サッカーイスラエル代表

イスラエルの男子サッカーナショナルチーム

サッカーイスラエル代表(サッカーイスラエルだいひょう、ヘブライ語: נבחרת ישראל בכדורגל‎、アラビア語: منتخب إسرائيل لكرة القدم‎)は、イスラエルサッカー協会(IFA)によって構成される、イスラエルサッカーナショナルチームである。

サッカーイスラエル代表
国または地域イスラエルの旗 イスラエル
協会イスラエルサッカー協会
愛称הכחולים-לבנים (The Blue and Whites)
הנבחרת (The Chosen Team)
監督イスラエルの旗 Alon Hazan
最多出場選手ヨッシ・ベナユン(101試合)
最多得点選手エラン・ザハヴィ(33得点)
ホームカラー
アウェイカラー
初の国際試合1934年3月16日エジプト
1-7
最大差勝利試合1988年3月23日チャイニーズタイペイ
9-0
最大差敗戦試合2002年2月13日ドイツ
1-7
FIFAワールドカップ
出場回数1回(初出場は1970
最高成績グループリーグ敗退 (1970)
AFCアジアカップ
出場回数4回
最高成績優勝 (1964)
UEFA欧州選手権
出場回数0回

ホームスタジアムは5つあり、ハイファにあるサミー・オフェル・スタジアムと、エルサレムにあるテディ・スタジアムと、テルアビブにあるブルームフィールド・スタジアムと、ネタニヤにあるネタニヤ・スタジアムと、ベエルシェバにあるターナー・スタジアム

歴史

20世紀

1928年に前身となる委任統治パレスチナ代表チーム英語版が結成された。このチームはユダヤ人選手で構成されており、アラブ人は参加していなかった。

1954年第2回マニラアジア大会がきっかけで、大会中の1954年5月8日に他の12か国と共にアジアサッカー連盟(AFC)を設立したが、加盟はしなかった。なお、アジアサッカー連盟(AFC)は政治的配慮から現在もなお、イスラエルをAFC創設メンバーとしては認めていない[1][2]。それから2年後の1956年にイスラエルサッカー協会はAFCへ加盟し、1970年メキシコワールドカップにはアジア代表として出場した。しかし、パレスチナ問題及び中東戦争等のイスラエル=アラブ紛争により周辺アラブ諸国との関係が悪化し、アラブ諸国やインドネシア北朝鮮中国を中心とした対戦拒否、大会参加拒否などのボイコットが激化。それにより、AFCに所属しながらも1972年からAFCアジアカップへの出場を辞退せざるを得なくなった。1973年10月6日第四次中東戦争が起こると、もはや対戦不可能な状態に陥った[3]

翌1974年のテヘランアジア大会サッカー競技にイスラエル代表は出場した。大会では1次リーグ最終戦で日本を3-0で破り、2次リーグへ進出したが、2次リーグではクウェート北朝鮮が対戦を拒否した。結果的に、イスラエル代表はこの2つの不戦勝(2試合とも2-0でイスラエル勝利の扱い)とビルマ(現ミャンマー)戦の1-0での勝利で決勝まで勝ち上がることになった。アリアメールスタジアム(現アザディ・スタジアム)に10万人の観衆を集めた決勝では開催国のイランと対戦し、30分にイランのアデルハンのシュートをイスラエルのDFシュムが自陣ゴールに蹴り込んでしまい、結局、このオウンゴールで0-1で敗れた(イランはアジア大会初優勝)[3]。結果的に、この試合がAFCとしての最後の試合となった。

まだテヘランアジア大会期間中であったが、1974年9月14日イランの首都テヘランAFC総会が開催され、イスラエルの除名が決まった[3]AFC除名以降、地域連盟未所属のまま、活動することになった。

ワールドカップ予選においては1970年、1974年、1978年にはアジア・オセアニア枠へと組み込まれたが、いずれの予選のグループはアラブ諸国と同組とならず、さらに1970年大会のアジア・オセアニア予選と1978年大会のアジア・オセアニア予選はイスラエルと北朝鮮が同組となったが、北朝鮮は予選自体を棄権した。1950年、1954年、1966年、1982年にはヨーロッパ枠へ組み込まれ、その後オセアニアサッカー連盟(OFC)の暫定メンバーとなり、1986年、1990年にオセアニア予選へ参加し、遠方への遠征を強いられることとなった。1990年大会のオセアニア予選では、オセアニア代表としてコロンビア大陸間プレーオフで対戦したが、2試合合計0-1で敗れ、オセアニア代表としての本大会出場はならなかった。このためイスラエルサッカー協会欧州サッカー連盟(UEFA)への加盟を希望していた。これが認められて1992年からUEFAに加盟している。UEFA加盟後、FIFAワールドカップUEFA欧州選手権には出場できていない。

21世紀

UEFA欧州選手権出場に最も近づいたのは2000年大会で、予選6組に入りオーストリアを抑えグループ2位となりプレーオフへ進出した。プレーオフではデンマークと対戦したが、第1戦0-5、第2戦0-3と2試合合計0-8で大敗し初出場はならなかった。

2006年のFIFAW杯予選ではグループ4に入りフランススイスなどと同組となった。最終的には、本大会に出場した1970年大会予選以来となる予選無敗(4勝6分)の成績を残しスイスと勝ち点で並んだが、直接対戦の成績でスイスが上回りグループ3位でプレーオフ進出はならなかった。尚、このグループは最終的に首位で予選突破を決めたフランスから4位のアイルランドまでが勝点差3にひしめく大混戦だった。(フランス20、スイスとイスラエル18、アイルランド17)

成績

FIFAワールドカップ

開催国 / 年成績
1950予選敗退
1954
1958アジア・アフリカ予選→大陸間プレーオフ敗退
1962欧州予選敗退
1966
1970グループリーグ敗退302113
1974アジア・オセアニア予選敗退
1978
1982欧州予選敗退
1986オセアニア予選敗退
1990オセアニア予選突破→大陸間プレーオフ敗退
1994欧州予選敗退
1998
2002
2006
2010
2014
2018
2022
合計 出場1回302113

UEFA欧州選手権

開催年結果試合勝利引分敗戦得点失点
1996予選敗退
2000
2004
2008
2012
2016
2020

オリンピック

開催年結果試合勝利引分敗戦得点失点
1952予選敗退
1956
1960
1964
1968ベスト8420297
1972予選敗退
1976ベスト8403147
1980棄権
1984予選敗退
1988
合計2/1082331314

AFCアジアカップ

開催年結果試合勝利引分敗戦得点失点
1956準優勝320165
1960320164
1964優勝330051
19683位4202115
1972不参加
合計4/15139042815

歴代監督

歴代記録

出場数ランキング

最多出場者のヨッシ・ベナユン

2019年6月10日時点[5]

  水色は現役代表選手
順位名前試合数得点数期間
1ヨッシ・ベナユン102241998-2017
2タル・ベン・ハイム9612002-
3アリク・ベナド9401995-2007
4アロン・ハラジ英語版8911992-2016
5アミル・シェラフ英語版8501992-2001
6モルデハイ・シュピーグラー83321963-1977
ニル・クリンゲル英語版21987-1997
8アヴィ・ニムニ英語版80171992-2005
9イツハク・シュム英語版78101969-1981
タル・バニン英語版121990-2003
エヤル・ベルコヴィッチ英語版91992-2004
ドゥドゥ・アワット01999-2013

得点数ランキング

最多得点者のモルデハイ・シュピーグラー

2019年6月10日時点[6]

  水色は現役代表選手
順位名前得点数試合数期間
1モルデハイ・シュピーグラー32831963-1977
2イェホシュア・フェイゲンバウム英語版24511966-1977
ヨッシ・ベナユン1021998-2017
4ローネン・ハラジ英語版23531992-1999
5ナフム・ステルマフ英語版22611956-1968
6ギディ・ダムティ英語版20691971-1981
7イェホシュア・グレイザー英語版18351949-1961
ギオラ・シュピーゲル英語版441965-1980
9エリ・オハナ英語版17511984-1997
アロン・ミズラヒ英語版371992-2001
アヴィ・ニムニ英語版801992-2005
トメル・ヘメド362011-

歴代選手

脚注

関連項目

外部リンク