績優勝 (1958, 1962, 1970, 1994, 2002)
コパ・アメリカ
出場回数37回
最高成績優勝 (1919, 1922, 1949, 1989, 1997, 1999, 2004, 2007, 2019)
FIFAコンフェデレーションズカップ
出場回数7回
最高成績優勝 (1997, 2005, 2009, 2013)
ブラジルのサポーター(2010年南アフリカW杯北朝鮮戦)

概要

FIFAワールドカップにおいて唯一、2022年大会までの22大会全てにおいて本大会出場を果たしており、最多となる5度の優勝経験を有する世界を代表する強豪国である。1970年大会2002年大会では、全試合90分以内での全勝優勝を達成している[注釈 2]。中でも1970年大会は南米予選でも6試合で全勝しており、予選・本大会を通じての全勝優勝はこれが大会史上唯一である。

ワールドカップ優勝国の中では、スペインと同様に地元開催での優勝経験が無い。コパ・アメリカでは9回優勝している。これは、15回のアルゼンチンウルグアイに続いて3番目に多い回数である。FIFAランキングで1位になった経験を持つ8チームのうちの1つでもある。

チームカラーはカナリア色(黄色)・青・緑・白で、これはブラジルの国旗から取られている。愛称はチームカラーよりカナリア(Os Canarinhos)。また、ブラジルの公用語であるブラジルポルトガル語でナショナルチームのことを seleção[注釈 3][ˌseleˈsɐ̃w̃] セレサォン)というが、ヨーロッパポルトガル語では seleção[sɨlɛˈsɐ̃w̃] スレソン)と言い、綴りは同じながら発音が異なるため、日本語では「セレソン」だけでブラジル代表を想起させることが多い。

最多出場はカフーの142試合、最多得点はネイマールの79得点である。ブラジル国内での試合開催はワールドカップ地区予選、アルゼンチンとの親善試合「スーペルクラシコ」以外では年1回の親善試合に限られている。それ以外ではヨーロッパを中心にアウェー、もしくは中立国で開催している。

歴史

ブラジル代表のエンブレムの基になっているキリスト騎士団の十字。これは旧宗主国のポルトガル代表と共通である。

20世紀

1914年、リオデジャネイロ州サンパウロ州の合同選抜チームがイングランドエクセター・シティFCと対戦したのがブラジル代表の最初の対外試合であると言われている。試合結果については2-0でブラジルの勝利であったとするものと、3-3の引き分けであったとするものとがいずれも複数存在しており、正確な情報は不明である。

初期のブラジル代表は常に世界トップレベルにある現状とは程遠く、ブラジルサッカー連盟内部でのプロ化に関する意見の不一致による内部紛争などの影響で、代表チームの編成も不安定な状況にあった。南米選手権(現在のコパ・アメリカ)では1919年、1922年に優勝したものの、1920年にチリビニャ・デル・マールで開かれた南米選手権ではウルグアイに、2014年時点で最多得失点差での敗戦記録[注釈 4]として残る0-6の大敗を喫している。また、第一次世界大戦の影響もあるが先述のエクセター・シティFCとの対戦以降、欧州チームとの対戦は1928年、スコットランドマザーウェルFCとの試合までなかった。

ウルグアイで開催された第1回FIFAワールドカップに出場し、グループ2初戦のユーゴスラビア戦に1-2で敗れ、続くボリビア戦には4-0で勝利したもののグループリーグ敗退となった[注釈 5]

1934年にはイタリア王国で開催された1934 FIFAワールドカップ初戦のスペイン戦に1-3で敗れ、早々に敗退[注釈 6]、その足で向かったアウェーの親善試合ユーゴスラビア戦で、2019年時点でブラジル代表の公式試合最多失点記録として残る4-8の大敗を喫している[1][2]1938 FIFAワールドカップでは初めて準決勝まで進出するも、優勝したイタリアに1-2で敗れ3位決定戦でスウェーデンに勝利し3位となっている。

ブラジルにとって、ワールドカップ優勝を狙える最初の機会は南米選手権で27年ぶりに優勝した1949年の翌年、自国で開催された1950年大会であった。1次リーグを2勝1分で突破すると、2次リーグでもスウェーデンに7-1、スペインに6-1と大勝し、この大会の事実上の決勝となったリオデジャネイロマラカナン・スタジアムでのウルグアイとの2次ラウンド最終戦に臨んだ。しかし引き分けでも優勝だったにもかかわらず逆転負けを喫し、初優勝を逃した。これは「マラカナンの悲劇」とよばれている。

初優勝は1958年スウェーデン大会で、決勝で地元のスウェーデンを5-2で破った。これは南アメリカのチームがヨーロッパで開催されたワールドカップで優勝したただひとつの例である。1970年メキシコ大会では、ペレ率いるブラジルは3度目の優勝を果たし、ジュール・リメ杯を永久保持することとなった。

1982年スペイン大会ジーコソクラテスファルカントニーニョ・セレーゾの4選手が形成した中盤は黄金のカルテットと呼ばれ、「ブラジルサッカー史上最もファンを魅了したチーム」と称されたが結果的には2次リーグ敗退している。ブラジルでは、この2次リーグのイタリア戦を「サリアの悲劇」とよんでいる。

1994 FIFAワールドカップでは決勝でも決着がつかず、PK戦の末にロベルト・バッジョらを擁するイタリアに3-2で勝利し4度目の優勝を飾った。1998 FIFAワールドカップでも2大会連続で決勝に進出したが、ジネディーヌ・ジダンらを擁する開催国のフランスの前に0-3で敗れ、連覇はならなかった。

21世紀

2002年日韓大会南米予選で苦戦し、本大会出場すら危ないほどだった。それを引きずるかのように本大会初戦のトルコ戦でも先制点を許してしまうが、何とか2-1で逆転勝ちした。しかしその後はロナウドリバウドロナウジーニョら攻撃陣が機能し、全勝で決勝まで勝ち上がった。決勝の相手はそれまでワールドカップで対戦したことのなかったもうひとつのサッカー大国、オリバー・カーンらを擁するドイツだった。これをロナウドの2ゴールにより2-0で制し、ワールドカップ最多優勝記録を5に伸ばした。

2006年ドイツ大会では、前回大会とは対照的に南米予選を1位で通過した。黄金のカルテットになぞらえて「カルテット・マジコ」(魔法の4人組)と呼ばれたロナウド、ロナウジーニョ、カカアドリアーノの4人による前線を擁し、優勝候補の大本命とみなされていた。特にロナウジーニョへの期待が高く、「この大会はロナウジーニョの大会になるだろう」との声もあった。だが、準々決勝で8年前のフランス大会の決勝で敗れたフランスと当たり、0-1で落とし連覇及び当時史上初となった4大会連続ベスト4を逃した。

2010年南アフリカ大会南米予選では、開始早々から好調を維持していた。2009年9月5日、敵地での対アルゼンチン戦を3-1で勝利し、3試合を残しながら南米勢のトップを切って本大会出場が決定した。これで第1回(1930年ウルグアイ大会)からの連続本大会出場記録が「19」に伸びた[注釈 7]。本大会では順当に勝ち上がるが、準々決勝でオランダと対戦し1-2で逆転負けを喫した。翌年のコパ・アメリカ2011では3連覇を狙ったものの、準々決勝でパラグアイと対戦して押し込みながらもゴールを奪えず、PK戦の末に敗れた。

2014年大会は、開催国として予選免除での本大会出場、丁度20度目の出場となった。エースのネイマールを中心にチームは勝ち進んだものの、ベスト4を争った準々決勝のコロンビア戦では2-1で勝利を収めながらチームの核であるネイマールがコロンビアのフアン・スニガと衝突した際に腰椎を負傷し、それ以後の試合は絶望となった。またキャプテンでセンターバックのチアゴ・シウバもイエローカードを貰い、次戦累積により出場停止となった。決勝進出を賭けた準決勝のドイツ戦では、前半に5失点を喫するなど1-7と歴史的大敗を喫した。これは、3大会ぶりの決勝進出を逃しただけでなくワールドカップの決勝トーナメント史上初の7失点という記録も残した。この敗戦は「マラカナンの悲劇」にちなんで「ミネイロンの惨劇[3]ベロオリゾンテの惨劇など)」(Mineiraço)と呼ばれている。前回大会の準々決勝で敗れたオランダとの3位決定戦でも0-3で敗れ、2010年大会の雪辱を果たせず10大会ぶり2度目の4位に終わった。南米大陸開催のFIFAワールドカップで、開催国が3位以内に進出できなかった初の例となった。なお、11得点に対し14失点(出場した大会中、ワースト記録)と1966年イングランド大会以来11大会ぶりに失点数が得点数を上回った。

2018年ロシア大会南米予選ではネイマールの不在により、序盤6試合は2勝しかできず予選敗退ゾーンの6位まで転落したが、その後は一気に9連勝し、ワールドカップ地区予選通過第1号で本大会出場を決めると同時に連続本大会出場記録が「21」に伸びた。本大会ではグループEに入り、初戦のスイス戦では1-1のドローとなったが、2戦目のコスタリカ戦では後半のアディショナルタイムにコウチーニョ、ネイマールがゴールを決め2-0で勝利を収めた。3戦目のセルビア戦でも2-0、迎えた決勝トーナメント1回戦のメキシコ戦でも2-0で勝利した。しかし、準々決勝のベルギー戦では前半の13分にフェルナンジーニョのオウンゴールで先制を許すと、31分にもケヴィン・デ・ブライネに追加点を奪われる。後半の31分にレナト・アウグストのゴールで1点を返したが、1-2で敗れベスト8で敗退となった。

2022年カタール大会南米予選の第6節アルゼンチン戦でアルゼンチンの選手がブラジルの新型コロナウイルス感染拡大対策ルールに違反している可能性があるとして試合開始直後に中止となるトラブルに見舞われたが[4]、無敗で1位通過し22回連続出場を果たした。FIFAランキング1位で迎えた本大会ではグループGに組み分けされ、初戦のセルビア戦を後半にリシャルリソンの2得点により2-0で勝利するも[5]、今大会が最後のW杯と話していたネイマールが試合中に足首を負傷してしまいグループステージの残りの試合を欠場することになった[6]。2戦目のスイス戦は83分にカゼミーロのゴールで1-0で勝利し、2連勝で決勝トーナメント進出を決めた[7]。グループリーグ3連勝を賭けて挑んだ第3戦のカメルーン戦は終始攻め続けたが得点を挙げることはできず、逆に後半アディショナルタイムにヴァンサン・アブバカルに先制ゴールを奪われてそのまま0-1で敗れ、24年ぶりにグループリーグで敗戦を喫したが1位で通過した[8]。決勝トーナメント1回戦ではネイマールが復帰し韓国を相手に4-1で快勝[9]。準々決勝クロアチア戦では延長前半にネイマールがペレの持つブラジル代表最多得点記録(77得点)に並ぶゴールで先制するも延長後半にブルーノ・ペトコヴィッチのゴールにより同点とされ、PK戦では4人連続で成功させたクロアチアに対しブラジルは1番手のロドリゴのシュートがドミニク・リヴァコヴィッチに止められると、最後は4番手のマルキーニョスのシュートがゴール左ポストにはじかれたところで試合終了。2大会連続のベスト8敗退となった[10][11]。試合後、2016年に就任して以降の6年間で81試合61勝を挙げていたチッチ監督が退任を表明した[12]

A代表の成績

FIFAワールドカップ

開催国 / 年成績
1930グループリーグ敗退210152
19341回戦敗退100113
19383位53111411
1950準優勝6411226
1954ベスト8311185
1958優勝6510164
1962優勝6510145
1966グループリーグ敗退310246
1970優勝6600197
19744位732264
19783位7430103
19822次リーグ敗退5401156
1986ベスト85410101
1990ベスト16430142
1994優勝7520113
1998準優勝74121410
2002優勝7700184
2006ベスト85401102
2010ベスト8531194
20144位73221114
2018ベスト8531183
2022ベスト8531183
合計 出場22回/優勝5回114761919237108

コパ・アメリカ

  • 1916 - 3位
  • 1917 - 3位
  • 1919 - 優勝
  • 1920 - 3位
  • 1921 - 準優勝
  • 1922 - 優勝
  • 1923 - 4位
  • 1924 - 参加取り消し
  • 1925 - 準優勝
  • 1926 - 参加取り消し
  • 1927 - 参加取り消し
  • 1929 - 参加取り消し
  • 1935 - 参加取り消し
  • 1937 - 準優勝
  • 1939 - 参加取り消し
  • 1941 - 参加取り消し
  • 1942 - 3位
  • 1945 - 準優勝
  • 1946 - 準優勝
  • 1947 - 参加取り消し
  • 1949 - 優勝
  • 1953 - 準優勝
  • 1955 - 参加取り消し
  • 1956 - 4位
  • 1957 - 準優勝
  • 1959 - 準優勝
  • 1959 - 3位
  • 1963 - 4位

FIFAコンフェデレーションズカップ

開催国 / 年成績備考
1992不参加コパ・アメリカ1991は準優勝
1995不参加コパ・アメリカ1993はベスト8
1997優勝5410142前回のワールドカップ優勝国枠で出場
1999準優勝5401186コパ・アメリカ1997優勝
20014位512233コパ・アメリカ1999優勝
2003グループリーグ敗退311133前回のワールドカップ優勝国枠で出場
2005優勝5311126前回のワールドカップ優勝国枠で出場
コパ・アメリカ2004も優勝)
20095500145コパ・アメリカ2007優勝
20135500143翌年のワールドカップ開催国
2017不参加
合計出場7回/優勝4回3323557828

世代別の成績

オリンピック

開催年結果試合勝利引分敗戦得点失点
1900不参加
1904
1908
1912
1920
1924予選敗退
1928不参加
1936
1948
1952ベスト8320196
1956予選敗退
1960グループリーグ敗退3201106
1964311152
1968302145
1972301246
19764位521266
1980予選敗退
1984準優勝641195
19886411124
合計8/2032157105940

FIFA U-20ワールドカップ

開催年結果試合勝利引分敗戦得点失点
19773位5320133
1979予選敗退
1981ベスト8421174
1983優勝6510134
19856600141
1987ベスト8420263
19893位6501132
1991準優勝6420144
1993優勝6510112
1995準優勝6411113
1997ベスト85401255
19995302135
20015401152
2003優勝7511146
20053位751193
2007ベスト16410369
2009準優勝7520143
2011優勝7520185
2013予選敗退
2015準優勝7421155
合計18/2010372181623169

南米ユース選手権

開催年結果試合勝利引分敗戦得点失点
1954準優勝6330145
19583位5221106
1964不参加
1967ベスト4530275
1971グループリーグ敗退420273
1974優勝6510183
1975グループリーグ敗退510467
1977準優勝6510132
19794位721457
1981準優勝6321135
1983優勝7610163
19857610113
1987準優勝6321114
1988優勝7511142
19917430155
1992651070
19956501174
1997準優勝96212610
19993位94322210
2001優勝9621216
2003準優勝9711235
20059522189
2007優勝9630209
20099612179
20119711247
2013グループリーグ敗退411246
20154位9513139
合計26/271721073332338135

FIFA U-17ワールドカップ

開催年結果試合勝利引分敗戦得点失点
19853位6402138
1987グループリーグ敗退302101
1989ベスト8421153
1991430182
1993予選敗退
1995準優勝640263
1997優勝6600212
1999624084
2001ベスト84301114
2003優勝6510151
2005準優勝64021611
2007ベスト164112144
2009グループリーグ敗退310234
20114位74121512
2013ベスト85410194
2015530255
合計15/167546111815968

南米U-17選手権

開催年結果試合勝利引分敗戦得点失点
1985準優勝8701324
1986準優勝716065
1988優勝7610141
19917502186
19934位7421139
1995優勝7601194
19977520207
19996510176
20017430185
2003準優勝7511154
2005優勝75112711
200796122911
20095311124
201197112211
20133位9540146
2015優勝95131814
合計16/16118792514294108

歴代記録

出場数ランキング

2023年10月18日時点

  水色は現役代表選手
順位名前試合数ポジション期間
1カフー143DF1990-2006
2ネイマール128FW2010-
3ダニエウ・アウヴェス126DF2006-
4ロベルト・カルロス125DF1992-2006
5チアゴ・シウバ113DF2008-
6ルシオ105DF2000-2011
7クラウディオ・タファレル101GK1987-1998
8ロビーニョ100FW2003-2017
9ロナウド981994-2011
ジャウマ・サントスDF1952-1968
11ロナウジーニョ97FW1999-2013
12ジウマール94GK1953-1969
13ジウベルト・シウバ93MF2001-2010
14ペレ92FW1957-1971
ロベルト・リベリーノ1965-1978
カカMF2002-2016
17ドゥンガ911987-1998
ジーダGK1995-2006
19ジュリオ・セザル872004-2014
20ゼ・ロベルト84MF1995-2006

得点数ランキング

2023年10月18日時点

  水色は現役代表選手
順位名前得点数試合数ポジション期間
1ネイマール79128FW2010-
2ペレ7792FW1957-1971
3ロナウド62981994-2011
4ロマーリオ55701987-2005
5ジーコ4871MF1976-1986
6ベベット3975FW1985-1998
7リヴァウド3474MF1993-2003
8ロナウジーニョ3397FW1999-2013
ジャイルジーニョ81MF1964-1982
10アデミール3239FW1945-1953
トスタン541966-1972
12ジジーニョ3053MF1942-1957
13カレカ2960FW1982-1993
カカ92MF2002-2016
15ロビーニョ28100FW2003-2017
ルイス・ファビアーノ452003-2013
17アドリアーノ27482000-2010
18リヴェリーノ2692MF1965-1978
19ソクラテス22601979-1986
ペペ2241FW1955-1965

歴代選手

W杯の登録メンバー

主な代表選手

GK

DF

MF

FW

歴代監督

  水色はワールドカップ優勝監督
名前期間備考
アデマール・ピメンタ1936年 - 1938年1期目
アデマール・ピメンタ1942年2期目
フラビオ・コスタ1944年 - 1950年1期目
ゼゼ・モレイラ1952年1期目
アイモレ・モレイラ1953年1期目
ゼゼ・モレイラ1954年 - 1955年2期目
フラビオ・コスタ1955年2期目
ビセンテ・フェオラ1955年1期目
オスワルド・ブランダン1955年 - 1956年1期目
フラビオ・コスタ1956年3期目
テテ1956年
シルビオ・ピリロ1957年
ペドリーニョ1957年
オスワルド・ブランダン1957年2期目
ビセンテ・フェオラ1958年 - 1960年1期目
アイモレ・モレイラ1961年 - 1963年2期目
ビセンテ・フェオラ1964年 - 1966年2期目
ドリバル・ユストリッチ1968年
ジョアン・サルダーニャ1969年 - 1970年
マリオ・ザガロ1970年 - 1974年1期目
オスワルド・ブランダン1975年 - 1977年3期目
クラウディオ・コウティーニョ1977年 - 1980年
テレ・サンタナ1980年 - 1982年1期目
カルロス・アルベルト・パレイラ1983年1期目
エドゥ・アントゥネス・コインブラ1983年 - 1984年
エバリスト・デ・マセド1984年 - 1985年
テレ・サンターナ1985年 - 1986年2期目
カルロス・アルベルト・シルバ1987年 - 1988年
セバスティアン・ラザローニ1989年 - 1990年
パウロ・ロベルト・ファルカン1991年
カルロス・アルベルト・パレイラ1991年 - 1994年2期目
マリオ・ザガロ1995年 - 1998年2期目
ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ1998年 - 2000年
エメルソン・レオン2000年 - 2001年
ルイス・フェリペ・スコラーリ2001年 - 2002年1期目
マリオ・ザガロ2002年3期目
カルロス・アルベルト・パレイラ2003年 - 2006年3期目
ドゥンガ2006年 - 2010年
マノ・メネーゼス2010年 - 2012年
ルイス・フェリペ・スコラーリ2012年 - 2014年2期目
ドゥンガ2014年 - 2016年2期目
チッチ2016年 - 2022年
ラモン・メネゼス2023年
フェルナンド・ジニス英語版2023年 -

エピソード

SENNA ACELERAMOS JUNTOS.=セナと一緒に加速した。(F1ドライバーになぞらえて大会を走破した事を加速と表現)

TETRA E NOSSO!=(優勝)4度目は我々のもの!

と書かれた横断幕を選手たちの手で掲げ、4度目の優勝を捧げた。

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク