日緬関係

日本とミャンマーの二国間関係

日緬関係(にちめんかんけい、ビルマ語: မြန်မာ-ဂျပန်နိုင်ငံဆက်ဆံရေး英語: Japan–Myanmar relations)は、日本ミャンマー二国間関係である。1989年までのミャンマーの旧称ビルマに基いて、日本とビルマの関係ビルマ語: ဗမာ-ဂျပန်နိုင်ငံဆက်ဆံရေး英語: Burma–Japan relations)と呼ばれることもある。

日緬関係
JapanとMyanmarの位置を示した地図

日本

ミャンマー

両国の比較

ミャンマー 日本両国の差
人口5141万人(2014年)[1]1億2711万人(2015年)[2]日本はミャンマーの約2.5倍
国土面積68万 km²[1]37万7972 km²[3]ミャンマーは日本の約1.8倍
首都ネピドー東京
最大都市ヤンゴン(旧・ラングーン)東京
政体大統領制議院内閣制[4]
公用語ビルマ語(ミャンマー語)日本語事実上
国教なしなし
GDP(名目)657億7500万米ドル(2015年)[5]4兆1162億4200万米ドル(2015年)[5]日本はミャンマーの約62.6倍
防衛費N/A409億米ドル(2015年)[6]
地図

歴史

19世紀末頃からイギリスにより植民地支配されていたビルマでは、第二次世界大戦後半に相当する1942年から1945年にかけてビルマに独立を約束した日本軍が占領して軍政を敷いていた。日本軍がビルマから駆逐された後にはイギリスが支配者として返り咲き、1948年に独立を勝ち取るまで宗主国イギリスの支配下にあった。植民地の中でも「米どころ」として広く知られていたビルマは、独立したばかりの頃には東南アジア諸国の中でも最も将来を嘱望されていた新興国のうちの一国であった[7]。しかし、1962年クーデターで政権を奪取したネ・ウィン将軍が率いる軍事政権が社会主義体制を取ったことによりビルマ経済は停滞し、1987年には国連から最貧国に認定を受けるに至った[8]。こうした慢性的な経済危機にあったビルマにとって、資本主義体制を取る日本との経済協力はイデオロギーの対立を超えて重要なものであり、日緬関係はアウンサンの時代から大変濃密な関係にあり[9]、第二次大戦後の日緬関係は良好なものであり続けた。ビルマに対する戦後処理は、1954年に締結された賠償協定で最終的かつ不可逆的に決着している[10]

一方で、ミャンマー(1989年に改称された)の軍事政権による統治は国際的な非難を浴びることが多い。日緬の情緒的な関係の近しさとは裏腹に、政治や経済面における両国関係は薄かった。2010年アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が合法政党化されるなど民主化が進んで以降は、日本企業のミャンマー進出が加速していた。それが2021年2月にミャンマー軍が事実上のクーデターを起こすと、複数の日本企業が撤退し、日本からミャンマーへの投資は縮小し始めた[11]

第二次大戦前

ウー・オッタマ(1879 – 1939)

1885年、ビルマが第三次英緬戦争英語版に敗北してイギリスに占領され、イギリスの植民地となる[12]

日本が日露戦争に勝利した2年後の1907年、仏教僧ウー・オッタマビルマ語版英語版が来日する。彼はビルマの民族解放運動の先駆者として知られる[13]。日本語に通じ、日本とビルマを行き来し、1915年に『日本』を執筆、ビルマ青年に多大な影響を与えた[14][13][15]。続く1913年伊藤祐民がビルマより留学生6人を受け入れる[16]。貿易面では1928年に、日本は米価調整を目的に外米輸入制限に関する勅令を公布した。これにより加工用の砕米が中心であったラングン米の日本への輸出が制限された[17]

第二次大戦中

日本兵とシュエターリャウン寝仏英語版

1941年に日本がイギリス・アメリカらに宣戦布告した際には、日本はハワイ真珠湾とイギリスの植民地マレー半島を同時進行で攻撃し、日本軍はマレー半島からイギリス勢力を駆逐する[12]。この時アウンサンは日本訪問後、ビルマ独立義勇軍英語版を組織し、日本軍と共闘した。翌1942年には日本軍がイギリスの植民地ビルマを占領、軍政を敷き、日本はビルマの独立を約束し[12]、さらに翌年の1943年、日本軍はビルマの政治的独立を認め、バー・モウを首班とするビルマ人自身の政府を作る[18]。同年8月1日には、日緬同盟条約が締結される[19]。アウンサンは日本に招かれ旭日章を受章し、ビルマ新政府の国防相となる。ビルマ共産党、抗日ゲリラ組織の反ファシズム攻撃隊結成[18]

だが、日本が対アメリカ戦線で連戦連敗を重ねたしわ寄せがビルマにも押し寄せる。1944年、アウンサン将軍(アウンサンスーチーの父)が離反して面従腹背で反日抵抗運動を開始する[20]。さらに、インパール作戦失敗による日本軍の後退に伴ってイギリス軍が再びビルマに侵攻する[18]。アウンサン将軍は社会党・共産党と合作し反ファシスト人民自由連盟を結成した[18]。そして翌1945年、アウンサン将軍が抗日武装蜂起を決行、ビルマ駐屯の日本軍は駆逐された。しかし、ビルマ独立は成らなかった。再度ビルマに舞い戻って来たイギリスに支配されたのである[8]

第二次大戦後

第二次大戦後の1947年反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)総裁のアウンサン将軍が暗殺され、AFPFL副総裁のウ・ヌーが総裁に昇格する。翌1948年、ビルマはイギリスの植民地支配から独立した。ウ・ヌーが初代首相に就任した。竹山道雄が、ビルマに駐屯していた旧日本兵を主人公とする文学作品『ビルマの竪琴』の連載したのも、1947年から翌1948年までである[21]。ビルマと日本の間で平和条約、賠償協定(第二次世界大戦の賠償について規定)が締結されるのは、1954年のことである[1]。2年後の1956年市川崑が『ビルマの竪琴』を映画化した[21](主演:安井昌二)。

1962年、ネ・ウィン将軍がクーデターでウ・ヌー政権を打倒してビルマの国権を掌握、軍事政権による支配体制を敷く、日本との関係は維持された[8]。同じ62年には、国際法上の捕虜としての正当な扱いを受けず、ビルマでイギリス軍に強制労働させられた旧日本兵の会田雄次が『アーロン収容所』を出版している[22]1963年にはビルマと日本の間で経済技術協力協定が締結され[1]1972年にはビルマと日本の間で航空協定が締結された[1]

1988年、ネ・ウィン将軍が無血革命により辞任(いわゆる8888民主化運動)する。ビルマの軍政は終焉するも[8]、同じ年のうちにソウ・マウン参謀総長が反革命クーデターを決行、1000人以上もの死者を出してクーデターが成就し、ビルマの軍政は再開された[8]。同じ年のうちにアウンサンスーチーが国民民主連盟(NLD)の結党に参加して書記長に就任、以後ビルマの民主化運動を率いることになる[23]。軍政再開翌年の1989年、ビルマがミャンマーに改称された。イギリス・アメリカなど西側諸国の多くは軍事政権の主導する改称に反対したが、日本はいち早く改称を承認した。

アウンサンスーチーがビルマ軍政により自宅軟禁されたのも、同じく1989年である[23]。2年後の1991年にアウンサンスーチーはノーベル平和賞を受賞した。だが軟禁中のため授賞式には参加できなかった[23]

2010年代

安倍晋三とアウンサンスーチーとの会談(2019年)

2010年、アウンサンスーチーが軟禁を解かれて政治活動を再開、党首として再度NLDを率いる[25]。日本企業のミャンマー進出が盛んになり、2012年には日緬合弁のMJTDが開発主体となって、ティラワ経済特区として指定されたヤンゴン(旧・ラングーン)近郊の川沿いの牧草地に工業団地の造成を開始した[26]2013年にはテイン・セイン大統領の主導によりミャンマー日本協会(ビルマ語: မြန်မာ-ဂျပန်အသင်英語: Myanmar–Japan Association、略称: MJA)が設立される[27]。さらに2014年、ミャンマーと日本の間で投資協定が締結された[1]。そして 2015年:、NLDが総選挙で圧勝して政権を獲得し、ティンチョーが大統領に就任した。アウンサンスーチーは憲法の規定により大統領就任資格がない[24]ため、代替職となる国家顧問に就任した。

2016年、「ロヒンギャ」を自称するベンガル系ムスリム不法移民の武装集団がラカイン州で警察官を襲撃して9名の警官が殉職した。この事件を契機にミャンマー政府は治安を強化する[28]。翌2017年、前年の武装襲撃事件を調査していた政府調査委員会による最終報告書が発表され、同事件が外部から支援を受けたテロ事件であり、当局の事後対応に問題はないと周知した[28]。これに対し国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がミャンマー国軍によるベンガル系ムスリム武装集団の鎮圧を批難した。日本はこの批判に同調せずミャンマーとの友好関係を維持した[28]。同様に2018年国連人権理事会がミャンマー国軍による「人道犯罪」の責任追及を目的とする独立機関設置を求める決議を採択したが、日本を含む7カ国は棄権した[29]

2020年代

在ミャンマー日本国大使館の前で行われた反クーデター抗議デモ

2020年新型コロナウィルスの感染拡大によりヤンゴンで外出規制が敷かれている中、連邦団結発展党(USDP)や人民先駆者党(PPP)などの野党は感染拡大防止のため総選挙の延期を要求したが、NLD政権は予定通りに総選挙を実施[30]。総選挙の結果、上下院の合わせて476議席のうちNLDが396議席を獲得[31]

この総選挙を「不正選挙」と見なした国軍が2021年にクーデターを起こした。ウィンミン大統領とアウンサンスーチー国家顧問を含むNLD幹部を一斉に拘束した後に1年間を期限とする非常事態宣言を発出し、ミン・アウン・フライン国軍司令官が国権を掌握した。ミャンマー軍政の再開[32]。この非常事態宣言に対して、日本は外務大臣談話により「(日本は)重大な懸念を有している」(英語: Japan has grave concern)と前置きした上で、国軍に対してアウンサンスーチー国家顧問の解放や民主的な政治体制の早期回復を求めた一方、「クーデター」や「制裁」への直接的な言及は見送られた[33][34]

2022年9月20日、日本の防衛省は、来年度からミャンマー国軍留学生の新規受け入れを停止すると発表した。但し、既に2022年度の時点で受け入れている国軍留学生11名については課程を終えるまで継続する[35]。同年9月27日に執り行われた故安倍晋三国葬儀については、国家行政評議会(SAC)からも国民統一政府(NUG)からも出席がなく、駐日大使館からソー・ハン駐日大使および同夫人が参列した[36]

経済関係

2021年年度の対日輸出は約9.7億ドル、対日輸入は約2.9億ドルとなっている。対日輸出品は衣類、魚介類、農産品が多く、対日輸入品は電子機械類、自動車が多い[1]

ミャンマーの木材であるビルマチークを現地で製材して日本へ直輸入する株式会社藤本(広島県)は、比較的早くからミャンマーに進出して経済制裁の時期にもミャンマーから撤退しなかった日本の民間企業のうちの一つである。当初は株式会社藤本材木店という屋号で、1970年にビルマ農林大臣からの木材購入依頼を受け、同年中にラングーン(後のヤンゴン)で現地駐在員事務所を開設。その後は木材の輸入だけにとどまらず、ビルマ国営木材公社との二人三脚で現地での生産や生産指導などに取り組んで、1993年にはヤンゴンに現地法人Kyaw Trade (S) Pte Ltdを設立[37]

1998年、ミャンマー建設省住宅局と三井物産の共同開発により、ミンガラドン工業団地が開設された。ヤンゴン市中心部から20km、ヤンゴン港まで24km、ティラワ・コンテナターミナルまで50kmという立地で、工業団地と同名の駅ミンガラドン駅から徒歩20分、ヤンゴン国際空港から7kmの位置にある[38]

国民民主連盟(NLD)政権末期の2021年1月時点で、ミャンマーは東南アジアにおける日本の最も有力な投資先の一つとして積極的な経済開発が行われていた[9]。しかし、2021年2月にミャンマー国軍事実上のクーデターを起こして国権を掌握すると、酒造大手のキリンホールディングスが撤退するなど日本企業によるミャンマー投資は縮小へと向かい始めた[39]

文化と宗教

ビルマ戦没者供養塔(成福院摩尼宝塔)で展示されている竪琴

日本では、文学作品『ビルマの竪琴』や同映画作品[21]、ノンフィクション作品『アーロン収容所』(会田雄次[22]などといった文化面でもビルマの名が広く知られている。

加えて、上座部仏教が保持されている国としても名高く、タイの仏僧に弟子入りした日本人の柴橋光男(還俗前の法名はアーチャン・カベサコ)のように、西澤卓美(還俗前の法名はウ・コーサッラ)などが、ミャンマーの仏僧に弟子入りしていたこともある[40]

外交使節

駐ミャンマー日本大使

駐日ミャンマー大使

国民統一政府(NUG)駐日代表

  1. ソー・バ・フラ・テイン(2022年~)[57][58][59]

出典・脚注

関連項目

外部リンク