ヴォルフガング・パーレン

ヴォルフガング・パーレンWolfgang Paalen1905年7月22日 - 1959年9月24日)は、オーストリアに生まれ、主にフランスメキシコアメリカ合衆国で活躍した画家彫刻家芸術哲学者。1930年代にアンドレ・ブルトンを中心とするシュルレアリスムの運動に参加。濡れたキャンバスの表面をろうそくで燻すフュマージュの技法を生み出した。第二次大戦勃発の前年にフリーダ・カーロの招きに応じてメキシコに亡命抽象表現主義の先駆けとなる芸術雑誌『DYN英語版 (ディン)』を創刊し、シュルレアリスムと決別。先住民世界観量子論に基づく芸術理論を展開し、画風も大きく変容した。

ヴォルフガング・パーレン

Wolfgang Paalen

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ヴォルフガング・パーレン(1940年頃)
(写真撮影: Eva Sulzer / 写真提供: Andreas Neufert)
本名ヴォルフガング・ローベルト・パーレン
誕生日 (1905-07-22) 1905年7月22日
出生地オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死没年1959年9月24日(1959-09-24)(54歳)
死没地メキシコの旗 メキシコタスコゲレーロ州
国籍 オーストリアメキシコの旗 メキシコ
運動・動向シュルレアリスム抽象表現主義
芸術分野絵画彫刻芸術哲学
代表作《禁じられた国》《トーテムのような風景》《ファタ・アラスカ》《関節のある雲》《自由な空間》《メキシコの祭り》
ウェブサイトWolfgang Paalen Society
影響を受けた
芸術家
ユリウス・マイヤー=グラーフェアルトゥル・ショーペンハウアーフリードリヒ・ニーチェハンス・ホフマンフェルナン・レジェ
影響を与えた
芸術家
バーネット・ニューマンジャクソン・ポロックロバート・マザウェル英語版マーク・ロスコ
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背景

1905年7月22日、ヴォルフガング・ローベルト・パーレンとしてウィーンに生まれた。

ウィーン分離派の建築家オットー・ヴァーグナーの設計によるパーレンの生家(Köstlergasse 1)の入口(写真提供:Andreas Neufert)

1873年にチェコブルノに近い小村ブゼネツドイツ語版に生まれた父グスタフ・ローベルト・パーレンドイツ語版は、真空瓶(魔法瓶)、真空掃除機などの真空装置や気流式加熱装置などを発明した大実業家で、著名な美術品蒐集家でもあった[1][2][3]。現在ベルリン国立美術館所蔵のティツィアーノルーカス・クラナッハの絵画などは、パーレン家旧所蔵の作品である[4][5]。彼はポーランドユダヤ人アシュケナジム)とスペイン系ユダヤ人(セファルディム)の血筋を引くが、ウィーンに移り住んだ後、1900年にプロテスタント改宗。同時に「ポラック」から「パーレン」に改姓した[2]ウィーン分離派建築家オットー・ヴァーグナーが設計し、1898年から99年にかけて建設された集合住宅(リンケ・ヴィーンツァイレ)に居住し、ドイツ生まれの女優のクロティルド・エミリー・グンケルと結婚。4人の息子をもうけた。ヴォルフガングは長子である[2]

教育

父グスタフはシュタイアーマルク州グラーツ=ウムゲーブング郡ドイツ語版ハーゼルスドルフ・トベルバートドイツ語版に豪勢な保養施設「トベルバート」を開設した。ここは、作曲家グスタフ・マーラー作家・画家のフリッツ・フォン・ヘルツマノヴスキィ=オルランドドイツ語版美術評論家小説家ユリウス・マイヤー=グラーフェ、イーダ・ツヴァイク(作家・評論家シュテファン・ツヴァイクの母)らの芸術家が集まる場となり、また、アルマ・マーラーはパーレンを介して建築家ヴァルター・グロピウスに出会ったとされる[2]。ヴォルフガングはこの地にしばしば滞在し、とりわけ、マイヤー=グラーフェから大きな影響を受けた[6][7]。また、この後、ショーペンハウアーニーチェの思想、ドイツ・ロマン主義マックス・ヴェルトハイマーゲシュタルト心理学インドヴェーダからも影響を受けることになる[6][8]

父グスタフがオーストリアシュタイアーマルク州に開設した保養施設トベルバート(1910年頃)

パーレン一家は1912年にベルリンに越し、次いでポーランドのジャガンルブシュ県)の古城を購入して修復し、ここに移り住んだ。ヴォルフガングは、この古城で、ある夜、とも現実ともつかない幻想的な光景を目の当たりにしたことが、後のシュルレアリスムの絵画、とりわけ、「知覚される世界と象徴的な世界が分かち難い」彼の絵画に影響したと語っている[8]。ヴォルフガングはジャガンの学校に通う傍ら、家庭で個人教育を受けた。教師は教会オルガニストでもあり、彼の影響でヨハン・ゼバスティアン・バッハに傾倒した[2]

1913年から1934年までパーレン一家が住んだポーランドのジャガンの古城(Sankt Rochusburg、1917年)

1919年に一家はローマに越した。ジャニコロの丘に瀟洒な館を構え、多くの客を迎え入れた。ヴォルフガングが最初に師事したベルリン分離派の画家レオ・フォン・ケーニヒドイツ語版もその一人であった。また、考古学者で当時バッラッコ美術館の館長であったルートヴィヒ・ポラックドイツ語版に出会ったのもこのときであり、ポラックを通じて古代ギリシアローマの美術を学んだ[8]。1923年に一人でベルリンに戻り、ベルリン芸術アカデミー(現ベルリン芸術大学)を受験したが不合格。生涯にわたって交友を重ねることになるスイス生まれの写真家音楽家・美術品蒐集家エヴァ・スルザー英語版に出会った[9]

フランス

抽象絵画

パリ14区のアトリエのパーレン(Eva Sulzer 撮影、1933年頃)

1925年にベルリン分離派展に出品。さらに美学を学んだ後に渡仏。翌年にかけてパリおよび南仏カシスフランス語版プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県)で学び、英国の画家、美術品蒐集家、美術評論家ローランド・ペンローズ英語版と彼の妻で造形作家のヴァランティーヌ・ペンローズ英語版オスマン帝国出身の画家ジャン・ヴァルダ英語版、フランスの画家ジョルジュ・ブラックらに出会った[6]ミュンヘンハンス・ホフマン美術学校に学んだ後、1928年にサントロペを訪れ、フランスに定住する決意をした。1928年は栄華を誇ったパーレン家が衰退の兆しを見せ始めた年であった。弟ハンス=ペーターがベルリンの精神病院で死去し、両親は離婚。父グスタフは翌1929年のウォール街大暴落の影響を受けて財産を失った。さらにもう一人の弟ライナーが拳銃自殺を図り、ベルリンの病院に搬送された。事件を目撃したヴォルフガングは治療に付き添ったが、ライナーはこの後1933年に失踪し、1942年にチェコスロバキアの精神病院で死去した[8]

1929年にパリに定住し、短期間だがフェルナン・レジェに師事した。1933年、抽象彫刻家・画家のオーギュスト・エルバンジョルジュ・ヴァントンゲルロージャン・エリオンらがテオ・ファン・ドゥースブルフの協力を得て1931年2月15日に結成した「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)」[10]のグループに参加した。抽象化によって不可視の世界を表現しようとするこのグループには、カンディンスキーモンドリアンジャン・アルプモホリ=ナジ・ラースロークルト・シュヴィッタース、そして岡本太郎もパーレンと同じ1933年に参加したが[11]、パーレンは1935年にエリオン、アルプとともに退会した。

シュルレアリスム

《禁じられた国》1936-1937年 (Paalen Archiv Berlin; 写真提供: Andreas Neufert)

1934年にフランスの詩人・画家のアリス・ラオンフランス語版と結婚。同年、パリで最初の個展を開き[12]、ペンローズに再会。彼を介してシュルリアリスムの詩人ポール・エリュアールに出会った。翌35年の夏には詩人・小説家のリーズ・ドゥアルムフランス語版のサロンでアンドレ・ブルトンに出会い、ブルトンとペンローズの勧めで、1936年にロンドンで開催された国際シュルレアリスム展に参加するほか、ピエール画廊(画商ピエール・ローブフランス語版は写真家ドゥニーズ・コロンフランス語版の兄[13])で個展を開き、シャルル・ラットンフランス語版画廊で行われたシュルレアリスム・オブジェ展にも出品した。国際シュルレアリスム展には、最初のフュマージュの作品を出品した。パーレンが考案したフュマージュ(fumage)は、濡れたキャンバス(後に水彩絵具で描いたキャンバス)の表面をろうそくの煙で燻して黒い跡を付ける技法で(フランス語のフュメ(fumer)は「煙草を吸う、燻す」の意)、幻影、亡霊、夢などを表現するシュルレアリスムの自動記述を絵画に応用したものとして、サルバドール・ダリの《秋のカニバリズム(人肉食)》(1936年)でもフュマージュと思われる技法が用いられている[14][15][16]

同年に制作し始め、翌年に完成させた代表作《禁じられた国》について、パーレン研究者のアンドレアス・ノイフェルトは、フュマージュの技法を取り入れた最初の大規模な作品であり、また、妻アリス・ラオンとピカソの関係を知ったパーレンが鬱状態に陥り、これを芸術に昇華させた作品であると説明している[17]

《関節のある雲 II》(ただし、これは国際シュルレアリスム展出品作ではなく、1940年制作の小さい作品)(Paalen Archiv Berlin; 写真提供: Andreas Neufert)
《異人たち》1937年 (Paalen Archiv Berlin; 写真提供: Andreas Neufert)

1938年にブルトンとエリュアールによってパリ8区フォーブール・サントノレ通りフランス語版ジョルジュ・ウィルデンシュタインフランス語版画廊で開催された国際シュルレアリスム展フランス語版では、マルセル・デュシャン、サルバドール・ダリ、マン・レイとともに企画に参加し、草や木の葉などを使って入口・主展示室のインスタレーション「水と茂み」を制作した。さらに、スポンジに包まれた傘《関節のある雲》などのオブジェ、代表作《トーテムのような風景》などの絵画を発表した。ジョルジョ・デ・キリコマックス・エルンストパウル・クレーアンドレ・マッソンジョアン・ミロピエール・ロワらも出品したこの展覧会は、国際シュルレアリスム展のうちで最も重要なものであり[18][3]、「パーレンが(シュルレアリスムの)運動に参加して僅か2年弱であったことを考慮すれば、この展覧会における彼の著しい挙用には留意される」[19]

また、前衛芸術雑誌『ミノトールフランス語版』にも1936年6月から1939年5月の最終号まで継続的に作品を掲載した。アルベール・スキラフランス語版を発行人、テリアードフランス語版を美術主幹として1933年6月に創刊された同誌は、1937年の第10号からブルトン、エリュアール、デュシャンらが編集委員として参加し、事実上、シュルレアリスムの雑誌となり、とりわけ、ハンス・ベルメールポール・デルヴォーロベルト・マッタアルベルト・ジャコメッティらの活動の場であった[4]

上記のほか、《ファタ・アラスカ》、《均衡》、《異人たち》、《磁気嵐》、《恐怖に硬直した風景》、《太陽黒点》などのパーレンのシュルレアリスムの代表作は、ほとんど1937年と38年の2年間に集中的に制作・発表されている。

メキシコ

サン・アンヘル(メキシコシティ)のパーレンのアトリエ(パーレン自身による撮影、1946年頃)

フリーダ・カーロとの出会い

第二次世界大戦が勃発する前年の1938年、ブルトンが「欧州文化の解毒剤を求めて」「シュルレアルな国」メキシコを訪れ、前年にメキシコに亡命したトロツキーとともに「独立革命芸術のために」と題する声明を起草し(ただし、トロツキーの代わりに画家ディエゴ・リベラが署名)、独立革命芸術国際連盟 (FIARI) を結成した[20][21]。パーレンもまた、翌1939年にニューヨークを訪れ、米国でシュルレアリスムを紹介したジュリアン・レヴィー英語版に出会い、米国を旅した後、秋にメキシコ美術画廊英語版 (GAM)[22] で開催される国際シュルリアリスム展の準備のためにメキシコシティに向かった。ここでフリーダ・カーロに会い、彼女の招きに応じてこの地に滞在する決意をした[6][18]

DYN誌

『DYN』誌創刊号(1942年、写真提供: Andreas Neufert)
『DYN』誌第4-5号(アメリカ州の先住民特集、1943年、写真提供: Andreas Neufert)

環境の変化に応じてパーレンの作品世界も変化し、以後、彼はバーネット・ニューマンジャクソン・ポロックロバート・マザウェル英語版マーク・ロスコらとともに米国の抽象絵画、特に抽象表現主義の発展において重要な役割を果たすことになる。また、アメリカ先住民の文化、量子論、およびマルクス主義の影響を受けた芸術理論を展開し[3][18]、発表の場として1942年に芸術雑誌『DYN (ディン)』を創刊した。DYNの語源は、ギリシャ語の「可能な限り(κατὰ τὸ δυνατόν)」である。本誌はメキシコシティだけでなく、ニューヨーク、パリ、ロンドンでも配布された。創刊号に掲載されたパーレンの「シュルレアリスムよ、さらば」と題する記事は、第二次大戦下、ニューヨークに亡命していたブルトン、デュシャン、エルンストらフランスのシュルレアリストに衝撃を与えた。パーレンは、シュルレアリスムを「未来志向がなく・・・既存の精神状態や悪夢を映し出すだけの鏡のような装置」であり、「袋小路」であると批判したのである[23]。『DYN』誌の編集にはマザウェルのほか、画家ミゲル・コバルビアス、詩人セサル・モロフランス語版、小説家ヘンリー・ミラーアナイス・ニン、画家ゴードン・オンスロー・フォード英語版らが参加し、表紙にはマザウェル、ポロック、マヌエル・アルバレス・ブラボ、アリス・ラオン、ロベルト・マッタ、ハリー・ホルツマン英語版ヘンリー・ムーアらの作品が掲載された。また、内容的にも視覚芸術、人類学、哲学など多岐にわたるテーマを取り上げている[24]

先住民の文化

「抽象芸術はすべて霊的である」、「芸術、科学、宗教は分かち難い」[25]と主張するパーレンは、人類学者フランツ・ボアズの影響を受けて文化多元主義に基づく芸術理論を提唱し、特にキクラデス諸島からメキシコ、太平洋岸北西部まで様々な先住民文化神話儀式などを研究し、1941年以降に発表された《自由な空間》、《宇宙での初演》、《未来の祖先》などの、シュルレアリスム時代のものとは全く異なる一連の作品に取り入れている[25]

1943年にイサム・ノグチを介してベネズエラ生まれの芸術家ルシータ・ウルタード・デル・ソラールに出会い、46年にアリス・ラオンと離婚し、ルシータと結婚、メキシコの市民権を取得した。ルシータとともにオルメカマヤ文明について調査し、工芸品等を蒐集した。民族学的に重要なこれらの蒐集品の多くは、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている[7][26]

アメリカ合衆国、再びフランス、メキシコ

1948年、ルシータとともにカリフォルニア州マリン郡ミルバレー英語版に移住。ここで、ゴードン・オンスロー・フォード、リー・マリカン英語版とともに「DYN」の活動を受け継ぐ新グループ「ダイナトン (Dynaton)」を結成し、同年および1950年にサンフランシスコでダイナトン展を開催した[27]。これは、再び欧州のシュルレアリスムの影響を受けながら、宇宙と自然の諸要素を取り入れ、「無意識の精神の超越的な力」を表現しようとする試みである[3]

だが、パーレンは、メキシコに戻ってブルトンとの関係を回復したいと願っていた[26]。1951年、ルシータと離婚して[26]メキシコに向かい、渡仏。パリに3年間滞在した。滞在中はシュルレアリスムの画家カート・セリグマンフランス語版のもとに身を寄せ、ブルトンと和解すると、夏の間は彼がサン=シルク=ラポピーフランス語版オクシタニー地域圏ロット県)に購入した古い宿屋に滞在し、再びブルトンを中心とするシュルレアリスムの活動に参加した。ブルトンが創刊した『媒体 ― シュルレアリスム・コミュニカシオン』誌第2号(1954年刊行)ではパーレン特集が組まれ、ブルトンのほか、メキシコで交友を深めたバンジャマン・ペレジュリアン・グラックらが寄稿している[28]

1954年にメキシコに戻ったパーレンは双極性障害など健康上の問題を抱えていたため[26]、ゴードン・オンスロー・フォードとエヴァ・スルザーの支援を得て、モレロス州テポストランで古い家を購入し、以後、亡くなるまでここに暮らし、フランスの作家アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグやメキシコの詩人オクタビオ・パスを招いた。この時期、パーレンは絵画だけでなく、戯曲短編小説も執筆し、体調が悪いにもかかわらず、精力的な活動を行った。1959年9月24日の夜、気分がすぐれないときにしばしば滞在していた、テポストランの南西約100キロのところにあるタスコのホテルを出て、丘に向かった。翌日、遺体で発見された。拳銃自殺であった[26]。享年54歳。

作品

主な作品

主に公式ウェブサイトの主な作品《ART》による(画像もこのサイトに掲載されている)。

作品名(仮訳)原題備考
ドストエフスキーカラマーゾフのための挿絵》Illustration for Dostojevsky’s Karamazov1923個人蔵(ベルリン)
《根を使ったオブジェ》Objet fait avec racine1933オブジェ
《通知》L’avertissement1934抽象画、個人蔵(Galerie Döbele、ドレスデン
《雨の多様性》Variétés de la pluie1935素描、個人蔵(ベルリン)
《踏切》Passage à niveau1935オブジェ
《2つの頭》Deux Tetes II1935抽象画、油彩・テンペラ(キャンバス)95.9 x 128.3 cm
《月時計》Cadran Lunaire1935抽象画、油彩・テンペラ(キャンバス)130.8 x 83.8 cm
《嵐の車輪》La Roue de l’orage1936抽象画、油彩(キャンバス)
《光の塔》Les tours de lumière1936シュルレアリスム、油彩(キャンバス)41 x 33 cm
《禁じられた国》Pays interdit1936-37シュルレアリスム、油彩・フュマージュ(キャンバス)個人蔵(ベルリン)194.6 x 128.9 cm
《トーテムのような風景》Paysage totémique1937シュルレアリスム、Gertrud Parker Collection(カリフォルニア州ティブロン英語版
《ファタ・アラスカ》Fata Alaska1937シュルレアリスム、個人蔵(ブリュッセル
《均衡 ― 解釈された夢、ゴシック》La balance1937シュルレアリスム、油彩(キャンバス)99 x 72.5 cm、個人蔵(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《トーテムのような風景》Paysage totémique1937シュルレアリスム、Lucid Art Foundation(カリフォルニア州インヴァネス英語版
《異人たち》Les étrangers1937シュルレアリスム、個人蔵(ニューヨーク)
《空間の策略》Le génie de l'espèce1938オブジェ(骨を使った拳銃の造形)フランツ・マイヤー美術館英語版(メキシコシティ)
《磁気嵐》Orages magnétiques1938シュルレアリスム、油彩(キャンバス)74 x 102 cm、Weinstein Gallery(サンフランシスコ)
《恐怖に硬直した風景》Pays medusé1938シュルレアリスム、個人蔵(パリ)
《土星の王子たちの戦い III》Combat des princes saturniens III1939シュルレアリスム、油彩(キャンバス)100 x 73 cm、個人蔵(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《蛸の空》Ciel de pieuvre1938シュルレアリスム、個人蔵(Galerie Malingue、パリ)
《土星の王子たちの戦い II》Combat des princes saturniens II1938シュルレアリスム、個人蔵(ニューヨーク)
《太陽黒点》Taches solaires1938シュルレアリスム、油彩・フュマージュ(キャンバス)129.5 x 99 cm、個人蔵(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《西洋杉になった小妖精》Lutin cedré1938フュマージュ、個人蔵(ベルリン)
《無題》Untitled1939墨、テンペラ(木の葉または樹皮)25.4 x 12.7 cm
《関節のある雲 II》Nuage articulé II1940オブジェ、個人蔵(ベルリン)
《正確な時間 II》L’heure exacte II1940オブジェ、個人蔵(ベルリン)
《無題》Untitled1940抽象画、油彩・フュマージュ(キャンバス)40.6 x 40.6 cm
《自由な空間》Espace libre1941抽象画、Lucid Art Foundation(カリフォルニア州インヴァネス)
《宇宙での初演》Les premières spatiales1941-44抽象画、個人蔵(スイス)
《宇宙進化論者》Les cosmogones1944抽象画、244 x 236 cm、Weinstein Gallery(サンフランシスコ)
《通夜》El Velorio1946抽象画、オーストリア絵画館
《未来の祖先》Ancêtres à venir1947抽象画、個人蔵(ニューヨーク)
《メキシコの祭り》Fête mexicaine1947抽象画、Weinstein Gallery(サンフランシスコ)
《モニュメントのための試作》Projet pour un monument1948オブジェ(木)114 x 25 cm、Lucid Art Foundation(カリフォルニア州インヴァネス)
《熱帯の夜》Nuit tropicale1948抽象画、油彩(キャンバス)149 x 140 cm
《使者たち》Messagers1949抽象画
《3つの極のある使者》Le Messager des trois Pôles1949抽象画、油彩(キャンバス)203 x 155 cm
《心の水晶》Crystals of the Mind1950抽象画、油彩(板)144.8 x 105.4 cm
《無題》Untitled1951抽象画、油彩(キャンバス)18 x 27 cm(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《投げられた石》La pierre lancée1953抽象画、個人蔵(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《経度局》Bureau de Longitudes1954抽象画、油彩・フュマージュ(キャンバス)55 x 198 cm

所蔵美術館

ウェンディ・ノリス画廊(サンフランシスコ)の一覧参照。ただし、各サイトでの検索結果から作品数は少ないと思われる。

脚注

参考資料

関連項目

外部リンク