世良洋子
世良 洋子(せら ようこ、1943年10月24日[1][2] - )は、元中国放送アナウンサー[3]、フリーアナウンサー[4]。広島県賀茂郡河内町(現・東広島市)出身[5][補足 1]。血液型はA型[1][6]。
せら ようこ 世良 洋子 | |
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プロフィール | |
出身地 | 日本 広島県賀茂郡河内町[補足 1] |
生年月日 | 1943年10月24日(80歳) |
最終学歴 | 昭和女子大学 |
職歴 | 中国放送(1966年 - 2004年) フリー(2004年 -) |
活動期間 | 1966年 - |
出演番組・活動 | |
出演経歴 | なんでもジョッキー 究極のオバンざい!世良洋子アワー 平成ラヂオバラエティごぜん様さま |
略歴
広島県賀茂郡河内町(現・東広島市)で5人兄弟の末っ子として誕生[5]、その後広島市東雲(現・南区東雲)に転居[5]。
広島大学附属東雲小学校[5]、中学校、比治山女子高校[5]を経て、昭和女子大学文学部日本文学科に入学[5]。
大学入学当初は教師を目指していた[7]。高校時代から継続して演劇部に所属[7]。一時期は新劇女優を目指していた時期もある[7]。大学4年次に同じゼミに通う同郷の友人に誘われて中国放送を受験[7]。1000人近くいた受験者から合格[7]。合格通知を受け取ったときには、比治山女子高校で教育実習中だった[7]。
1966年(昭和41年)中国放送に入社[7]。同期入社したアナウンサーは男女3人ずつの6人で、その中には柏村武昭や安田誠一がいた[7]。入社早々は、アナウンサーの基本と言うべき鼻濁音が出来なかった[7][8][9]。
初鳴きは、ラジオ番組間に時刻を伝えるナレーション[8]。入社早々は、放送機材のデンスケを担いでの取材が主な仕事だった[8][10]。テレビの初出演は、1969年(昭和44年)の特番『テレビ宇宙教室』だった[11]。1970年(昭和45年)から始まったラジオ番組『ポリドール歌謡ヒットパレード』では『よっこ』と呼ばれた[12]。1973年(昭和48年)4月からは、おはようラジオで、中国放送の女性アナウンサーとして、初めてラジオニュースを担当した[12][13]。1977年には女性アナウンサー初の中国駅伝のラジオ中継を担当[12]。駅伝担当の時は新聞記事にもなった[14][15][補足 2]。これまでは硬派な番組を担当し、本人曰く「RCCの知性」と呼んでいた[16][補足 3]。
1987年(昭和62年)4月から、若手女性アナウンサーの寿退社に伴い『なんでもジョッキー』の担当に抜擢[16]。当初アナウンス部長が出演打診したときには辞退していたが[16]、同局アナでなんでもジョッキーパーソナリティの上野隆紘の説得により、新人アナが入ってくる3ヶ月の約束で担当[16]。なんでもジョッキー担当でイメージは一変[16]。最終的には、約9年間なんでもジョッキーを担当することになった[16]。当時、公開イベントに参加していた常連リスナーとは放送終了後も交流を継続[16]。『生きて』が掲載された2014年(平成26年)9月時でも、食事や花見を行っている[16]。
1995年(平成7年)9月に事業部に異動[17]。主催事業などを担当していた[17]。
2001年(平成13年)大晦日に放送された特番『世良洋子の年忘れラジオ紅白歌合戦』でアナウンサーに復帰[17]。その後も継続し[17]、レギュラー番組から引退した2014年(平成26年)以降も毎年放送している[17]。
2002年(平成14年)春から放送開始した『究極のオバンざい!世良洋子アワー』でレギュラー番組にも復帰。2003年(平成15年)春からは平成ラヂオバラエティごぜん様さまに出演した。
2004年(平成16年)に定年退職[3]。中国放送の女性アナでは初めて定年(当時は60歳)まで勤務した[18]。
定年後も番組出演を継続し2014年(平成26年)3月まで、ごぜん様さまを担当した[3]。レギュラー放送引退の理由として、2011年(平成23年)頃発症した首下がり症候群の治療のため服用した薬の副作用で、滑舌の低下や体重が減少したことを上げている[4]。その上で、アナウンサー活動を継続するともしている[4]。
エピソード
主な出演
現在
ラジオ
- 世良洋子の年忘れラジオ紅白歌合戦(2001年〜:毎年大晦日に放送。レギュラー番組降板後も継続して放送。)
CM
- 中国新聞社中国新聞セレクト