フランク・リベリー

フランスのサッカー選手

フランク・アンリ・ピエール・リベリー(Franck Henry Pierre Ribéry、フランス語発音: [fʁɑ̃k ʁi.be.ʁi], 1983年4月7日 - )は、フランスブローニュ=シュル=メール出身の元サッカー選手。元同国代表。現役時代のポジションはMFFW

フランク・リベリー
名前
本名フランク・アンリ・ピエール・リベリー
Franck Henry Pierre Ribéry[1]
愛称スカーフェイス (Scarface)
ラテン文字Franck Ribéry
基本情報
国籍フランスの旗 フランス
生年月日 (1983-04-07) 1983年4月7日(41歳)
出身地ブローニュ=シュル=メール
身長170cm
体重72kg
選手情報
ポジションMF (LMF) / FW (WG)
利き足右足
ユース
1989-1996フランスの旗 コンティ・ブローニュ
1996-1999フランスの旗 リール
1999-2000フランスの旗 ブローニュ
クラブ1
クラブ出場(得点)
2000-2002フランスの旗 ブローニュ 28 (6)
2002-2003フランスの旗 オリンピック・アレス 19 (1)
2003-2004フランスの旗 ブレスト 35 (3)
2004-2005フランスの旗 メス 20 (2)
2005トルコの旗 ガラタサライ 14 (0)
2005-2007フランスの旗 マルセイユ 60 (11)
2007-2019ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 273 (86)
2019-2021イタリアの旗 フィオレンティーナ 50 (5)
2021-2022イタリアの旗 サレルニターナ 24 (0)
通算523 (114)
代表歴
2004-2006 フランス U-2113 (2)
2006-2014フランスの旗 フランス81 (16)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クラブ経歴

フランス時代

13歳でリールの下部組織に入団し、下部組織のブルーノ・トマソン監督に高い評価を受けたが、学業成績不振により16歳の時に家に送り返された[2]。2001年に地元のUSブローニュからデビューし、2002年にはオランピック・アレスに加入するも、クラブの財政破綻によりスタッド・ブレスト29に移籍した。この頃にはEAギャンガンのトライアルを受けて不合格になった経験がある。2004年にリーグ・アン(1部)のFCメスに移籍し、月間MVPを獲得する活躍を見せたが、首脳陣と対立したために2005年1月にはガラタサライSKに移籍した。

2005年夏にオリンピック・マルセイユに移籍し、2005-06シーズンにはリーグ最優秀若手選手賞を受賞した。

バイエルン

2007年6月6日、4年契約でFCバイエルン・ミュンヘンに移籍した。通訳役を買って出たDFダニエル・ファン・ブイテンなどの助けもあり[2]、すぐにチームになじんだ。2007-08シーズンはレギュラーとしてリーグ戦で11ゴールを挙げ、ブンデスリーガDFBポカールの2冠を達成し、リーグ最優秀選手に選ばれた。

2009-10シーズンは新加入のアリエン・ロッベンとともに両サイドから攻撃を牽引し、バイエルンの2シーズンぶりのブンデスリーガ優勝に貢献した。チャンピオンズリーグでもチームの決勝進出に貢献したが、準決勝1stレグのオリンピック・リヨン戦でリサンドロ・ロペスのすねを踏みつけ1発退場となった。結局バイエルンは決勝に進んだものの、リベリーはこのファールにより3試合の出場停止が課され、決勝戦に出場することができなかった[3]。シーズン終了後、バイエルン・ミュンヘンとの契約を2015年まで延長した。

2014年12月6日に行われたバイエル・レバークーゼン戦で、マチュー・デルピエールが保持していたブンデスリーガのフランス人最多出場記録を更新した[4]。また同試合でバイエルンでの100ゴールを達成した[5]

2018-19シーズンをもって長年プレーしたバイエルン・ミュンヘンを退団する事が発表された。同シーズンに優勝し、ブンデスリーガの最多優勝記録を作ると共にホームでの最終ゲームでは惜別のゴールを決めた[6]。また、優勝したポカール決勝のRBライプツィヒ戦では後半終了間際からポカール決勝最多出場者となる8回目の出場を果たした。

フィオレンティーナ

2019年8月21日、ACFフィオレンティーナへの加入が発表された[7]。9月22日のアタランタ戦で移籍後初ゴールを決め[8]、第6節のACミラン戦でもゴールを決め、チームの勝利に貢献し、2019年9月のセリエA月間MVPに選出された[9]。しかし11月30日セリエA第14節レッチェ戦で悪質なタックルを受け右足首のじん帯を負傷、長期離脱したが、2020年6月23日のブレシア戦で復帰を果たした[10]。2020-21シーズン、鋭いドリブルからのチャンスメークなどでチームに貢献、年間30試合で2ゴール7アシストを記録したが、2021年6月30日に退団が発表された[11]

サレルニターナ

2021年9月6日、USサレルニターナ1919と契約した[12]。2022年10月21日、双方の合意のもとで契約を解除し、現役引退を発表した[13]

代表経歴

フランス代表時代(2008年)

ユース代表の経験は豊富で、2006年5月27日のメキシコ戦でフランス代表デビューした。2006年にはドイツワールドカップフランス代表メンバーに選ばれ、グループリーグでは周りと噛み合わない場面もあったものの、決勝トーナメント1回戦のスペイン戦では、逆転への足掛かりとなる同点ゴールを決めるなど、徐々に調子を上げ、フランス代表の準優勝に貢献した。

UEFA EURO 2008では不振のフランス代表にあって、中心選手として孤軍奮闘したが、フランスの決勝トーナメント進出を賭けたグループリーグ最終戦の対イタリア戦の前半9分にジャンルカ・ザンブロッタと接触した際に、負傷退場した。その後のフランスは攻撃の要であったリベリーの穴を埋めることができず、エリック・アビダルの退場処分によって人数が少なくなったこともあり、なすすべなく敗北した。フランスはわずか1得点しか挙げられず、1勝もできずに大会を去ることとなった。

2010 FIFAワールドカップではチームの中心選手として臨んだものの、主将のパトリス・エヴラらとともに練習ボイコットの首謀者とされたり[14]チームメイトのヨアン・グルキュフをいじめたと報じられるなど[14][15]、不振に終わったフランス代表の戦犯の1人とされ、大会終了後にはフランスサッカー連盟から3試合の出場停止処分が課された[16]。その後2011年3月に、エヴラとともにW杯後初めて代表に招集されたが[16]、復帰後最初のホームでの試合となった3月29日のクロアチア戦ではサポーターから大きなブーイングを受けた[14]2014 FIFAワールドカップは、腰痛のため欠場した。

人物

  • ドーバー海峡に面した港町ブローニュ=シュル=メールで最も貧しいとされるシュマン・ヴェール地域生まれ。2歳の時に父親の運転する車で事故に遭い、路上に投げ出されたという経験を持つ。この時に額から右頬にかけてできた傷は今も深く残っている[17][18]。整形外科技術の向上により縫合痕を消す事も可能だが本人は「(父との絆の証であり)慣れ親しんでいる」として整形の意思は無い。オランピック・アレスを離れ、スタッド・ブレスト29に加わるまでの間に建設作業員である父と現場で働いていた[19][20]。2005年にムスリムの夫人と結婚し、自身もイスラム教に改宗している[21][22]。その夫人とは1男2女を儲けている。優勝セレモニー時などにおけるシャンパンファイトでは宗派上アルコール厳禁なために、チームメイトのダヴィド・アラバがリベリーに浴びせようと追うも、顔を強張らせ全速力で逃げる様子が撮られている。
  • 陽気で外交的な性格であり、ドイツ移住後もすぐにチームやファンに溶け込んだ。いたずら好きであり、オリバー・カーンにバケツ一杯の水をかけたり、チームバスを運転して道路標識にぶつけたことがある。
  • 2014年6月、アメリカの経済誌フォーブス世界のアスリートの年収を公表した。リベリーの年収は1830万ドル(約18億7000万円)であり、世界のアスリートの中で92位。サッカー選手の中では14位[24]
  • 2020年7月6日、自宅が空き巣被害に遭ったと報じられた[25][26]

個人成績

クラブ

クラブリーグシーズンリーグ戦カップ戦UEFAその他合計
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
ブローニュCFA2000-014100--41
ナショナル2001-0224510--255
クラブ通算28610--296
アレスナショナル2002-0319100--191
クラブ通算19100--191
ブレスト29ナショナル2003-0435321--374
クラブ通算35321--374
FCメスリーグ・アン2004-0520220--221
クラブ通算20220--222
ガラタサライスュペル・リグ2004-0514031--171
クラブ通算14031--171
マルセイユリーグ・アン2005-06356101235[a]35312
2006-07255104071376
クラブ通算6011201631249018
バイエルンブンデスリーガ2007-082811521132[b]34619
2008-092593184-3614
2009-101944271-307
2010-112573242003211
2011-12321242143-5017
2012-132710301211[c]04311
2013-1422104111[d]4[e]2[f]13916
2014-15155216300239
2015-16132207000222
2016-1722530601[c]0325
2017-1820551801[c]0346
2018-1925650711[c]0387
クラブ通算2738643121012284425124
フィオレンティーナセリエA2019-2021300--213
2020-2129210--302
クラブ通算50510--515
サレルニターナセリエA2021-2223000--230
2022-231010--20
クラブ通算24010--250
キャリア総通算523114551411725208715161

代表での成績


フランス代表国際Aマッチ
出場得点
2006151
200791
200893
200982
201070
201180
2012144
2013105
201410
通算8116

代表での得点

#開催日開催都市・スタジアム対戦国スコア結果試合概要
12006年6月27日 ハノーファーAWDアレーナ スペイン1–13–1ドイツW杯
22007年6月2日 サン=ドニスタッド・ド・フランス ウクライナ1–02–0EURO 2008予選
32008年3月26日 イングランド1–01–0親善試合
42008年6月3日 コロンビア1–01–0
52008年10月11日 コンスタンツァ・スタディオヌル・ファルル ルーマニア1–22–2南アフリカW杯予選
62009年3月28日 カウナス・ダリウス・アンド・ギレナス・スタジアム リトアニア1–01–0
72009年4月1日 サン=ドニ・スタッド・ド・フランス1–01–0
82012年5月27日 ヴァランシエンヌスタッド・ドゥ・エノー アイスランド2–23–2親善試合
92012年5月31日 ランススタッド・オーギュスト=ドローヌ セルビア1–02–0
102012年6月5日 ル・マンMMアレナ エストニア1–04–0
112012年9月11日 サン=ドニ・スタッド・ド・フランス ベラルーシ3–13–1ブラジルW杯予選
122013年3月22日 グルジア3–03–1
132013年9月10日 ホメリ・スタディオン・セントラリィ・ホメリ ベラルーシ1–14–2
142–2
152013年10月11日 パリパルク・デ・プランス オーストラリア1–06–0親善試合
162013年10月15日 サン=ドニ・スタッド・ド・フランス フィンランド1–03–0ブラジルW杯予選

タイトル

クラブ

ガラタサライ
  • トルコ・カップ:1回 (2004-05)
マルセイユ
バイエルン・ミュンヘン

個人

  • フランス年間最優秀選手:2回 (2007, 2008)
  • ドイツ年間最優秀選手:1回 (2008)
  • UEFA年間ベストイレヴン:1回 (2008)
  • UEFA欧州最優秀選手賞:1回 (2013)
  • FIFAクラブワールドカップ ゴールデンボール賞:1回 (2013)
  • セリエA月間最優秀選手賞 :(2019年9月)

脚注

出典

外部リンク