ハンク・アーロン

アメリカのプロ野球選手 (1934 - 2021)

ヘンリー・ルイス・アーロンHenry Louis Aaron1934年2月5日 - 2021年1月22日)は、アメリカ合衆国アラバマ州モービル出身の元プロ野球選手外野手)。愛称は「ハマーHammer)」。

ハンク・アーロン
Hank Aaron
アトランタ・ブレーブス時代(1974年)
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地アラバマ州モービル
生年月日 (1934-02-05) 1934年2月5日
没年月日 (2021-01-22) 2021年1月22日(86歳没)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手一塁手
プロ入り1952年
初出場1954年4月13日
最終出場1976年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年1982年
得票率97.8%
選出方法BBWAA選出

通算本塁打755本は、ベーブ・ルースを超え、2007年バリー・ボンズに抜かれるまで33年間MLB歴代1位だった。ベジタリアンとしても有名である。

経歴

プロ入り前

子供時代は近くに野球チームが無く、道具もソーダの栓やぼろ布、ブリキの蓋などを使い、野球のまねごとをしていた。ジャッキー・ロビンソンの所属したブルックリン・ドジャースが2軍のチームと試合をするためにモービルを訪れた時、幼いアーロンは野球や人生について話すのを聞いた[1]。弟のトミー・アーロンも後にメジャーリーガーとなったが[2]、ハンクが殿堂入りした2年後(1984年)に白血病により亡くなっている。

ブレーブス時代

青年期(1960年)
アーロンのブレーブス在籍時の背番号「44」。
アトランタ・ブレーブスの永久欠番1977年指定。

エド・スコットの仲介でニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズに入団して、最初は遊撃手として力をつけ、ルーキー・イヤーの1952年に早速ボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)のスカウトの目にとまり、契約を結ぶ。1年目は傘下のオークレア・ベアーズ英語版で活躍し、ノーザンリーグ新人王を獲得。この時期に少年時代からのスタイルであったバットのクロスハンド(右打者の場合、構えたとき左手が右手より上になるバットのグリップ)を改善する[3]

1954年、前年にボストンからミルウォーキーフランチャイズを移転し、チーム名もミルウォーキー・ブレーブスとしての2年目、ニューヨーク・ジャイアンツから移籍し左翼手のレギュラーと目されていたボビー・トムソン1951年のナショナルリーグ優勝決定プレイオフ最終戦でサヨナラ3ランを放った選手)が、春季キャンプの練習試合で2塁へのスライディングの際に足首を骨折するアクシデントが発生。翌日の試合で左翼手で先発出場したアーロンは、本塁打を放ち、これをきっかけにメジャー契約を勝ち取った。当時は通算363勝の大エースウォーレン・スパーンや通算512本塁打の主砲エディ・マシューズを擁したチームだった。

1957年にはフレッド・ヘイニー監督に率いられ、ボストンマラソントレーニングのような地獄のキャンプを経て、「ミルウォーキーの奇跡」と呼ばれるナショナルリーグ優勝、ワールドシリーズ制覇を果たす。9月23日ミルウォーキーでのカージナルス戦、スコア2対2で迎えた延長11回裏、一死でジョニー・ローガンを一塁に置き、午後11時34分にアーロンはビリー・マフェットのカーブボールを叩くと、打球は中堅手のウォーリー・ムーンの頭上を越え、ミルウォーキー・カウンティ・スタジアムの中堅後方にある「ペリニの森」に飛んでいくサヨナラ2点本塁打となり、チームは8連勝してリーグ優勝を決めた。9月24日にはシーズン44号満塁弾(通算110号)を放ち、本塁打と打点の二冠王となり、シーズンMVPを獲得。

同年のワールドシリーズケーシー・ステンゲル監督率いる、ミッキー・マントルらを擁する強豪ニューヨーク・ヤンキースと対決。ニューヨークで対戦を開始し、ニューヨークでの第7戦までもつれこむ激戦となり、アーロンは3本塁打、7打点、11安打、22塁打、打率.393の活躍を見せ、チームはヤンキースを4勝3敗で破ってワールドチャンピオンとなり、ニューヨークでは「ド田舎が勝った」と評された。これがアーロンの唯一体験したワールドチャンピオンとなった(シリーズMVPはルー・バーデット投手)。なお、10月6日ミルウォーキーでの第4戦の4回裏、ローガン三塁、マシューズ二塁の場面、ステンゲルは「この強風ではベーブ・ルースでも本塁打を打てないだろう」とトム・スターディバント投手にアーロンと勝負させるも、アーロンは3点本塁打を放ち、ステンゲルは「奴はベーブ・ルースではなかった」とコメントしている[4]

1962年6月18日にはニューヨーク・メッツ戦で歴史上1948年の当時ニグロ・リーグのホームステッド・グレイズに所属していたルーク・イースターに次いで二人目の、そしてMLBでは史上唯一の「ポロ・グラウンズのバックスクリーンへの本塁打」を記録している(中堅スタンドへの本塁打としては史上4人目・MLB3人目にして最後の記録者である)。

その後ブレーブスは1966年アトランタに移転するが、アーロンの存在は実績に比べてさほど注目されておらず、注目されはじめたのは1970年代に入ってウィリー・メイズの本塁打数を塗り替えた頃であった。

1973年、ルースの記録に追いつくまであと1本のところでシーズンを終える。しかしこのシーズンオフは、アーロンにとって長いものとなった。ルースの記録を信奉する者や、白人のルースの記録を黒人のアーロンが破ろうとしていることに反感を抱く白人至上主義者による執拗な嫌がらせや、身の危険となる脅迫が相次いだのである。アーロンは当初、この事実を隠していたが、ある時ふとした事がきっかけでこれに触れたところ、今度は全米中からアーロンを支持する激励の手紙が届いた。「貴方への嫌がらせの手紙を処分するいい物を送りましょう」と、マッチを送ってきた白人もいた。当時アーロンは「ベーブ・ルースを忘れてほしいとは思っていない。ただ、私を覚えてもらいたいのです」と訴えている[5]

1974年4月4日シンシナティでのシンシナティ・レッズとの開幕戦の初回一死でラルフ・ガーマイク・ラムを走者に置いて、ジャック・ビリンガム投手がカウント3ボール1ストライクで投じた5球目の低めの直球をシーズン最初のスイングで叩いて714号3点本塁打を放ち、ルースの記録に並ぶ[注 1]。その4日後の月曜日、4月8日午後7時7分、本拠地アトランタ・フルトン・カウンティ・スタジアム(当時ブレーブス本拠地)での第3打席、4回二死一塁にダレル・エバンスを置いて、ロサンゼルス・ドジャースアル・ダウニング投手のカウント1ボールでの2球目の真ん中低めのスライダーを叩いたラインドライブの打球は715号2点本塁打となり、ルースの記録を破り、試合成立前ではあったが試合を一時中断してセレモニーが行われた。アーロンは「Thank God it's over.(すべてが終わりました。神様に感謝します)」とコメントした[7]。ホームランボールは左翼フェンスとスタンドの間にあったブレーブスのブルペンに飛び、リリーフ投手トム・ハウスが直接グラブでキャッチした。なお、セレモニー途中から一時的な降雨があったが、試合とアーロンの記録は成立し、ブレーブスが7対4で勝利している。

同年の秋には日米野球で来日し、読売ジャイアンツ王貞治と本塁打競争を行い、10対9でアーロンが勝っている。また王に手土産としてスパイクとグラブをプレゼントした。スパイクは王の足には大きすぎたり、グラブも右利き用(王は左利き)だったりしたが、王は喜んで受け取ったというエピソードがある。王が後にアーロンの通算本塁打記録を塗り替えた時、米メディアの多くは日本の球場の狭さや投手レベルを引き合いに出したが、アーロン自身は王の記録達成に心から敬意を表し、紳士的に祝福した。そしてフラミンゴのはく製を記念として王に贈っている。以降、王とは長い親交を持ち、1990年にはアサヒビール飲料(現・アサヒ飲料)の缶コーヒー「JO」のCMでも共演している。

ブルワーズ時代

アーロンのブルワーズ在籍時の背番号「44」。
ミルウォーキー・ブルワーズの永久欠番1976年指定。

1975年からミルウォーキー・ブルワーズに移籍して、2年間をそこで過ごして現役引退した。755号本塁打は、1976年7月20日ミルウォーキーでエンジェルスのディック・ドラゴーを打ったシーズン10号であり、グラウンド・クルーのディック・アーンドがキャッチ[8]。本塁打数755本はMLB歴代2位(右打者では1位)。また通算安打数も3771本で、引退した当時はタイ・カッブに次ぐ記録であった。現在もナショナル・リーグのみの成績で言えば通算安打はピート・ローズの4256本に次ぐ第2位である。

引退後

引退後はブレーブスの球団副会長などを歴任し、ほかにも王と共に世界少年野球大会を提唱、後進の育成や野球の普及、発展に努めた。2006年ワールド・ベースボール・クラシックの決勝において始球式を務めた。その際、日本代表監督を務めていた王と肩を寄せ軽い談笑をしているシーンが放送された。ちなみに王は「尊敬する野球選手は?」という問いには必ずアーロンの名を入れている。

1982年アメリカ野球殿堂入り。アーロンの背番号44』は1976年の現役引退とともにブルワーズで、また長く在籍したブレーブスでも引退の翌1977年にそれぞれ永久欠番に指定されている。また、野手として初めてMLBの2チームでの永久欠番表彰者となった。

ブレーブス入団当初の背番号は5であったが、怪我をしたことによりアーロンが2桁の数字の背番号を希望し、1955年から44となった。1955年にアーロンはニューヨークのポロ・グラウンズの2階席の外壁まで打球を飛ばし、ニューヨークのある新聞が「Hammerin'Hank(ハマリング・ハンク、和訳では『ぶっ叩きのハンク』)」と評し、ハマリングにふさわしく強打を打つ[スラッガーとなっていった。アーロンは「フォーティフォーはベルが鳴ってるような響きがあり、ゾロ目であり、好き」とコメント。シーズン本塁打44本を4回記録。

晩年期(2016年)

2007年8月7日、バリー・ボンズが通算756本の本塁打を放ちアーロンの通算本塁打記録を抜いたが、薬物疑惑もあるボンズの式典に出席しないと表明していた。ボンズの記録達成時にはVTRでコメントを球場に流している。アーロンは「ボンズという名前の綴りすら知らないよ」と吐き捨てるほどボンズに対する嫌悪感を露わにしていた。

2009年8月7日、共同通信によると、2003年に匿名で行われたドーピング検査の陽性反応を示した選手のリストを公表すべきだとAP通信のインタビューに答えている。アーロンは「私は長年野球をしていたから、シーズン70本以上の本塁打を放つのは無理ということが分かる」と述べており、薬物疑惑のある選手の記録にはアスタリスクを付けるべきだとしている。

2014年2月14日の早朝、極寒のアトランタで氷で滑って転び、部分的な人工左股関節置換手術を受けた[9]

2015年11月、旭日小綬章受章[10]

2021年1月5日、アトランタのモアハウス医科大学で、米国のアフリカ系アメリカ人を代表する著名人の一人として、安全性を訴える目的のために新型コロナウイルス感染症ワクチン接種を受けた[11]

2021年1月22日午前、死去。86歳没[12]。数日後、ジョージア州フルトン郡検視局が死因は自然死であると発表した[13]

選手としての特徴

本塁打数が注目されるが、1960年から1968年まで盗塁数は2桁を数え、特に1963年には30-30(打率3割も記録しているため、トリプルスリーでもある)を達成するなど、俊足と盗塁術も持ち合わせていた。アーロンは自分自身をホームランバッターでなく万能の選手ととらえ、他の人たちにもそう思ってほしいとコメントしている[14]。また、自身のバッティングスタイルを、自分の打撃動作の錬磨に重点を置くテッド・ウィリアムズ型ではなく、相手投手の配球(球種・コース)の解析に重点を置くスタン・ミュージアル型であると評価している[15]

前述の通り通算3771安打の成績が示しているように安打製造機としても優れ、20年連続100安打以上を記録した。この記録はアーロンとタイ・カッブの他、ピート・ローズカール・ヤストレムスキージョージ・ブレットエディ・マレーエイドリアン・ベルトレといった選手達が達成している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1954MLN
ATL
122509468581312761320969226428-33913.280.322.447.769
195515366560210518937927325106317449536120.314.366.540.906
195615366060910620034142634092245737625421.328.365.558.923
1957151675615118198276443691321103571505813.322.378.600.978
195815366460110919634430328954103591614921.326.386.546.931
1959154693629116223467394001238009511745419.355.401.6361.037
196015366459010217220114033412616701260132638.292.352.566.919
196115567160311519739103435812021919562026416.327.381.594.974
19621566675921271912864536612815706661437314.323.390.6181.008
19631617146311212012944437013031505781809411.319.391.586.977
196414563457010318730224293952240262904622.328.393.514.907
1965150639570109181401323198924408601018115.318.379.560.938
19661586886031171682314432512721308761519614.279.356.539.895
19671556696001131843733934410917606631909711.307.369.573.943
196816067660684174334293028628505642316221.287.354.498.852
1969147639547100164303443329791003871924714.300.396.6071.003
1970150598516103154261382961189006741526313.298.385.574.958
19711395734959516222347331118110571212589.327.410.6691.079
19721295454497511910034231774002921515517.265.390.514.904
1973120465392841181214025296110468131517.301.402.6431.045
19741123823404791160201676910123960296.268.341.491.832
1975MIL137543465451091621216560011670315115.234.332.355.687
197685308271226280101003501023510388.229.315.369.684
MLB:23年3298139411236421743771624987556856229724073211211402*293321383328.305.374.555.928
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高
  • MLN(ミルウォーキー・ブレーブス)は、1966年からATL(アトランタ・ブレーブス)に球団名を変更

年度別守備成績

内野守備


一塁(1B)二塁(2B)三塁(3B)




































1955MLN
ATL
-278684623.966-
1959--5210001.000
1960-210001.000-
1961--222001.000
1962110001.000--
1964-11141512.967-
1966-20000-----
1967-110001.000-
19681488728.979--
19694322031.000--
19701173416.987--
19717162938356.996--
1972109968661479.987--
MLB210179111720152.9904310299725.9667412001.000
外野守備


左翼(LF)中堅(CF)右翼(RF)




































1954MLN
ATL
105191360.970-1114211.941
19553046110.979-104200882.963
1956--15231517134.962
1957-69178330.98484165630.983
1958-3979030.9631192261120.992
1959-13281011.0001442401152.980
1960-5120001.0001503131366.982
1961-83211240.982781691132.984
1962-83210550.97771130621.986
1963--1612661151.982
1964--1392531456.982
1965--148293942.987
1966-530001.0001583111145.988
1967-11201011.0001422961172.978
1968--1513251332.991
1969--1442511153.981
1970--125225661.975
1971--60105220.982
1972--1528430.914
197387170340.977-1836210.974
197489140320.986--
1975MIL320001.000--
1976110001.000--
MLB31555010130.97730874112152.980217441611798840.980

タイトル

表彰

記録

背番号

脚注

注釈

出典

参考文献

  • ハンク・アーロン『ハンク・アーロン自伝 I had a hammer.』講談社、1993年。ISBN 4-06-206365-4 
  • パット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社、1998年。ISBN 978-4022572370 

関連項目

外部リンク