ルイス・フィーゴ

ポルトガルのサッカー選手 (1972 - )

ルイス・フィーゴことルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴLuís Filipe Madeira Caeiro Figo[luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru figu]1972年11月4日 - )は、ポルトガルリスボン出身の元サッカー選手。元同国代表。現役時代のポジションはMF[2][4]攻撃的MF右サイドMFを主戦場としていた[5][3]。原語の発音により忠実な発音は「ルイーシュ・フィリーぺ・マデイラ・カエイロ・フィーグ」。

ルイス・フィーゴ
2017年のフィーゴ
名前
本名ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ
Luís Filipe Madeira Caeiro Figo
愛称フィーゴ、白豹
ラテン文字Luís Figo
基本情報
国籍ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1972-11-04) 1972年11月4日(51歳)
出身地リスボン
身長180cm[1]
体重75kg
選手情報
ポジションMFAMFRSMF[2][3]
利き足右足
ユース
1984-1989ポルトガルの旗 スポルティングCP
クラブ1
クラブ出場(得点)
1989-1995ポルトガルの旗 スポルティングCP 137 (16)
1995-2000スペインの旗 FCバルセロナ 172 (30)
2000-2005スペインの旗 レアル・マドリード 164 (38)
2005-2009イタリアの旗 インテル・ミラノ 105 (9)
通算570 (93)
代表歴
1988-1989 ポルトガル U-1615 (8)
1989 ポルトガル U-176 (2)
1988-1990 ポルトガル U-1821 (8)
1990-1991 ポルトガル U-2012 (0)
1991-1994 ポルトガル U-217 (0)
1991-2006ポルトガルの旗 ポルトガル127 (32)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フィーゴはポルトガル代表として127試合に出場するなど、黄金世代の中心選手として長らく代表を支えた[5]。その創造性とドリブル技術の高さから、1990年代で最も偉大な選手の一人とも評されている[6][7]リーガ・エスパニョーラでは通算106アシストを記録しており、これはリオネル・メッシに次ぐ歴代二位の記録である[8]。2000年にはバロンドールを受賞し、翌年の2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した。2004年にはペレが作成した偉大な100人のサッカー選手のリスト、FIFA 100にも選出されている[9]。フィーゴは、スペインにおけるライバルチームとして知られるFCバルセロナレアル・マドリードの双方でプレーした選手の一人でもある。2000年に6000万ユーロでバルセロナからレアル・マドリードに移籍した際は、大きな物議となった[10]

経歴

幼少期

1972年11月4日、父アントニオ・カエイロ・フィーゴと母マリア・ジョアナ・ペスターナ・マデイラの一人息子として生まれる。幼少期は、アルマダの労働者階級の地区コヴァ・ダ・ピエダーデ英語版で育った。

スポルティングCP

チャリティマッチでプレイするフィーゴ(2014年)

フィーゴはストリートでサッカーを始め、11歳の時、ポルトガルのスポルティングCPの下部組織に入団した。あまりの学業の優秀さから、入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」という内容が含まれていた[11]。1989年からトップチームに昇格し、1994年にはプリメイラ・リーガ最優秀選手、1995年にはポルトガル最優秀選手に選出された。

バルセロナ

1995年にユヴェントスFCパルマFCが獲得に興味を示した。ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった[12]。そのためユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定の結果、フィーゴはその後2年間の間イタリアのクラブと契約を締結する事を禁止された。この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドでスペインFCバルセロナへ移籍。契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。パトリック・クライファートリバウドと共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、ドリーム・チーム以降のバルセロナのシンボルとして支持を得た[5]2000年には、欧州年間最優秀選手を受賞した[5]

禁断の移籍

2000年7月、フィーゴはバルセロナのライバルチームであるレアル・マドリードに、6000万ユーロの金額で電撃移籍を果たした[13]。この「禁断の移籍」は、激怒したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという騒動にまで発展した[14]。そのため引退した現在もなお、ペセテーロ(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタも多い。しかし、後にフィーゴは「バルサを去ったのは、お金のためではなく、クラブから評価を受けられなかったからだ。」と、金のための移籍ではなかったことを明かした[15][16]

2000年10月に行われたレアル・マドリードへの移籍後初のカンプ・ノウでのバルセロナとの試合では、フィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億ペセタ(移籍金)のニセ札が投げ込まれた。また、2002年11月の同スタジアムにおける試合では、フィーゴがコーナーキックを蹴ろうとした際はスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには子豚の頭まで投げ入れられた[17][18]。また、EURO2004ギリシャとの決勝戦でも、試合中にFCバルセロナの旗を持ったバルセロナ・サポーターの男性がピッチに乱入する場面もあり、いまだに過去の確執が続いている[19]

この移籍によるバルセロナとの遺恨は引退後も残っており、2015年にはチャンピオンズリーグ決勝の前日に決勝を戦う両クラブ(バルセロナとユヴェントスFC)の元所属選手が世界選抜と試合をするフレンドリーマッチにおいて、UEFAはバルセロナのレジェンドとしてフィーゴを招待したものの、バルセロナがこれを拒否しフィーゴは試合に参加しなかった[20][21]

このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、インタビューでは「バルセロナで過ごした時間は、最高に素晴らしい日々だった[22][23]」と振り返っている。その一方で、「レアル・マドリードへの移籍という判断に後悔は無い[24]」、「バルセロナでは自分が悪役であっても構わない[23]」とも語っている。

レアル・マドリード

レアル・マドリードでは、伝統的なライバル間の移籍というプレッシャーの中、ラウル・ゴンサレスロベルト・カルロス、翌2001年に加入したジネディーヌ・ジダンらと共に攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した。また、同クラブ在籍中にはリーガ通算100アシストという記録も達成した。

2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとしてトーマス・グラヴェセンが加入してからはスポルティングCP在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォーマンスを見せていたが、終盤にルシェンブルゴ監督との確執が生じ、それ以降は先発出場が激減した。

インテル・ミラノ

2005-06シーズンからはインテルへ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した[25]セリエAでもUEFAチャンピオンズリーグでも中盤の右サイドで活躍した。

2006年12月にサウジ・プレミアリーグの強豪アル・イテハドへのレンタル移籍が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は消滅した[26][27]。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、2007-08シーズンもインテルで戦うことを決定した[28]。しかし、起用法などから徐々にロベルト・マンチーニ監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、2008-09シーズンからは同胞のジョゼ・モウリーニョがインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。

同シーズン、2009年5月30日に、現役引退をインテルの公式サイトで発表した[29]。そして、5月31日アタランタ戦を最後に現役を引退した[30]

ポルトガル代表

ポルトガル代表時代のフィーゴ

1991年にはポルトガルU-20代表としてFIFAワールドユース選手権優勝に貢献[5]ルイ・コスタパウロ・ソウザフェルナンド・コウトジョアン・ピントらと共にポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション黄金の世代)」と呼ばれた[5]

1991年10月16日ルクセンブルクとの親善試合で代表デビューを飾った[31]。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ(2002 FIFAワールドカップ2006 FIFAワールドカップ)、3度の欧州選手権(EURO1996EURO2000EURO2004)に出場した[5]

2000年のEURO2000では初戦のイングランド戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝のトルコ戦ではヌーノ・ゴメスへ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。

その後、一度は代表引退を表明していたが、2006 FIFAワールドカップ予選で復帰し、ポルトガル代表は無敗で予選を通過した。本大会では、グループリーグ初戦のアンゴラ戦では得意のドリブルからアシストを見せるなど、ポルトガルの40年ぶりのベスト4進出に貢献。ドイツとの3位決定戦を最後に、代表から引退した[31]

代表での通算出場試合数は127試合、通算得点数は32得点であり、通算出場試合数の記録は2016年にクリスティアーノ・ロナウドに更新されるまでポルトガル代表の歴代最多記録だった[32][33]

引退後

引退後はインテルの幹部に就任した[34]。2015年の国際サッカー連盟FIFA会長選へ向けて、立候補を表明していた[35] が、選挙期間中に討論や演説の機会を十分に与えられなかったとして立候補を取り下げた[36]

選手としての特徴

スピードに乗った切れ味鋭いドリブルを武器とする。攻撃的ミッドフィルダーで特に右サイドを得意としている[37]

個人成績

クラブ

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点出場得点出場得点 出場得点
ポルトガルリーグ戦 リーグ杯ポルトガル杯期間通算
1990-91スポルティングCP24プリメイラ30
1991-92734170
1992-9332081
1993-9431810
1994-9534773
スペインリーグ戦 国王杯オープン杯期間通算
1995-96FCバルセロナ7プリメーラ35581
1996-9736492
1997-9835540
1998-99347101
1999-0032920
2000-01レアル・マドリード1034910
2001-0228761
2002-03331010
2003-0436883
2004-0533300
イタリアリーグ戦 イタリア杯オープン杯期間通算
2005-06インテル・ミラノ7セリエA34530
2006-0732270
2007-0817110
2008-09221--
通算ポルトガルプリメイラ13416234
スペインプリメーラ33667498
イタリアセリエA1059110
総通算575928412

代表


ポルトガル代表国際Aマッチ
出場得点
199130
199271
199350
199452
199561
199692
199772
199860
199994
2000136
200199
2002100
2003103
2004111
200570
2006101
通算[31]12732

代表でのゴール

#開催年月日開催地対戦国スコア結果試合概要
1.1992年11月11日 パリ、スタッド・ド・パリ  ブルガリア1-12-1親善試合
2.1994年10月9日 リガダウガヴァ・スタジアム  ラトビア0-31-3UEFA EURO '96予選
3.1994年11月13日 リスボン、旧エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ  オーストリア1-01-0
4.1995年6月3日 ポルト、エスタディオ・ダス・アンタス  ラトビア1-03-2
5.1996年6月19日 ノッティンガムシティ・グラウンド  クロアチア1-03-0UEFA EURO '96
6.1996年9月7日 ティラナケマル・スタファ・スタジアム  アルバニア0-10-31998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
7.1997年6月7日 ポルト、エスタディオ・ダス・アンタス2-02-0
8.1997年8月20日 セトゥーバル、エスタディオ・ド・ボンフィム  アルメニア2-03-1
9.1999年3月31日 ファドゥーツラインパーク・シュタディオン  リヒテンシュタイン0-20-5UEFA EURO 2000予選
10.1999年8月18日 リスボン、エスタディオ・ナシオナル (リスボン)  アンドラ3-04-0親善試合
11.1999年9月4日 バクートフィク・バフラモフ・スタジアム  アゼルバイジャン1-11-1UEFA EURO 2000予選
12.1999年9月8日 ブカレストスタディオヌル・ステアウア  アイルランド1-11-1
13.2000年3月29日 レイリア、エスタディオ・Drマガリャエス・ペッソア  デンマーク2-12-1親善試合
14.2000年6月2日 シャヴェス、エスタディオ・ムニシパル・デ・シャヴェス  ウェールズ1-03-0
15.2000年6月12日 アイントホーフェンフィリップス・スタディオン  イングランド1-23-2UEFA EURO 2000
16.2000年8月16日 ヴィゼウ、エスタディオ・ド・フォンテロ  リトアニア1-05-1親善試合
17.2000年9月3日 タリン、カドリオルグ・スタジアム  エストニア0-21-32002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
18.2000年11月15日 ブラガ、5月1日スタジアム  イスラエル1-02-1親善試合
19.2001年2月28日 フンシャル、エスタディオ・ドス・バレイロス  アンドラ2-03-02002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
20.3-0
21.2001年3月28日 ポルト、エスタディオ・ダス・アンタス  オランダ2-22-2
22.2001年6月2日 ダブリンランズダウン・ロード  アイルランド1-11-1
23.2001年8月15日 ファロ、エスタディオ・デ・サン・ルイス  モルドバ1-03-0親善試合
24.2-0
25.3-0
26.2001年10月6日 リスボン、エスタディオ・ダ・ルス  ブルガリア5-05-02002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
27.2001年11月14日 リスボン、旧エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ  アンゴラ1-15-1親善試合
28.2003年4月2日 ローザンヌスタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ  北マケドニア1-01-0
29.2003年10月11日 リスボン、エスタディオ・デ・レステロ  アルバニア1-05-3
30.2003年11月19日 レイリア、エスタディオ・Drマガリャエス・ペッソア  クウェート3-08-0
31.2004年5月29日 アゲダ、エスタディオ・ムニシパル・デ・アゲダ  ルクセンブルク1-03-0
32.2006年6月3日 メススタッド・ムニシパル・サン=サンフォリアン3-03-0

タイトル

脚注