丹野章
生涯
東京都生まれ。日本大学芸術科写真学科を戦後1期生として卒業後、フリーカメラマンが少数の時代にフリーランスとして活動を始める。舞台写真の分野で活躍した後、新感覚の写真のグループVIVOに参加。東京都写真美術館、山口県立美術館、日本大学芸術学部、東京工芸大学ほかに作品がコレクションとして収蔵されている。
写真の著作権の保護期間問題に関わり、日本写真著作権協会(JPCA)の創設に貢献。1970年、著作権法の改正に関して、日本写真家協会を代表し、渡辺義雄とともに、第63回通常国会の衆参両院の関係委員会で意見を述べた[2][3]。これを受けて国会議員の合意形成がすすみ、著作権法が改正され、写真の著作権の保護期間が公表後50年に延長された。1999年、著作権法100年特別功労者として文部大臣から表彰[4]。
日本写真家協会常務理事、文化庁著作権審議会委員、日本リアリズム写真集団理事長など歴任。日本写真家ユニオン理事長、日本写真家協会名誉会員、日本舞台写真家協会名誉会員。
内弟子に、写真家の谷口雅彦、映像キャメラマンの岡野秀俊がいる。
エピソード
2015年8月に亡くなった際に、「俺は丹野さんの一番弟子だ!」と通夜葬式で豪語し、内弟子だった谷口の目の前で「谷口なんか聞いたことないぞ!」と叫んだ写真家は、明らかに丹野の知的財産目的で谷口らを排除しようとした。実は丹野が亡くなる数カ月前に谷口らは「小●●一には気をつけて」と遺言されていた。当初は表面上物腰低い写真家を信じ遺族はその写真家の言うなりに動いたが、途中から騙されていることを察し、その写真家との関係を切った。谷口のアシスタントは、このことがショックで写真家への道に進むことを辞めた。
年表
- 1949年、日本大学芸術科写真学科卒業。
- 1951年からフリー。
- 1957年、10人の眼展に1953年から数年間にわたって追い続けた[6]サーカスをテーマにした作品を発表。
- 1959年、佐藤明、奈良原一高、東松照明、川田喜久治、細江英公とグループvivo結成[7]。1961年解散。
- その後、三井三池争議、安保闘争などの当時の世相を背景にして、炭坑をはじめ、軍事基地、沖縄、広島などを題材にした作品を発表[8]。
- 1971年5月、日本写真著作権協会(JPCA)創立に関わる。
- 1972年から1992年にかけて「壬生狂言」を撮影[9]。
- 1979年から1983年には「日本の風土」シリーズを撮影[10]。
- 1988年日本リアリズム写真集団副理事長、翌1989年同集団理事長に就任[11]。2001年まで。
- 1993年、香港で開かれた「アジア写真著作権会議」に日本写真家協会から派遣される[4]。
- 2001年、任意団体として日本写真家ユニオンが発足し、代表理事を務める。
- 2009年5月、キヤノンギャラリーSで写真展「丹野章の戦後」開催[12]。
- 2011年[3.11を忘れない写真家の会]に参加。(代表・谷口雅彦)亡くなるまで会の精神的支柱として活動を行った。
脚注
主な著書
- 『詩(ポエム)きものマイムの世界』松井朝子との共著 (1990年8月、偕成社)
- 『壬生狂言—丹野章写真集』(1992年5月、光陽出版社)
- 『日本で演じた世界のバレエ』(1995年5月、イメージハウス)
- 『撮る自由—肖像権の霧を晴らす』(2009年6月、本の泉社)
外部リンク
- 丹野 章 作品ポートフォリオ日本写真家ユニオンサイト内