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在小樽ソビエト連邦副領事館Вице-консульство СССР в Отару 所在地 日本 住所 北海道 小樽市 奥沢4丁目28番地開設 1926年 4月閉鎖 1938年 4月総領事 ゲオルギー・イワノヴィチ・パヴルィチェフ(副領事)
在小樽ソビエト連邦副領事館 (露 : Вице-консульство СССР в Отару 、英 : Vice-Consulate of the USSR in Otaru )[注 1] は、かつてソビエト連邦 が日本 の北海道 小樽市 に設置していた副領事館 である。
歴史 1907年 7月15日 、ロシア帝国 の首都 サンクトペテルブルク においてアレクサンドル・イズヴォリスキー 外務大臣 と本野一郎 公使 の間で議定書 が調印され、これに従って日本政府は小樽市にロシア帝国領事館開設の認許を与えた[1] 。しかし、第一次世界大戦 中の1917年 にロシア帝国で革命 が勃発したことにより[2] 、小樽に領事館が設置されるより先にロシア帝国が崩壊した[1] 。日本はソビエト 革命政権の樹立を歓迎せず内政干渉 を断行、すなわち他国と協調しながらウラジオストク など極東ロシア に派兵して(シベリア出兵 )、1922年 まで極東ロシアに留まってアレクサンドル・コルチャーク ら反革命勢力 を支援した[3] 。
1925年 1月20日 に日本とソビエト連邦の間で日ソ基本条約 が締結され、同年2月25日に批准 されたことにより、ロシアで帝政が崩壊してから長らく途絶えていた両国間の外交関係が回復した[4] 。1926年 4月、在小樽ソビエト連邦領事館 (露 : Консульство СССР в Отару 、英 : Consulate of the USSR in Otaru )[注 2] が開設された[1] 。
1927年 8月、駐日ソビエト連邦大使館 が日本帝国外務省 に対して小樽の領事館を在小樽ソビエト連邦副領事館 に改組する旨を通告した。漁業従事者 やサハリン 北部の石油 ・石炭 開発地域で働く日本企業の従業員へのビザ等の領事文書の発給が、副領事館の主な業務であったが、ビザの申請手続きの減少に伴い、まず1933年 に5月から9月までの夏季限定の業務に変更された後、1938年 4月に閉鎖された[1] 。
所在地 北海道 小樽市 奥沢4丁目28番地[注 3]
館長 在小樽ソビエト連邦領事(1926年 - 1927年) 代 氏名(日本語) 氏名(ロシア語) 着任 退任 備考 1 アレクセイ・ワシリエヴィチ・ワシリエフ Алексей Васильевич Васильев 1926年 1927年 [1] [5]
在小樽ソビエト連邦副領事(1927年 - 1938年) 代 氏名(日本語) 氏名(ロシア語) 着任 退任 備考 1 ニコライ・ステパノヴィチ・リュビモフ Николай Степанович Любимов 1927年 1930年 名はロシア語ソースの Николай を優先[1] [5] 2 イワン・ペトロヴィチ・ベロフ=サペギン Иван Петрович Белов-Сапегин 1930年 1932年 [1] [5] 3 ミハイル・イワノヴィチ・ライネ Михаил Иванович Лайне 1932年 1933年 [1] [5] 4 ピョートル・イワノヴィチ・ルィジョフ Петр Иванович Рыжов 1934年 1935年 [1] [5] 5 エドゥアルド・エドゥアルドヴィチ・ロンド Эдуард Эдмундович Рондо 1935年 1936年 [1] [5] 6 ゲオルギー・イワノヴィチ・パヴルィチェフ Георгий Иванович Павлычев 1936年 1938年 [1] [5]
脚注 注釈 出典 関連項目 外部リンク ロシアの在外公館
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