冨士大石寺顕正会

日本の仏教系宗教団体

冨士大石寺顕正会(ふじたいせきじけんしょうかい)は、日本仏教系、法華系、日蓮系、日興門流系、富士門流系、大石寺系の宗教団体である。

冨士大石寺顕正会
地図
前身妙信講(みょうしんこう)
設立1957年 (昭和32年)
設立者浅井甚兵衞
種類宗教法人
法人番号5011405000447 ウィキデータを編集
本部埼玉県さいたま市大宮区寿能町1-72-1(事実上)
東京都板橋区常盤台1-14-1(登記上)
座標北緯35度55分13.1秒 東経139度38分4.2秒 / 北緯35.920306度 東経139.634500度 / 35.920306; 139.634500 東経139度38分4.2秒 / 北緯35.920306度 東経139.634500度 / 35.920306; 139.634500
教祖塚越治喜
会長名代・理事長・
法人代表役員
浅井城衞
副理事長行成公一郎
ウェブサイト公式ウェブサイト
かつての呼び名
日蓮正宗妙信講
日蓮正宗顕正会
テンプレートを表示

埼玉県さいたま市大宮区寿能町に本部を置き、日本各地に約60箇所の会館を有する。

公称会員数は約260万人[official 1]を擁する単立宗教法人で、宗教法人法に基づく届出名は宗教法人「顕正会」である。

もともとは日蓮正宗所属の信徒団体として1957年(昭和32年)に発足した「妙信講」が前身であり、教団の機関紙としては『顕正新聞』(月三回発行)がある。

鎌倉時代の僧である日蓮を本仏として仰ぎ、法華経こそが釈迦の真実の教えとし、末法の世では日蓮大聖人の仏法(三大秘法)のみが個人の幸福と真の国家安泰をもたらす法であるとしている。

1974年(昭和49年)に日蓮正宗から解散処分を受けている。

毎月末に同会本部会館にて総幹部会を開催し、月の活動内容や体験談の発表を行い、動画サイト上に配信をしている。2023年10月16日に浅井昭衞が死去したことにより、同会理事長であった浅井城衞が三代目会長となる[1]

他の仏教系宗教や他の日蓮系宗教は邪教であると認識している。

歴史

大東亜戦争太平洋戦争第二次世界大戦)中の1942年昭和17年)4月、日蓮正宗妙光寺東京府東京市品川区:現・東京都品川区)の総代だった浅井甚兵衞が初代講頭となり、妙光寺所属の法華講の一講中として東京妙信講(とうきょうみょうしんこう)が結成(認証)[2][3]。当時は戦時下のため折伏弘通は困難であったが、甚兵衞は事業経営と並行して講員を励ましながら弘通を進めたという[official 2]

浅井親子らは妙光寺から豊島教会の妙国寺(板橋区)へと所属変えを行い、その後に法道会(現:法道院豊島区南池袋)へと所属を変えたが、住職の申入れを受けて法道会法華講と合併するため発展的に解散した。その後は法道会から離脱し妙信講を再建するが[official 3]創価学会が中心となって寄進・建立した正本堂(平成10年に解体撤去)の教義上の位置づけをめぐり日蓮正宗・創価学会と激しく対立。日蓮正宗から講中解散処分を受ける。

年譜

  • 1957年(昭和32年)8月3日 妙信講発足[official 4]
  • 1958年(昭和33年)1月15日 妙信講認可。大石寺第65世法主堀米日淳の配慮により宗門内極めて異例の認証式が行われ[4]妙縁寺墨田区吾妻橋)所属となった。講頭に甚兵衞、青年部長に甚兵衞の長男である昭衞、松本日仁と早瀬道応(後の日慈、大石寺第68世法主早瀬日如の実父)が指導教師に就任。本部は当時、東京都文京区にあった甚兵衞の自宅に置かれた[official 3]
  • 1963年(昭和38年)10月31日 機関紙「顕正新聞」が日蓮正宗と創価学会からの圧力を受けて廃刊。これに代わる機関誌として月刊『富士』が創刊され、その編集長に昭衞が就任。
  • 1967年(昭和42年) 10月 正本堂発願式。席上、創価学会会長池田大作は「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と宣言[official 5]
  • 1968年(昭和43年)1月 大石寺第66世法主細井日達が、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と発言[soka 1]
  • 1970年(昭和45年)
    • 3月25日 日蓮正宗の宗務役僧、および創価学会首脳に対し、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を送付[official 6]
    • 4月3日 浅井父子が大石寺大奥の対面所で日達と対面。日達は、正本堂が日蓮大聖人の御遺命の戒壇ではないこと、御遺命の戒壇とは国立戒壇であることを認め、正本堂の誤りを訂正することを約束[official 7]
    • 5月29日 浅井父子が大石寺対面所で学会理事長和泉覚および主任副会長の秋谷栄之助森田一哉と正本堂の意義につき論判。数日後、森田らは細井日達に対し、今後学会は「正本堂は御遺命の戒壇」「広布はすでに達成」とは言わない旨を誓約[official 8]
    • 9月11日 妙信講と創価学会との間で、「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない」等と記載された「御報告」と題する書面を作成[official 9][5]
  • 1971年(昭和46年)11月15日 池田に対し、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」と題する書面を送付[official 10]
  • 1972年(昭和47年)
    • 4月28日 日達が、「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との訓諭を発布[5]。妙信講は同日、池田会長に対し、正本堂の意義につき公場対決を申し入れる書状を送付[official 11]
    • 7月6日 浅井父子が妙縁寺で日達と対談。妙信講の申入れにより、日達は訓諭の内容を打ち消す解釈文を宗門機関誌「大日蓮」に掲載することを約束[official 12][6][5]
    • 7月19日 日達が大石寺において浅井父子に訓諭の訂正文を交付。日達は昭衞の指摘を受けて文言を数ヵ所修正し、「大日蓮」8月号に掲載することを約束。しかし、日達は後日、創価学会の働きかけを受け、この約束を取り消した[6][official 13][7]
    • 9月13日 浅井父子(主に昭衞)が学会代表の秋谷、原島嵩、山崎正友との間で、宗門末寺常泉寺において、同月28日まで計7回にわたり、正本堂の意義につき論判。その結果、秋谷らは正本堂の意義を訂正する文を聖教新聞に掲載することを約束[6][official 14][5]
    • 10月1日 正本堂完工式。宗門・学会はこの席に仏教系他宗派のみならず、ローマカトリック神父数名(バチカン市国の大使)をも来賓として参列させた[official 15]
    • 10月3日 創価学会が聖教新聞(同日付)紙上に正本堂の意義を訂正する文を掲載。「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである」等[6][official 16]
    • 10月12日 正本堂落慶法要。池田は聖教新聞(10月3日付)掲載の訂正文に反し、参列した全学会員に対し、副会長兼総青年部長福島源次郎を通して、「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」とのメッセージを伝えさせた[6][official 17]
  • 1973年(昭和48年)
    • 5月 久々に総本山大石寺への登山を願い出たところ、宗務院総監になっていた早瀬日慈より「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意向である」との返事があった[official 18]
    • 7月15日 顕正新聞が復刊。
    • 12月22日 東京都板橋区常盤台に会館が完成。本部も甚兵衞宅から移転。
  • 1974年(昭和49年)
    • 5月19日 妙信講第16回総会を開催。席上、昭衞は「御遺命守護のご奉公未だ終わらず。徹底してその悪を断ち、法のため、国のため、国立戒壇を宗門の公論とせねばならぬ。師子王の心を取り出し、国立戒壇への怨嫉をこの際徹底して打ち砕き、さらに政府への詐わりの回答も断じて訂正せしめる」等と述べた[official 18]
    • 5月24日 学会の秋谷副会長に「公開討論申し入れ書」を手渡す。秋谷は10日後、公開討論を許否する旨を書面で返答。以後、「国立戒壇の正義を全学会員に教える以外にない」として、「御遺命守護」を特集した顕正新聞(第18号)を全国で配布[official 18]
    • 7月28日 東京都新宿区明治公園で「立正安国野外集会」開催。3,000人が参加[要出典]し、「八月十五日までに、国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答[official 19]を撤回せよ。さもなければ妙信講が政府に対し訂正をする」旨の池田宛ての「決議文」を決議。理事を通じて学会本部に直接届けた[official 18]
    • 8月12日 宗門管長の日達より講中解散処分を受ける。宣告書の処分理由には、「右妙信講は数年来、『国立戒壇の名称を使用しない』旨の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱え・・・」と記載されていた[official 20]
    • 10月4日 妙信講の青年部員約70名が創価学会本部へ押しかけ「牙城会」のメンバーと乱闘したとして、うち12人が逮捕された。この事件について、当時創価学会の顧問弁護士であった山崎正友は、スパイを通じて妙信講の青年部員が来ることを事前に察知した学会側は「本部に乱入させておいて逮捕する」という方針を決め、予め用意した木刀や警棒等で青年部員に暴力を加えて逮捕させたことを告白している[8]
  • 1975年(昭和50年)
    • 8月20日 甚兵衞が講頭を退き、第2代講頭に昭衞が就任。
  • 1977年(昭和52年)
    • 4月14日 創価学会との法廷闘争で、東京地方裁判所において和解が成立。和解の内容は、①今後、妙信講の本部会館の御本尊の返還を求めないこと、②今後、「日蓮正宗妙信講」と書かれた本部会館の看板撤去を求めないこと、③新しい寺院(顕正寺)を妙信講のために立てること、の3つを条件として、創価学会からの訴え取下げに同意する、というもの。昭衞は同月26日の総幹部会において「まさに事実上の全面勝利である」と述べた[official 21]
  • 1978年(昭和53年)
    • 3月5日 埼玉県和光市に顕正寺を建立、落慶入仏式を行う。住職に八木直道が就き、昭衞が導師を務める。
    • 9月14日 東京都生活文化局管理法人課の認証を受け、宗教法人「顕正寺顕正新聞社」(けんしょうじけんしょうしんぶんしゃ)設立。昭衞が会長に就任[9]
  • 1982年(昭和57年)
    • 10月9日 日本武道館で1万人の総会を開き、名称を「日蓮正宗顕正会」(にちれんしょうしゅうけんしょうかい)に変更。
  • 1985年(昭和60年)
    • 四者体制(男子部、女子部、婦人部、壮年部)となる。
  • 1989年(平成元年)
    • 2月5日 顕正会男子部員約60名が、街宣車を先頭に杉並区の妙観講本部に押しかけ敷地内に乱入、妙観講員と乱闘となる。この騒ぎで顕正会側に現行犯逮捕者を出した(妙観 平成元年2月16日号)。妙観講は日蓮正宗法華講の中で最も活動的な団体で、異流儀と見做した顕正会員に対し活発に折伏を行っていた。
  • 1990年(平成2年)
    • 4月27日 顕正会20万達成を背景として、大石寺第67世法主・阿部日顕に対し、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する一書を送付[official 22]
    • 7月8日 横浜アリーナで2万人の大総会を開催。席上、昭衞は、「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき全顕正会員はこぞって大石寺に総登山しよう。二十万顕正会の全員が戒壇の大後本尊様の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て本門寺改称を断固粉砕しようではないか」と述べた[official 23]
    • 10月12日 大石寺開創七百年慶讃大法要。席上、日顕は「大本門寺の寺号公称は、事の戒法の本義更に未来に於て一天四海に光被せらるべき妙法流布の力作因縁に依るべし」と発言[official 24]
  • 1992年(平成4年)
    • 11月 日顕に対し、「直ちに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉るべし。御遷座こそ誑惑の完全なる清算である」等と記した諌暁書を送付[official 25]
  • 1996年(平成8年)
    • 11月18日 文部省から認証を受け、改めて「宗教法人顕正会」が発足。登記簿上は、「顕正寺顕正新聞社」が名称変更した形となる。
    • 12月22日 総幹部会で「日蓮正宗顕正会」の名称を「冨士大石寺顕正会」に改めると発表。
  • 1997年(平成9年)
    • 7月16日 第1回一国諌暁開始。諫暁書「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」を発行。この書籍は、顕正会員によって広く全国に配布された[official 26]
  • 1998年(平成10年)
    • 4月5日 本門戒壇の大御本尊が正本堂から元の奉安殿に御遷座[official 27]
    • 4月10日 日蓮正宗が正本堂解体を決め、大御本尊を遷座したのを受けて、本部会館で「御遺命守護完結奉告式」を行う。昭衞は御宝前において、「大聖人様-。本門戒壇の大御本尊が恐れ多くも誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってより今日まで、実に二十六年の長き歳月が流れました。しかるところ、嗚呼ついに、本年4月5日の午後四時、大御本尊は、清浄なる奉安殿に還御遊ばされました」と言上[official 27]
    • 6月15日 顕正新聞で「御観念文の改正」を発表。新しい勤行要典が会員に配布される。
    • 7月 正本堂が撤去される[official 28][soka 2]
  • 1999年(平成11年)
    • 12月 埼玉県大宮市(現・さいたま市大宮区)に「青年会館」を開設。
  • 2000年(平成12年)
    • 11月8日 本部をさいたま市大宮区に新築、移転。
  • 2003年(平成15年)
    • 5月 顕正寺を改築し、「冨士大石寺顕正会典礼院」を建立。
    • 11月6日 公称会員数が100万人に達する[official 28]。これをもって2度目の一国諫暁の準備が本格的に始まる。
  • 2004年(平成16年)
    • 4月28日 第2回一国諌暁開始。諌暁書第2弾「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を発行。
    • 読売朝日毎日日経の4大全国紙に広告の掲載を企図するが、全社に拒否される。顕正会側は「学会の圧力があったのであろう」と主張。この書籍は、顕正会員によって全国に約1500万部配布された[official 29]
    • 8月26日 日顕が「全国教師講習会」において、かつて正本堂を御遺命の戒壇と述べたことには「言い過ぎやはみ出し」があったとしつつ、「結局、道理から言っても『国立戒壇』は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」と発言[10]
  • 2005年(平成17年)
    • 3月25日 昭衞が日顕に対し、公場対決を求める書面を送付。この書面には「勝負決着後の責務」として、「小生が敗れた時は、直ちに顕正会を解散する。貴殿が敗れた時は、直ちに御開扉を中止し、貴殿は猊座を退き謹慎する」と記されていた[official 30]
    • 4月2日 対決申入書に対し、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」名義で、「対決など受け入れるべき道理はない」旨の回答書が届いた[official 30]
    • 4月27日 昭衞が日顕に対し、重ねて対決申入書を送付[official 30]
    • 5月4日 「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」名義で、再び対決を拒否する旨の回答書が届いた[official 30]
    • 8月28日 昭衞が日顕に対し、『対決を逃避した阿部日顕管長に「最後に申すべき事」』と題する一書を送付。同書中、「これが小生の最後の諫めである。・・・以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ慎んで御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみである」と記し、重ねて不敬の御開扉中止と日顕の退座謹慎を迫る[official 30]
    • 12月15日 日顕、退座。
  • 2008年(平成20年)
    • 5月18日 台湾台北市内に顕正会初の海外拠点となる「台北会館」を開設。
    • 12月23日 本部西隣に新青年会館を建設。
  • 2009年(平成21年)
  • 2010年(平成22年)
    • 1月 総幹部会において、昭衛の二男で総男子部長の浅井城衞が理事長に就任[11]
    • 4月 横浜市港北区に神奈川会館を建設。
    • 9月 代表役員が昭衞から城衞に変更される。
  • 2011年(平成23年)
    • 1月25日 総幹部会で壮年部が男子部に統合される。四者体制から三者体制となる。
  • 2014年(平成26年)
    • 11月7日 第6代創価学会会長・原田稔が全国総県長会議において、学会の会則第2条の「教義条項」改正について説明し、その際、「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と発言[soka 3]。昭衞は、同月の総幹部会において、この会則変更および原田会長の発言につき、「これぞ極限の大謗法、無間地獄の業因」と述べ、学会員に対し、「早く悪師を捨て、成仏の叶う大道念に立て」と訴えた。
  • 2015年(平成27年)
    • 1月25日 この日付の顕正新聞を「学会員を救う特集号」と銘打ち発刊。以後、創価学会員に広く配布している[要出典]
  • 2023年(令和5年)
    • 10月16日 昭衛が死去(91歳没)。同日に行われた臨時幹部会において、理事長の城衞が昭衞の名代として顕正会の指揮を執ることを発表する[official 31]
    • 11月15日 池田が死去(95歳没)。

教義

「国立戒壇」建立とは、日蓮が門下に遺命されたという広宣流布の暁により一国の総意で建てられる「本門戒壇」建立のことを言う。この「国立戒壇」建立により、日蓮正宗富士大石寺伝「本門戒壇の大本尊」に備わるといわれる不可思議なる利益によって日本を安泰化させ、これこそが日蓮の遺命なのだと主張する[official 32]

顕正会を破門した日蓮正宗や嘗て日蓮正宗の信徒団体であった創価学会と同様に、日蓮の著述である遺文を『御書』と呼び、聖典としている。日蓮正宗や創価学会は信仰の柱を御書とすべきと指導し御書全集を発刊しているのに対し、顕正会では「御書で日蓮が示した理想世界や社会を忠実に実現する」ことを目標としているので、御書の全体感や対告衆等には一切触れず、あえて御書全集を発刊せず、会員には切り文や都合の良い御書のみを引用して指導しており、それらは最終的には「国立戒壇建立における過程の文に過ぎない」と主張する。

日蓮正宗や創価学会が信者に対して明るく前向きなポジティブな功徳論、幸福論の御書講義を主にしているのに対し、顕正会では戦争の危機や日本国・大和民族そのものの滅亡など、末法思想終末論罰論や他宗・他教団排斥などの、感情論に訴えるような極めて暗いイメージの主張も多く目立つ。特に総幹部会に出席するような中級クラス以上の会員(信者)の中には第2代会長浅井昭衛国家至上ないしは超国家主義的タカ派的な指導によって個人の幸福よりも国への憂いが大事と洗脳され、自身の幸福を二の次にされている者が多いのが、当教団の現状でもある。

仏法の実践

  • 「末法の仏道修行は勤行折伏に尽きる」としている。
  • 勤行とは日蓮正宗総本山である大石寺の歴代法主が書写した御本尊を信じ南無妙法蓮華経(発音は大石寺独自の発音であるナンミョーホーレンゲーキョー)と唱え奉る修行であり(自行ともいう)、これを人に勧めるのが折伏である(化他ともいう)[official 33]
  • 勤行の実践、即ち日蓮の仏法上の名前であると言われる「南無妙法蓮華経」の経題に対して、「お慕わしい」「有難い」との恋慕渇仰の信心で唱え奉ることで、直ちに体である御本尊・日蓮に通じ、凡夫が御本尊・日蓮と一体になり、仏にならせて頂けると説く。
  • そして実践により六根や心法も変わり、宿命も変わることで、現世には幸せになり、臨終には成仏の相を現じ、後生も守られると主張する(ただし南無妙法蓮華経は本来はナムミョウホウレンゲキョウが正しい発音であり、また御本尊と言っても日蓮書写の真筆御本尊は一切拝まず、顕正会の会館や自宅拠点に設置してある顕正会用の印刷本尊のみしか拝んでいけないと主張している)。
  • 大石寺や日蓮正宗の寺院に安置してある本尊や、日蓮宗に秘蔵されている日蓮の真筆本尊なども拝まないのが特徴である[official 33]
  • 会員は、朝夕の勤行に於いて、自宅から富士宮市にある大石寺奉安堂に祀られている本門戒壇の大本尊を遥拝する勤行(遥拝勤行)を実践している。「遥拝勤行」とは、大石寺奉安堂に祀られている伝弘安二年の板曼陀羅、通称本門戒壇の大本尊を、会員の自宅から遥か遠くに拝む行為であり、その勤行の功徳は戒壇本尊の前で直に行う勤行と全く同じものであると主張している。[12]
  • 折伏の実践により、日蓮の格別の守護を頂き、日蓮の眷属としての生命力が湧き、過去からの罪障が消滅すると主張している[official 33]
  • 折伏には毎月ノルマが課せられ、ノルマが達成できないことは日蓮への信仰心が足りないことであると厳しく指導。

国立戒壇と本門戒壇

「本門戒壇」建立とは富士門流に古くから伝わる広宣流布の暁の戒壇論である。

本門戒壇建立における、時・手続・場所については、日蓮が「三大秘法禀承事(三大秘法抄)」「一期弘法付嘱書」に説明していると主張している(ただし両抄の現本は無く、北山本門寺にのみに伝わっていた相伝書である為、本来は大石寺とは関係がなく、現在では偽書として扱われている)。

伝「三大秘法抄」には、「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」 [soka 4]という記述がある。

また、伝「一期弘法付嘱書」には「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てられるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」[soka 5]と記されている。

両抄に記されたという御遺命文により、本門戒壇は、国家意志の表明をもって建立手続とする為に、簡略的に「国立戒壇」と昭和の初期頃より日蓮正宗内で呼称されてきた。

主張と根拠

日蓮正宗大石寺では、日蓮の御遺命を奉じて、この国家的に建立されるべき「本門戒壇」の実現を日蓮以来700年来叫び続けてきたと主張している。顕正会ではその文証として

大石寺二祖・日興:「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てられるべきなり」(富士一跡門徒存知事)
大石寺三十一世・日因:「国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事、御遺状(注「一期弘法付嘱書」)の面に分明なり」
大石寺五十六世・大石日応:「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申す嚝々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって・・・」(御宝蔵説法本)
大石寺六十四世・水谷日昇:「国立戒壇の建立を待ちて六百七十四年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)
大石寺六十五世・堀米日淳:「大聖人は、広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられる。その戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によって明白であります」(日蓮大聖人の教義)
大石寺六十六世・細井日達:「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」[soka 6]

を挙げる。

また、創価学会もかつては日蓮正宗の信徒団体であったため、「国立戒壇」を唯一の目的としていたことに対しても以下の文証を挙げる。

2代会長戸田城聖:「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」[soka 7]
3代会長池田大作:「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」[soka 8]

その後、浅井親子(特に昭衛)は「池田会長体制の下で学会は変貌した」として創価学会を批判するようになった。池田が1965年(昭和40年)に「正本堂」建立を発願した後、学会および池田は正本堂が御遺命の戒壇である旨を主張するようになったためである[official 34][official 35][soka 9]。また当時、日蓮正宗第66世の日達もこれに賛同し、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(昭和43年1月)と、正本堂が御遺命の戒壇に当たる旨を公表した[official 36][official 37][soka 10]ことから、当教団ないし浅井親子による日蓮正宗への批判も強まっていった。

後に昭衛は「顕正会は富士門流系教団において唯一、日蓮大聖人の御遺命を『正本堂』ではなく「国立戒壇」としている。私はそれを根拠に学会・宗門を諫めようと活動を続けている[official 38]と述べ、自派および自身の主張の正当性を強調するようになり現在に至っている。

考証

ここでの戒壇論はあくまでも大石寺を主役としての主張に固執しているが、日興の法城はその存命中に既に大石寺から重須(現・静岡県富士宮市北山)へ移動しており、重須談所こと北山本門寺こそが日興の本陣としての寺院であった為、当然本門戒壇建立については北山本門寺でも現在同じく主張されている。

大石寺の本門戒壇論は三世法主日目以後、四世日道、五世日行、六世日時、七世日阿と受け継がれる14世紀から15世紀初頭までの時期には見られず、あくまでも「法華本門を立てよ」との主張に終始している。その後、九世日有在世だった15世紀中頃に、突如として本門戒壇の大御本尊という板曼荼羅が出現してくるのだが、その辺りの時代から本門戒壇建立の暁には大石寺の板曼荼羅を本門戒壇内に安置せよとの主張に変わってきているのである。大石寺としての教義がある程度完成されてきたのは17世日精や26世日寛が在世だった江戸時代前期以降であり、後世になるほど大胆な発言に変わっていくのが見て取れる。

伝「一期弘法付嘱書」についても、日蓮は六老僧制度を採用しているので日興一人のみに全てを付嘱したというのはあり得ない話であり、それは北山本門寺によって後に朗師派への対抗処置として作られた偽書であると確定されている。

顕正会で取り上げている31世日因が在世だった江戸時代中期になると、本来は大石寺本堂に安置されていた万年救護の大本尊すらも否定して、本門戒壇の大御本尊という板曼荼羅に摩り替えている文書すら大石寺内に秘蔵されている。そうした中で後の法主になるほど大胆な発言になっていき、明治、大正、昭和へと時代が移り変わるに連れて国家権力の必要性や全国民の帰依が必要との発言になり、創価学会が所属していた時代にある程度の歯止めがかかっていったのがよく読みとれる。顕正会はそうした中で自らの立ち位置を模索しながらも、明治憲法下で田中智學が率いた国柱会の思想を取り入れ、大石寺に本来無かった「本門戒壇の大御本尊を安置する国立戒壇建立」という21世紀の現代では行きすぎとも取られかねない教義を甦らせ、それを基として大石寺や創価学会は堕落して間違った方向へ行ってしまったとの論理を導き出し、自派のみが正しいのだという主張を繰り返しているのである。

「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」との主張について

昭衞は「前代未聞の大闘諍」「他国来難」が迫っており、これを防ぐには日蓮正宗の教義の広宣流布、戒壇本尊を安置する国立戒壇建立以外にないと主張している。これは日蓮が『立正安国論』の中で仏法に背く罰として必ず「他国侵逼難」[soka 11]が起こること、および同論奥書に「未来亦然るべきか」[soka 12]と示されることによる[official 39]

これらの災難が迫る原因につき、「一には 日本一同が未だに日蓮に背き続けていること」「二には 創価学会が政治のために、日蓮の唯一の御遺命たる『国立戒壇建立』を抛ったこと」と主張している[official 40]

昭衞は、顕正会が「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」と主張する理由につき、「この恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが『日蓮大聖人に背くゆえ』とは知るよしもない。したがって日蓮大聖人に帰依信順することもない。そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著した次第である」と記している[official 40]

但し日蓮は『立正安国論』の中で、「国主及び万民が釈尊の心に背いて法華経を捨て、念仏を唱えているから国を守護する諸天善神が日本国を去り、災難が起こるのだ」ということを述べており昭衛および顕正会の主張とは異なる。昭衛の論理は日蓮を神格化し、従わなければ日蓮が罰を下すという構図を作り上げた上で、自身及び当教団に賛同しない者は悉く日蓮から罰すられるという構造になっている。当教団は日蓮宗および親元であった日蓮正宗からカルト扱いを受けており、布教活動のやり方にも大きな問題を起こしている。

他教団との関係と争点

日蓮正宗創価学会正信会日蓮宗[13]など他の日蓮系教団のいずれとも教義上厳しく対立している。各教団ごとに主義主張(教義解釈)に違いはあるが、日蓮正宗および創価学会・正信会が共通して敵視しているのが顕正会であり、その理由の共通項は「国立戒壇」であるとされる[14]

しかし、2023年(令和5年)10月に昭衛、続いて11月には創価学会の池田が相次いでこの世を去ったことから、次期会長の城衛が今後、他教団に対してどのような態度を見せるか、注目されている。

創価学会

創価学会に対しては、大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)終結、僧侶が堕落している時に救国の折伏に立ち上がったことにつき、「私(昭衛)は、敗戦の廃墟の中に立ち上がった創価学会の弘通の功を、誰よりも認めている」と述べている[15]。しかし、学会が「国立戒壇」を否定したこと、および、2014年に会則の教義条項を改正して「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と決定したこと自体が大謗法であると主張し、諫め続けるとともに、名誉会長の池田や現会長の原田稔らを「池田大作一党」と称し、痛烈に非難している[official 41][official 42]。他方、一般の学会員に対しては、「同じく信心の力を起こしながら悪師に随うゆえに臨終に悪相を現ずること痛々しく思っております。何としても八百万学会員を救いたい」等と繰り返し述べている[official 43][official 42][official 44]

日蓮正宗宗門

日蓮正宗に対しても、日蓮大聖人の御遺命は「国立戒壇」であると主張し続けている[official 41]

細井日達は1979年(昭和54年)7月22日午前5時5分に遷化(死去)したが、この時の経緯について『心臓発作に襲われ、大事の「御相承」もなし得ず急死した』と主張し、「御遺命違背の罰」と解釈する。即ち、貫首としての最大の責務は「御相承」であるところ、国立戒壇建立の御遺命に背けばすでに「貫首」ではなく、それゆえ日達は「授」の資格を失い、日顕には「受」の資格が無かったとして、「まさに御遺命違背という未曽有の大悪出来のゆえに、未曽有の異常事態が発生したのだ。すべては大聖人様の深き深き御仏意による。広布前夜には、このような“異常事態”も起こるのである」と主張している。 もっとも、「血脈」については「ただし、かかる不祥事があろうとも、血脈は断じて断絶しない。もし御遺命を堅持される貫首上人がご出現になれば、忽ちに血脈は蘇る。下種仏法の血脈は金剛不壊である。ここに大聖人様の甚深の御配慮がましますのである」と述べている[official 45]

顕正会と連携、または顕正会から分派した教団

愛媛県大洲市正信会系寺院興正院で住職を務めていた足立淳正は、2020年(令和2年)2月6日、「国立戒壇」こそ日蓮大聖人の御遺命であると表明。冨士大石寺正信会を発足させ、顕正会と共に広宣流布・国立戒壇を目指して共闘すると明らかにした[official 46]。しかし、足立は2022年(令和4年)春に住職を退任し興正院から去ってしまった為、冨士大石寺正信会は事実上の解散となる。正信会は興正院に後任の住職を派遣し、自派の末寺として活動を再開させている。

仏教系以外の勢力

神道系など他の超国家主義ないしは国粋主義を掲げる政治団体・宗教団体などとも対立している。

日本会議に対しては、神社本庁ともども日本最大の極右団体と断定しその存在自体強い口調で非難する(後述)。

家庭連合(旧・世界基督教統一神霊協会)に対しては、2022年(令和4年)の安倍晋三暗殺事件後に本格的な批判攻撃を開始した[official 47]

政治的思想

妙信講としての発足以来、創価学会と対立してきた経緯から、創価学会を支持母体とする公明党の存在を認めておらず、公明党と連立を組んだ政党も批判の対象となっている。その一方で、中国北朝鮮といった北東アジア社会主義国家による日本への脅威を主張しており、外交的に極右過激とみなされることがある。このため一時、公安調査庁の調査対象になっていた。

王仏冥合・国立戒壇建立

王仏冥合・国立戒壇建立こそが、国家安泰と世界平和をもたらし、人々を真に幸福にする、究極の政治理念である」と説く。これは「日蓮大聖人の『立正安国論』における『汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや』[soka 13]、および『三大秘法抄』における『王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、乃至、勅宣並びに御教書を申し下して、乃至、戒壇を建立すべき者か』との御指南に基づくためである」とする[official 48]

この王仏冥合との対比においては、「民主主義もまた、社会主義共産主義よりは優れているものの、究極の政治理念ではない」とする。それは「民主主義は権力の横暴に対し『民意を尊重せよ』との民衆の自己主張であるが、末法においてはその民衆が三毒強盛であるから、今度は衆愚政治になって国を亡ぼす、また、民主主義は多数決がその原理であるが、人の多さと正しさとは関係がない」、との理由による。「所詮、独裁も民主主義も、正しい仏法を根底にしなければ、国土に三災七難を招き、人民が苦悩することにおいては同じ」との説を唱えている[official 48]

自公連立政権に対する批判

創価学会を支持母体とする公明党が連立与党として国政を担う側に存在していることに対しては、「国立戒壇建立の御遺命に背き、『本門戒壇の大御本尊』を捨てるという『極限の大謗法』を犯した」との理由により反対との立場を取る[official 49]

公明党が1993年(平成5年)の非自民・非共産連立政権細川内閣)に参加すると、当時連立相手となった日本社会党(現・社会民主党)や日本新党などの各政党は一斉に本会による批判攻撃の対象となった。その後、1999年(平成11年)に自由民主党自由党と公明党の自自公連立政権小渕第2次改造内閣以降)が誕生したことから、今度は自民党が批判の対象となり、現在に至っている。

安倍政権に対しては、「与党である自民党が日本会議とその趣旨に賛同する議員連盟日本会議国会議員懇談会神社本庁および傘下の政治組織神道政治連盟と一体になって憲法を改正し国家神道を復活させ、日本を『神の国』にしようとしている」と指摘し、「主君たる日蓮大聖人の存在を無視して『神の国』を作らんとすることが国を亡ぼす『仏法上の失』になる」との理由から、「安倍晋三首相辞任、同政権退陣」を主張してきた。また公明党が連立に参加していることについても「二悪鼻を並べる」凶事だと厳しく非難している[official 50][official 51]

2017年(平成29年)10月の第48回衆議院議員総選挙前には、5回に渡って顕正新聞を安倍退陣要求の特集号とした。中でも解散直前の9月5日は『「安倍政権崩壊」特集号』[official 51]公示目前だった10月5日にも『「安倍ペテン政権」特集号』[official 50]と銘打って発行、自民党公認候補者の街頭演説会場などで配布した。さらに、2022年(令和4年)の安倍晋三暗殺事件後には『「安倍政権八年の悪政」特集号』も発行するなど、2024年の政治資金パーティー収入裏金事件による派閥の一斉解散まで安倍晋太郎・晋三・信夫親子の流れを汲む清和政策研究会が最大派閥だった自民党への批判を強めている。

北方脅威論

昭衛は中華人民共和国および中国共産党による中華覇権主義を説き、これに対抗するには広宣流布を完結させるしかなく、それができるのは「御遺命を守護し奉って一筋の忠誠を貫き通した顕正会以外にはない」[16]と主張する。朝鮮民主主義人民共和国の核脅威にも、同様の主張をしてきた。

昭衛によるこれら一連の主張は日蓮が『立正安国論』の中の「他国侵逼難」の部分で説いた元朝による侵略の可能性を、現在の北東アジア共産圏に置き換えることによって正当化される。

その他

活動

勤行
法華経』のうち、方便品第二の冒頭から十如是までと、如来寿量品第十六の長行・自我偈を読誦ののち、5分~10分ほど「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、御観念文を読む。これを)の毎日2回欠かさず行う。かつて日蓮正宗と同じ「五座三座」と呼ばれる勤行様式を守っていたが、現在のスタイルである「通し二座」を創価学会に先駆けて取り入れた。特に毎週日曜日は朝の勤行を各会館に集合して一堂に行う「日曜勤行」が開催される。
会合
総幹部会(毎月開催)
各種ビデオ放映(総幹部会・会館御入仏式・大会など)
各部班長会(男子部班長会・女子部班長会・婦人部班長会)
各組織部集会
御書講義(かつては浅井昭衞が不定期に開催していた)
布教活動
顕正会への勧誘は「折伏(しゃくぶく)」と呼ばれている。これは日蓮正宗創価学会と同様である。
こうした勧誘活動を組織的・集中的に実行推進する期間を「法戦」といい、例年では2,3,4月度法戦、6,7月度法戦、9,10,11月度法戦とに分かれている。各法戦毎に数万名ほどの入信・入会を目標とした「誓願」が発表される。この誓願が男子部・女子部・婦人部に割り振られ、それぞれの下部組織に割り当てられている。
また近年は、「日蓮大聖人とはいかなる御方か」と題する広告文や顕正新聞特集号を街頭で配布するなどしている。
広布御供養
毎年12月に一度、「広布御供養」と称して会員から寄付金を募っている。広布御供養の下限は1万円、上限は5万円である。
機関紙購読料
顕正新聞を各会館で購入する場合、1部200円。
毎年5月に機関紙「顕正新聞」の年間購読料の徴収がある。機関紙購読料(年間)は8,500円である。そのほか、顕正新聞特集号や広告文などは各会館受付などで低価格で頒布されている。
教学の研鑽
基礎教学書「日蓮大聖人の仏法」を中心に学んでいる。他に「立正安国論謹講」「開目抄を拝し奉る」「六巻抄」等)の拝読等がある。毎年1月に教学試験が実施されており、会員には受験が奨励されている。
年間行事
  • 1月1日 - 元旦勤行
  • 1月 - 教学試験(毎年登用・五級・四級の各試験が実施される。不定期ではあるが、四級合格者を対象とした三級試験が追加されることもある)
  • 2月7日 - 日興上人御報恩勤行会
  • 4月28日 - 立宗御報恩勤行会
  • 9月12日 - 竜の口法難御報恩勤行会
  • 10月13日 - 御大会式
  • 11月15日 - 日目上人御報恩勤行会

役員・幹部

主要役員

  • 会長名代・理事長・法人代表役員:浅井城衞
  • 副理事長:行成公一郎

主要幹部

  • 総男子部長:行成公一郎
  • 総合女子部長:高屋敷久美子
  • 顕正新聞発行人:塚越治喜 佐藤直樹
  • 総合婦人部長:湯浅悦子
  • 儀礼室長:横田高明
  • 教学部長:坪田敏
  • 法務部長:藤村雄大(顧問弁護士)
  • 管理室長:神崎優子(本部会館管理主任)
  • 本部渉外部長:小沼貴寛

施設

冨士大石寺顕正会札幌会館

顕正会に関係するトラブル

  • 2001年(平成13年)
  • 2002年(平成14年)
    • 5月2日 専門学校生の信者が、入信を断った男性の手首や服を引っ張るなどしたとして、暴行の疑いで愛知県熱田警察署に逮捕された。信者は容疑を認めたという[19]
  • 2005年(平成17年)
  • 2009年(平成21年)
    • 12月 「会員数名が女性に入信を強要し、逃げようとした女性に怪我を負わせたとして、千葉県警察が千葉会館を家宅捜索した」と顕正会自らが発表した。顕正会は会員を告訴した女性について「後に虚偽告訴であることを自白し、罰金刑を受けた。更に法廷尋問に於いて、創価学会の幹部と接触したことを認めた」としている[21]
  • 2012年(平成24年)
    • 3月27日 脱会者に怪我を負わせたとして新潟県警察に逮捕された元少年が、不当逮捕だとして賠償を求めていた訴訟が棄却された[22]
  • 2013年(平成25年)
    • 9月11日 信者2名が東京都内に住む男性に「入信しなければ五体満足でいられなくなる」「入信したことを家族に話したら大勢で(男性の自宅に)押しかける」などと言って強引に勧誘したとして、警視庁公安部は、強要と暴力行為等処罰ニ関スル法律違反の疑いで信者2名を任意で事情聴取するとともに、顕正会本部や東京会館など5箇所を家宅捜索した。警視庁への顕正会に関する相談件数は、2013年に入って80件超あったという。これに対して顕正会は「違法捜査だ」とコメントした[23][24]
    • 9月25日 この日開催された総幹部会で、「事情聴取を受けた会員の1人」と自称する信者が登壇し、容疑を否認した。また、取り調べの際にマスコミが報道した言葉を言ったか否かの尋問は無く、供述調書にも一切記載は無かったと述べた。昭衛は「創価学会の謀略である」「法的措置を採る」と述べた。顕正会に関する苦情が多数寄せられているという警視庁の発表については「創価学会が『K対策』と称する謀略を実行した結果である」と主張した[25]
  • 2014年(平成26年)
    • 2月26日 2013年9月11日の家宅捜索の際に取り調べを受けていた男2人が書類送検された。1人は容疑を認め、更に脱会しているという。もう1人は現役会員で、現在も容疑を否認しているほか、家宅捜索を受けてから書類送検されるまでの間に会社を退職している。「人為的な罰もある」と脅していたという[26][27]
  • 2015年(平成27年)
    • 10月5日 会員の男3人が、前日16時半頃に東京都台東区上野公園で、19歳の男子大学生に「東京見物に行かないか」などと嘘を言って車に乗せ、同板橋区常盤台の東京会館の近くまで連れ去ったとして、未成年者誘拐の疑いで警視庁公安部に逮捕された。大学生は、車内で顕正会に入会するよう勧誘され、不安になったためLINEで母親に「何者かに連れ去られている」と連絡し、母親の通報を受けた警視庁の捜査員が、東京会館の近くで4人を確保した。1人は容疑を否認し、残る2人は容疑を認めている。容疑を認めた男の1人は「一緒に会員になり仏法をやってほしかった」などと供述している。教団本部は「事実確認をしている。不当な捜査と考えている」としている[28][29][30][31]
    • 10月8日 会員3人の逮捕を受けて警視庁公安部が本部や東京会館など、複数の教団施設を家宅捜索した。教団側のコメントについては読売新聞は「一切ノーコメント」、日本テレビとFNNニュースは顕正会側の主張を「不当な捜索」と報じている[32][33][34]
    • 10月15日 新たに会員の男2人が同じ容疑で警視庁公安部に逮捕された。1人は「男性を入信させるよう指示した」と容疑を認め、もう1人は「男性と話したことは間違いない」と供述し、5人とも自らを顕正会の会員であると説明している。警視庁公安部によると、教団の強引な勧誘をめぐる相談や通報が、2015年1月から9月末までに約90件あったという。また、教団は逮捕された5人が会員であるとした上で「会の信用を失墜させるための不当逮捕だ」とコメントしている[35][36][37][38][39][40][41]
    • 10月23日 東京地方検察庁が4日の件で逮捕された会員5人のうち28歳の男性ら3人を処分保留で釈放した[42][43]
    • 11月9日 10月5日・15日に逮捕された5人のうち4人が起訴猶予となり、19歳の会員が家庭裁判所に送られた。理由について東京地検は「犯行の態様、被害者の年齢が成人に近いことなどを考慮した」としている。教団は「今回の捜査は顕正会の信用を失墜させるためのものであり強く抗議する」とコメントした[44][45][46][47][48]

脚注

冨士大石寺顕正会側の出典

創価学会側の出典

二次出典

参考文献

冨士大石寺顕正会の参考文献

  • 浅井昭衞『基礎教学書 日蓮大聖人の仏法』(2015、冨士大石寺顕正会)
  • 淺井昭衞『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ』(2004、冨士大石寺顕正会)

その他の参考文献

  • 下山正恕『冨士大石寺顕正会』(1998、株式会社日新報道)
  • 週刊新潮2005年9月29日号(掲載ページ調査中)島田裕巳 「創価学会」も恐れる過激な原理集団 「顕正会」研究(創価学会批判の一部として記載されたもの)
  • 教祖逮捕―「カルト」は人を救うか ISBN 4796617191 月刊現代1999年12月号に掲載された記事の親鸞会関連の記述も含めた加筆版が掲載されている。
  • 「救い」の正体(ISBN 4796694617) 冒頭部を除いて親鸞会関連の記載を削除し、顕正会関連記事に特化した物が掲載されている。

関連項目

外部リンク